首狩り峠
ほんのわずかに残酷描写を含みます。
俺はサークル仲間の坂元・森下とともに、G県の山間にやってきた。二泊三日の旅。今日はその最終日だ。最後の予定の登山をし終えて、これから東京に戻ることになっていた。
この旅行サークル自体は、もっと大勢のメンバーがいるのだが、今回はなかなか都合がつかず、たった三人での寂しい旅行となってしまったのだ。とはいうものの、この二人とは仲もいいし、そんなことは気にもならなかった。あっという間の三日間。遊んで、飲んで、騒いで。俺を含めて三人とも、心の底から楽しんでいた。
また三人でどこか旅行へ行こう。
そんな約束を立てた。
すっかり遅くなってしまった。もう既に陽は沈みかけている。しかし、俺たちを乗せた車は依然G県内の峠道を走っていた。辺りの木々は斜陽に照らされ、オレンジ色に染まっている。都会では決して見られない、息を呑むような美しい光景だった。
「もうこんな時間か……。すっかり遅くなっちまったなあ」
後部座席の森下が腕時計を見て呟く。
「軽い登山にするつもりだったけど、寄り道しまくったからな。本当はもうちょっと早めに切り上げるつもりだったんだけど」
俺はハンドルを握りながら、バックミラー越しに答えた。
「まあ別によくね? 明日も休みだしさ」
助手席の坂元が欠伸をしながら能天気に言う。
しばらく曲がりくねった峠道を右に左に曲がりながら車を進ませていると、これまでずっと道なりで黙りこくっていたカーナビが突然、
『100m先、右方向です』
と告げた。
その直後に、道路のわきにさびれた看板が立っているのが見えた。
『首狩り峠、80m先、右折』
首狩り峠……? 不気味な名前だ。
さらに車を走らせると、それらしき三叉路にぶち当たった。カーナビのいう道は明らかに左の道よりも暗く細い。まるでこことは別の世界の入り口のような気味悪さ。その上さっきの看板のこともある。本当にこの道でいいんだろうか。
「なあ、これ、こっちでいいのか?」
誰にともなく尋ねるが、森下は特に気にしていない様子で、
「カーナビがそうなってるんだから大丈夫だろ。近道かなんかさ」
「そうそう、んな気にすることじゃねーよ」
坂元もどうでもいいようで適当に森下に合わせているようだ。
俺は若干不安な思いを抱きながらも、結局はそこを右に曲がった。
さっきまでの道よりも明らかに街灯の数も少ないし、鬱蒼とした木々の葉が車道のほうにまで飛び出している。あまり車の通行量は多くないようだ。しかしそれだけじゃない。どうにもさっきから誰かに見られているような、俺たち三人以外に誰かがいるような、そんな気がしていた。だが今の俺には、とにかくカーナビに従って、車を走らせるしかない。こんな山道、早く抜け出したい。しかしそんな気持ちとは裏腹に、辺りは先ほど以上に暗くなっている。木々に隠れてはっきりとはわからないが、恐らくもう完全に陽が沈んでしまったのだろう。それでもいまだに、この曲がりくねった道の終わる気配が見えない。
「ちょっとやばくねーか、これ」
不安と焦りに負けて、思わず声を出す。しかし、返事がない。
どうかしたのかと思って、助手席を見ると、既に坂元は深い眠りについているようだ。こちらの気など露知らずといった様子で口を開け、気が抜けるような顔をしている。後ろの森下も後部座席に横になって寝ていた。人が運転してるっていうのに。
「ったく、俺はお前らのタクシーじゃねえっつの」
言いながら、話し相手がいなくなってしまったので、気分を紛らわそうとラジオをつけた。音楽が流れる。名前は知らないが、今流行りのアイドルグループの曲だ。その明るい曲調に、少しばかり俺の不安も消されているような気がした。
すっかり暗くなった峠道をさらに走っていると、遠くに蛍光色の物体が一つ、ぼんやりと浮かんでいるのが見えた。近づくにつれて、その輪郭は徐々にはっきりとした形になっていく。どうやら人の姿であるらしい。こちらに向かって、手を振っている。
こんな時間に、なんだろう。遭難か?
