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売店を冷やかした。展覧会の図録や関連書籍のほか、今まで扱ったことのある作家の関連グッズなども売っている。有名作家が作ったアクセサリーなども売っていたが、これを本当につけたいかと言われれば首を傾げるようなへんてこな品物が多い。そのくせ高額だ。
以前訪れて、良かったと思った展示の図録が再販されていた。前回は買わなかったがこれを逃すと今度こそ手に入らない気がして迷う。近頃注目されてきた画家の、日本初個展だったのだ。財布の中身を考える。アルバイトもしていない高校生の財布は常に寂しいが、今月の昼食代を親にまとめて貰ったばかりだ。厚い冊子を掴むと、レジに向かった。
これでしばらくは節約生活だ。育ち盛り(まだ成長すると思いたい)の男子高校生には苦行である。足早に去って行った数枚の紙幣のことを思うが、いくら思ったところで仕方のないことで、その対価は今俺の右手にぶら下がっている。いいんだ、この画家の画集ってほとんどまだ出回っていないんだから。未練がましく考えながら、売店を出ようとしたところに、見覚えのない四角いケースがおいてあることに気がついた。
ガチャガチャだ。こんなところにあっただろうか。数年ぶりに見かけるケースは、美術館の売店という場所には似つかわしくないように思えた。スーパーマーケットだとか、そういうところにあるものではないのか。身をかがめてパッケージを確認し、目を瞬いた。そこには見慣れ(てしまっ)た石膏像の写真が写っている。否、石膏像の形ではあるのだが、どうやら本物ではない、ミニチュアのようである。保井が寄越したミニチュアマルスはこれだったのだ。奴もこのガチャを回したのだろうか。いくつもマルスが出るまで?
シリーズはお馴染みの石膏像9体とシークレットを合わせた十種類のようだった。シークレットはシルエットで描かれていたが、その形を見ても皆目見当がつかない。こんな石膏像あったか?おおよその胸像に共通するような、頭の丸みから首、肩の張りなどの人体のシルエットのようにはどうにも見えない。
表示されている料金は200円。高いと感じるのは先ほど大金を失い貧乏になったばかりだからか。それでも硬貨を二枚取り出し、投入口に差し込んだ。レバーは一瞬だけ抵抗したけれどすぐに回転し、ごろんと取り出し口から球体が転がり出た。
カプセルを開ける。開封の勢いで手から飛び出しそうになって慌てて掴んだ中身は、馬の頭部だった。
「……ん?」
馬の頭部、をかたどった像なのだろう。こんな像の写真は、パッケージには載っていなかった。同封の紙を見ると、『シークレット・セレネの馬』と書かれている。
「なんでシークレットが馬なんだよ」
うっかりつぶやき、誰かに聞かれていないかと辺りを見る。俺の視線に気づき、店員が営業スマイルを浮かべる。聞かれてはいないようで安堵した。
それにしてもいきなりシークレットを当てるというのは、運が良いのかなんなのか。
(運が良いってんなら、他に当たるべきやつあるだろ)
半裸でヘルメットの軍神とかさ。
でも、俺もあいつも既に持っているから、いらないといえばいらないのかもしれない。シークレットだって、保井は持っているかもしれないからな。
それから俺の調子は少しだけ持ち直した。俺の絵を見てため息をつくか素通りするだけだった講師が、「おっ」と足を止め、満足げに俺を見ることが多くなった。
こうなると、早いうちに話さなくてはならない。自分の調子が良くなったから仲直りをするなんて、都合の良い人間だと思われそうだ。それはそれで間違ってはいないけれど、本当は逆だ。保井と仲直りしたいと思ったできごとが、俺の調子を取り戻したんだ。
講習が終わってから再び、俺は夜間部、保井は昼間部に戻った。保井がさっさと帰ってしまえば俺に会う手だてはない。土日は人が多いが、平日よりはチャンスがあった。
