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四年なんて、大したことじゃない、きっと。俺の四年前といえば、中学生で、がきんちょだった。だけど今、あのころの不完全さを全て克服して完璧な人間になっているかと問われれば、もちろんノーだ。分かりきった話だ。あいつが四つ年上だからって、俺より素晴らしい人間だなんて、そんなこと本気で信じていたわけじゃない。ただ、あんな表情をするなんて思わなかったんだ。
「保井さんとけんかした?」
俺の周りには多分、空気を読めない奴しかいないのだ。けれども今度もやはり、こんな公共の場で辛気くさい顔をしている俺にも非があるのであって、谷山に一方的に当たるわけにもいかない。
「けんかとか、小学生じゃねんだから」
「けんかは大人もするだろ」
至極真っ当な突っ込みをして、谷山は俺の顔を覗き込んだ。
「保井さん見かけても真っ先に顔逸らして見ないふりしてるだろ」
「それは元からだよ」
「嘘こけ。見かけたらにこにこしてたくせに」
「してねえし!」
こればかりは声を大にして言いたい、そんなことはまかり間違ってもしていない。できるだけ痛い女とは関わらないでおこうとしていたはずだ。
「どっちが悪い?」
「知らねえよ」
谷山には答えなかったが、悪いのは俺だろう、多分。そもそも別に、けんかをしたわけではない、本当に。俺が一方的に傷つけ(たような気になって)、気まずく思っているだけだ。
夏になった。夏期講習には見知らぬ顔も多い。こんな時期なのにほぼ初心者から始めてどうにかなると思っているんだろうか。学科の予備校ならよくあることなのかも知れないが、五教科などの勉強は小学校からずっとしているのに対し、美術大学受験の勉強はこれまで少しもしたことがない人が多数だろう。付け焼き刃な訓練でうまくいくものか。
案の定デッサンがうまいとはいえない受講者を見ながら、俺は彼らを少なからずばかにしていることに気がついた。俺自身、美術受験だけに手慣れた浪人生のようにはなりたくないと思っていたのに、そんな目で初心者たちを見ていたのだ。俺は人をばかにしたり、傷つけたりしかできないんだろうか。なんとなく気分が落ち込む。
自習室には数人の見慣れた奴と、それより多い見慣れない奴。当たり前だ、そのどちらかしかいない。外部の受講者が、行き場に困ってたむろしているのが多いように見える。
「やっほ、マルスくん」
「あ……どうも」
一方的に気まずい思いをしていたのは俺だ。だから保井はあの日のことなんか忘れきって話しかけてきたんだろうと思う。けれど俺はそのことに戸惑い、ぎくしゃくした態度をとってしまう。
「あのさ、保井さん」
「はいはい」
保井はご機嫌そうな声で返事をする。俺は視線を合わさないように顔だけ彼女に向けた。
謝ろう、そう思って口を開いたが、今さら謝るべきことかわからない。彼女自身がうやむやにした、あるいは忘れたのであれば、わざわざ蒸し返して良いものでもないように思えたのだ。
「……今日コーヒー飲みに行きませんか」
「マルスくんはキャラメルラテじゃん?」
周囲の何人かが、ぴりぴりした受験生だけがいるこの自習室で堂々と男が女をお茶に誘う、という場面を目の当たりにして顔をしかめた。
そのあと、コーヒーショップの中では、特筆すべきことは何もなく、同じような会話をだらだらと繰り返すだけだった。保井はいつもと変わらず、ぼーっとしているかと思えばとんちんかんなことを言い出す。普段通りの調子に安堵するが、その片隅で不安も感じていた。保井が実際どう思っているのか、分からなかったからだ。臆病者だ、俺は。
店を出てから、保井は俺にどうやって帰るのかと尋ねた。いつもは出てすぐに別れていたから、戸惑いながらも正直に答える。
「JRです」
「あ、じゃあ、駅までは一緒じゃん!」
保井は駅から出ているバスで帰るのだと言う。いつも違う方向に歩き去っていくから、てっきり逆方向なのだと思っていた。駅まで違う道で向かっていただけらしい。
「こっちの方が早いんだよ。夜はちょっと怖いけどね」
「そんなところ歩くなよ、女だろ」
びっくりした顔で俺を見るから、「女性でしょ」とちょっと丁寧に言い直した。それでも保井の目は丸いままだったので諦めた。
しばらく無言で歩く。俺はやっぱり気まずいままで、こんな空気ならさっさと別れてしまいたいが方向が一緒だからそういうわけにもいかない。
「私の友だちがね」
「え、はあ」
急に友だちの話が始まった。たいして興味はないが、保井はどこか緊張している様子なので、そのまま見守った。保井は早口で言う。
「私の友だち、みんな大学生になって、短大とか専門に行っちゃった子はもう就職してて、うーん、なんだか、足踏みしてる感じは拭えなくって。だからマルスくんに、四年間無駄にしてきたって言われたみたいで、悔しいっていうか、ショックで」
友だちの話ではなくて俺の話だった。
「四年間無駄にしたなんて、言ってない」
「わかってるよ、わかってるけどね。勝手にそう思っちゃってね」
「ただ俺は、なんか急にあんたが卑屈になったからイライラして、そのまんま言っちまっただけで」
「わかってるよ、イライラしたんだよね。するよね」
お互い何だか混乱してるように思えて、俺は慌てて保井の肩を叩く。
「ちょっと、落ち着こう」
俺自身にもそう言い聞かせた。保井ははっと俺を見て、顔を赤くする。こんな往来の中であることを思い出したのかもしれない。いつの間にか大きくなっていた声を抑えて、保井はぽつりと呟いた。
「……なんていうか、だから、別に怒ってないし」
「…………うん」
やはりお互い気にしていたらしい。それでも保井が俺とこうして話してくれることに、安心した。もしかしたら、こんなことで俺たちは二度と話さなくなるのかなんて思っていたから。
……別に深い意味はない。友人関係が崩れたら、誰だって気にするだろ。
そろそろごまかすのが難しくなってきた頃、保井は再び口を開く。
「あのね」
黙って彼女を見遣る。なんだかふてくされた子どものような表情をしていた。
「マルスは美しいもん。その美しさに少しでも、追いつきたいって思うじゃん」
「……うん?」
「それだけ。それだけ言おうと思って。うん、なんか、よくわかんなくなったけど」