スピードを落として、車を停めようとしたとき、俺は気づいてしまった。
それは遭難者でも、通行人でもない。いや、この世の人間でさえなかった。
首がない。
その明るい色の服の上にあるはずの頭部が、ごっそり消えているのだ。それが、俺に向かって手を振っているのだ。
体が硬直し、それから目が離せなくなった。叫び声はおろか、声を出すこともできない。
車のスピードを上げた。
通り過ぎる際も、俺はそれをずっと見続けていた。
一体なんだ、あれは。
「おい、起きろよ」
前を見ながら、俺は隣の坂元の肩をゆすった。しかし、起きようとしない。
「起きろっつってんだよ!」
ついに怒鳴り声を上げたが、やはり二人ともピクリともしない。
さっき見たものを、信じることができなかった。見間違いだろう。そうに違いない。
無意識に、アクセルを踏む足に力が入る。車のスピードが徐々に速くなっていく。
その時、ラジオが狂った。
音楽が歪む。不協和音。調子はずれのメロディーは、元々の明るい曲のせいで、余計に不気味さが増す。
「なんだ、これ」
ラジオのチューナーをいじって直そうとするが、無意味だった。余計におかしくなるばかり。原曲とはかけ離れた雑音。呻き声のようなものが混ざっているようにも聞こえる。まるで死者の叫びのようだ。
「くそっ! おい、いい加減にしろよ!」
ラジオを叩く。直りはしない。
さらにカーナビにも異変が現れた。
画面がぐにゃりと歪み、ブラックアウトした。
「おい」
どうなってんだよ、一体! と、声を上げようとしたが、そこで止まった。
カーナビの画面。真っ黒の画面に、上から赤い液体が垂れたように、画面が赤く染まっていく。暗がりで見るそれは、生々しい血のように見えた。
恐る恐る画面に触れる。生暖かい感触。べとつき、指にまとわりつくそれはまさしく血だった。
『500m先、右方向です』
突然の合成音声に心臓が飛び上がる勢いだった。心臓が早鐘を打つ。じわりと皮膚の表面をなぞる汗。自分の意思とは無関係に体の末端が震える。
『300m先、右方向です』
『100m先、右方向です』
それはいつものように、無機質で無感情な音声だった。
『50m先、右方向です』
カーナビ通り、道が二つに分かれている。しかし、こんなカーナビの指示になど、従うはずがない。
俺は今度は左に車を進ませた。
『右方向です』
「これでいいんだ」
俺はカーナビに答えるように呟いた。
しかし、またもカーナビはおかしくなった。
『右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です。右方向です』
同じ音声の羅列。そして警告音。俺はカーナビの電源を切った。
『右方向です』
音声も警告音も止まない。
『首を、くれ』
突如変化した音声。それは機械のものでも、生きた人間のものでもない、憎悪の塊と耳障りな音だった。
直後、音声が途絶えた。ラジオの音までもが止まり、不気味な静寂が車内を支配する。
ようやく収まったのか。安堵した俺は、二人を起こそうと助手席を見た。
再び俺の思考と身体が硬直する。
そこには呆けた寝顔をした坂元の頭はなかった。
ただ、骨や血管、気管が顔を出した、ぐちゃぐちゃの首の切断面があったのだ。さらに、後ろを見ると森下の頭部もなくなっていた。
頭ではそれが何なのか理解することはできていたが、感情が追い付かない。悲鳴さえも上げることができなかった。それに釘づけになるだけで、一瞬、俺が今何をしているのかも分からなくなった。
気が付いたときには遅かった。
完全に前を向くのを忘れていた。
俺たちを乗せた車は、スピードを上げながらガードレールを飛び出した。暗闇の広がる谷底に落ちていく。どこかにぶつかった衝撃で頭を打ち、俺の意識が遠ざかっていった。
目が覚めると、俺は病院にいた。ベッドの脇で点滴を交換していた看護師が、それに気づいて誰かを呼びに行った。
しばらくして、彼女は医師を連れて戻ってきた。
「気が付いたかい? もう大丈夫だ」
「こ、ここは……?」
「病院だよ。君は事故を起こしたんだ」
俺はとにかく、ようやくあの忌々しい場所から逃れることができたことに、ただただ安堵するだけだった。
「それに友達も無事だよ」
医師のその言葉に、事故を起こす前に見た光景が脳裏に蘇る。妙に生々しい白日夢。
「よお、大丈夫か?」
坂元だ。一瞬の戦慄。俺は思わず身構えた。しかし坂元は暢気に隣のベッドのカーテンの隙間から、ひょっこり顔を出してきた。意識を失う寸前にはなかったはずの頭部が、しっかりとそこにある。俺は心底安心した。あれは俺の恐怖が生んだただの幻覚だったのだ。
「俺も無事だぜ、残念だったな」
冗談を言いながら、森下が現れた。やはり彼にも頭部が残っている。幻覚だったということに確信が持てた。
そんな二人の顔を見て安心したら、急激に猛烈な眠気に襲われた。
その日の夜、俺は隣の坂元の声で目が覚めた。すでに消灯時間は過ぎているのか、病室は真っ暗だ。おまけに外も曇っているのか、周りがよく見えない。
「おい、起きてるか?」
「なんだよ」
「いや、実はさ、俺」
言いながら、坂元は仕切りのカーテンを開けて俺のそばに近寄る。徐々に近づく黒い影。俺はそれを見て、再びあの悪夢に呼び戻された。
昼間に見たときはあったはずの坂元の頭。それが今また、消え失せていた。
「おまえのくび、ほしいんだよ」
およそ人間のものとは思えないそれは、明らかに坂元の声ではなかった。しかしどこかで聞いた声だ。不協和音の塊。耳障りなかすれ声。まさしくそれは、あのカーナビから流れてきた不愉快な音。
部屋の入り口から、首のない森下も現れた。手に何か持っている。長い棒のようだが、暗くてよく見えない。
俺はナースコールのボタンを連打した。しかしさっきとは違う。ここは病院だ。助けがくる。そのせいか、幾分気持ちは落ち着いていた。
「大丈夫ですか? どうかしましたか?」
さっきの看護師の声だ。慌てた様子で走るいくつかの足音がここにも聞こえてくる。
「はっ、早く来てください!」
俺は叫んだ。もう大丈夫だ。これで助かるのだ。
しかしその考えは、脆くも崩れ去った。
やってきた看護師と医師たちの頭部は、すでになくなっていた。
愕然と絶望。
「そ、そんな……」
一瞬にして地獄に突き落とされて気分だ。ありきたりな表現だが、それが一番今の俺を的確に表していた。そんな俺にはお構いなしに、森下が近づいてくる。
「おい、来るな……。やめろ……」
目が暗闇に慣れ、ようやく森下の持っているものがはっきりとわかった。斧。わずかに黒い血が付着した斧だった。
「おい……。俺たち、親友だろ? やめよう、もう……」
眼前の光景が歪んだ。頬を温かい滴が流れる。
俺の懇願を無視して、森下は斧を持つその手を振り上げた。