ロビーには、先日行われた秋のコンクールの上位作品が置かれている。俺の絵はそこにはない。十一位という順位はともかく、絵の出来は負けた気がしていない。だが悪いところも見えていた。講師の助言も素直に聞き入れられていた。
そのロビーを通り抜けて、今日は水色のコートを羽織っている保井の背中に追いついた。
話しかけるのには、多少の勇気が必要だ。俺はまた、保井にひどいことを言ったまま、謝りもしていない。
「コンクール一位、おめでとう」
俺は保井の背中に話しかけた。
「ありがとー」
彼女は振り向いて、へらりと笑った。俺はそのまま保井に並んで、歩調を合わせる。
「マルスのおかげだよね、本当に。愛の勝利!」
彫刻科のコンクール課題は、マルスのデッサンだったらしい。愛する石膏像が出た保井はのりのりで描き、当然のように一位を取った。と聞いている。
保井の言葉を無視するふりをしながらも、『マルスのおかげ』というのを『俺のおかげ』と勝手に脳内変換する俺は少し頭がおかしくなっているかもしれない。
「……俺さ、なんとなく分かった気がするよ。保井さんの言ってることっていうか」
「え、どれ?」
「保井さんのデッサン、見た。本当に美しいものを、写し取ろうとしてるの、分かったよ」
俺の精一杯の謝罪だった。謝罪といったって、ただ思ったことをそのまま言っただけだ。素直に一言「ごめん」で良いのだと思うけれど、うまく口には出せなかった。
保井は目を丸くして俺を見た。眼鏡のレンズ越しの目は、それでも大きくて、キラキラしているのがよく分かる。
「あ、そうそう、石膏像ガチャ、俺も見つけたからやってみた」
突然話題を変えると保井は拍子抜けしたようだ。取り出した馬のミニチュアに、私も持ってるよと呟いた。
「コンビニ、寄っていい?」そう断って明るい店内に入った。
買うものは肉まんとジュース。そろそろ涼しいを通り越して肌寒い季節になりつつある。肉まんとおでんはこれからが出番だ。保井は何も買うものがないらしく、俺の後ろについてじっとこちらを見つめていた。俺は決して振り返らなかったが、その視線はいくら鈍感でも分かるくらいに背中に突き刺さった。
コンビニエンスストアを出てきっかり十歩。しかしそれは俺の歩数であって、のろのろと歩いていた保井は俺より数mは後ろにいる。その後ろから、保井は俺に声をかけた。
「分かったかもしれない。私も」
「何が?」
保井は答えなかった。ただひどく機嫌が良さそうだ。大げさにくるりとその場で回ってみせた。
「今年は受かるかもしれないよー?」
そうだといいと思うけれど、安請負も出来なくて、くるくる回る姿を眺めている。
「受からなくても、いいんだ、分かったから」
受かった方が良いけどね、と笑う。どっちだよ。
「私ねえ!」
いつもの調子、に見せかけて、声が緊張している。俺はわざと視線を前に戻し、歩みを再開した。保井が息を吸った。
「……マルスが大好きです」
「はいはい。俺もマルスは嫌いじゃないよ」
ああ。もう、嫌いじゃない。好きでもないけど。言いながらも、保井が求めているのはこの答えじゃないのは分かっていた。案の定、保井の声は焦れる。
「丸住裕斗くんのことだよ?」
「分かってるよ」
返事がないから振り向くと、保井は目を丸くして俺を見ていた。
「俺も保井真木さんのことが好きだよ?」
俺に言わせれば、保井が『分かった』のは遅すぎる。ぽかんとしているのが面白かったから、一気に歩を詰めて、半分に割った肉まんを口に突っ込んだ。
「これで一緒に受かんなかったら笑えるな」
保井は急いで肉まんを飲み込むと、勢い込んで言った。
「絶対受かってね!絶対受かるから!」
正直分からんと思っていたが、なんだかんだ二人して受かった。現役合格した俺に、結局四浪で受かった保井は複雑な目を向けていたが、まあ、これからは受験なんて関係ないキャンパスライフだからな。歳の差を埋めることができて、却って都合がいいくらいだ、とポジティブに考えることにしている。