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美術のある分野や歴史をばかにしているような主人公の発言がありますが、作者の思想ではありません。気分を害されましたら申し訳ありません。

 あっという間に夏が終わる。ずいぶん過ごしやすくなった。尤も、学校であれ予備校であれ、日中過ごすところでは常に冷房が入っているから、暑くて辛いことはほとんどなかった。晩に寝苦しいのがなくなって、それでようやく秋を感じた程度。

 体感的にはそれくらいでも、受験生にとっては夏を終えていよいよ、というムードが高まる。より実際の試験問題に近い形の課題が出され、取り組む受験生たちの表情も心なしか硬い。

 俺はと言えば、先日受けたセンター模試の点数が悪く、講師に親に責められていたところだった。

「美術ができればいいんだろ。頭なんて関係ないじゃん」

 そう言い返すと、周囲はため息をついた。実際、公立の大学であれば美術の実技以外のペーパーテストを課すところなんてほとんどなく、センター試験だって実技の点が良ければ得点率四割でも受かると言われているのだ。

「なんで現役生なのに勉強できないかなあ」

 そう言ったのは、いつの間にか自習室で隣に座っていた保井だ。

「あんたは」

 保井は模試の結果を俺に差し出した。

「A判定だって、笑っちゃうよね」

 前述の理由で、実際には受かる実力を伴っていない受験生でも美術系大学では容易にA判定をとれる。もちろん、実技が出来ればペーパーが悪くても受かるが、その逆はそうそうない。教育系では多少その傾向があるらしいけれど。

 だからA判定にはそう驚かないが、受けた全ての教科で八割九割の点数がとれていることに俺は目を剥いた。

「……なんで浪人生なのに勉強できんの」

「私、頭でっかちなんだよねえ」

「ふうん」

 なんだか面白くないし、直感で動いているような保井に頭でっかちと自称されても全くピンと来ない。

「あのね、マルスくん」

「ん」

「私、マルスくんが思うほど、変でも面白くもないよ」

 保井はそっぽを向いていて、表情は見えなかった。

「……いいよ」

「え?」

 こちらを振り向いた。細い縁の眼鏡のつるには、レリーフ状の細かい模様が施されている。

「俺には十分面白いから、いいよ、それで」


 余った食パンを口に押し込んだ。ほんの少し木炭がついてしまっていたが、そんなもの知るか。

 絶不調だ。描くもの描くもの、全てがつまらなく、へたくそで、だめだ。俺の主観ではない。いつもポジティブな講師も、俺のデッサンを見て顔をしかめたし、谷山を始めとする同じ油絵科現役生も「調子悪いな」と指摘した。

「見たまま描けば良いんだよ、『マルスくん』」

 講師は空気を読まずに、俺にそう諭した。それを聞く周りの受験生たちは、ひっそりと笑う。

「そういや、あいつのあだ名、マルスだよな」

「マルスのくせにマルスはへたくそなんだね」

 聞こえているんですが。

 俺は散々だったマルスのデッサンをこそこそとしまいながら、惨めな気持ちで予備校を出る。

 好きでマルスなんて呼ばれてるわけじゃない。俺が呼んでくれって頼んだわけじゃない。マルスなんてあだ名だからってマルスがうまいわけじゃない。マルスが好きなわけじゃない。

「よ、マルスくん」

 そういうときに限ってこの女は出てくるんだ。

「何、無視?聞こえてる?」

 聞こえているけど、聞きたくない。

「ねえマルスくんてば」

「俺、丸住っていうんですけど」

ぼそぼそと呟く。

「え、うん。それは知ってるけど。どうかした?マルスが嫌になった?」

 俺は同じ過ちを繰り返す。感情に任せて、保井に向かって吐き捨てた。

「最初っから嫌いだよ!」


 ばかで結構。絵が描けさえすればいいんだ。

 そう思っていたのに、描きたい絵だけを描かせてはくれないし、変な女はいるし、センター模試の点数だってなぜか求められる。予備校での受験勉強なんて、ちっとも楽しくなかった。俺はこのままでいいってこと、うまいって認められている安心感、それくらいしかここに価値はないと思っていたのに。

 絵すら思うように描けなくなって、俺はどうしたら良いんだ。美術の入り口にも立てないようなら、目指す価値はないんだろうか。


 彫刻だってそんなに好きじゃない。具象はつまんないし、抽象は古くさい。モノ派とか、何それ。保井のことだって、好きじゃない。少しばかり情がわいただけだ。

 腕にわずかな刺激を感じて見下ろした。そこには雫が一粒落ちている。雨か、と思うと同時にぱたぱたと雨粒が落ちてきて、あっという間に結構な本降りになった。俺は傘を持っていない。

 慌ててあたりを見渡して、コンビニがあれば傘を買おうと思う。しかしコンビニエンスストアを見つける前に、俺の本来の目的地が目に入った。

 美術館だ。

 

 走って美術館に駆け込んだ。数分のあいだにかなり濡れてしまったけれど、入館を断られはしなかった。ハンカチで申し訳程度に拭って常設展に入った。

 ここには、俺の好きな絵がある。俺は、必要だと言われたから過去の画家の絵も多少勉強したけれど、正直くそくらえだと思っている。こいつらの真似をするわけにもいかないし(もちろんしたくもないし)、彼らの絵を見て感動することも少なかった。それらが評価されたことには、時代背景も強く影響していて、もはや絵自身の価値と完全に切り離すことができないのだ。そういうところも嫌いだった。

 けれどもただ一つ、この絵だけは。大きな画面に鮮烈な一色。そして強い線で描かれた、けれどもどこかおぼろげな建物。三年前、初めて見たときには、心臓が締め付けられるような衝撃を覚えた。ひどく惹きつけられて、数十分その絵の前から離れることができなかった。

 この絵を見るために毎日でも美術館に通いたかったが、定期的に収蔵品の展示を入れ替えるこの美術館では、見られる時期は限られていた。秋の常設展と銘打って半年ぶりに展示されたのだ。


 きれいだ。

 俺は静かにため息をつく。平日の閉館前、しかも常設展では、人はほとんどいない。俺はこの絵を独占することができる。

 こんな絵を描けたらと思っていた。こんなふうに、誰かひとりでも惹き付け、心臓を締め上げるような絵を。

 描けないんだろうか。

 俺は、ただの凡才だったんだろうか。


 そこに美しいものがあったら、それは美しいから、写し取ることなんてできない。それ以上に美しい何かを作るしかない


 そうだろうか?


 見たまま描けばいいんだよ


 そうなんだろうか?


 もう一度見上げた。館内には、閉館20分前を告げるアナウンスが流れている。

「そのまま、描いたんだろうか?」

 こんな美しい風景が、現実にあるんだろうか?

 それとも、世界ってこんなに美しいんだろうか……?


 オリーブグリーンのワンピースが浮かんだ。ついで、派手な色のタイツ。眼鏡のレリーフ。


 美しいなんて思ったことなかったのに。

 こんなときに女を思い浮かべるなんて、少女マンガみたいで恥ずかしい。

 美術館の窓からは、いまだ雨脚の弱まっていない屋外が見えた。きっと今以上に濡れて帰ることになりそうだ。ため息をついたが、その顔が笑っていることも自覚していた。


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