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 普通の予備校のように、美術の予備校にも模試がある。コンクールといわれるそれは、一日で全員同じ課題をこなし、順位をつけられ講評されるというものだ。学科の全国模試のように大学の合格判定が出るわけではないが、「他人の作品と見比べて確認ができる良い機会」なのだそうだ。

 そりゃうまい奴は気になる。上位になればなるほどだ。けれどもそれはあくまで、受験生たちの間だけでうまいというだけで、ひよっこたちが作品集めたところで、という気もする。

「他人と比べてどうだってんだ」

 そう呟くと、近くにいた谷山に、お前こそなんで美大志望してんだと訝しがられた。美術大学に行かなくたって絵は描ける。わざわざそこへ行くということは常に比べられ評価されの連続であるというのに。俺自身よく分からない。

 階段を上る保井の姿が目に入った。彼女はこちらに気づく様子もなく、他の受験生達と同じく大きな荷物を持って視界から消えた。


 俺にとって保井とは、どういう存在になっているのか。なんとなく気になる存在であるのは確かだ。気にしてないなんて意固地になっても、それは気にしているということを裏打ちしているだけだ。認めよう、俺は保井が気になっている。しかしそれは恋愛云々ではなく、その強烈な存在感のためである……と俺は信じたい。目立つ奴が目の前をうろうろしていたら、気になるのは道理だと思う。それだけのことだ。

 ただ俺は、保井の彫刻を見たことがない。デッサンも、塑像も、何も。その思考に触れたことはない。そうだ、きっとそれが気になっている。あいつの手から何が生まれるのか、あいつの頭の中には何があるのか、それを知りたいのだ、きっと。


 折しも課題は「胸中」だった。俺の胸中、あいつの胸中?そういえば、あいつはどうして俺につきまとうのだろうか。やはり、「マルス」だから?俺はマルスじゃないのに。あいつだって分かってるだろうに。「俺の絵が気になる」?自分は見せようとしないくせに。

 もやもやした気持ちで描いたのに、あるいはだからなのか、コンクールでは二位だった。たった百人足らずの中の二位なんてなんの価値もない。順位をつけてもどうしようもないと思いながらも、ついた順位には多少の反応をしてしまう。それは、周りの受験生達の目もあるからだろう。中には、この模試が生き甲斐だったかの如く意気消沈している者もいる。美術をやるための準備である受験の、さらに準備であるというのに、そんな調子ではいつかナーバスで死んでしまいそうだ。つまり、そんな中にいれば自分の順位を全く気にせずクールでいるなんてとてもできないのである。

 ただ、変な言い方になるが、俺の中では順位は順位であって、絵とは関係ない。絵の出来によって順位がつくことはわかっているが、あくまで予備校の講師がつけたものだ。俺の目を奪うのは一位の絵ではなかったのだ。


 もやもやにコンクールでのことがプラスされ、俺は少なからず冷静ではなかった。気がつけば多くの受験生はもう予備校を出ていて、俺は一人になっている。のろのろと予備校の玄関を出て、道路に降りていく石段にぼんやりと座り込んだ。何も考えられず、時間を置いて気持ちを落ち着かせたかった。

「ジベタリアンだー」

 声がしたが、何を言ったのか全くわからない。とりあえず振り向いて、予測はしていたけれどその人物を確かめた。

「今、なんて言いました?」

「え、ジベタリアン」

「地べた?」

「うそ、わかんない?」

 ショックを受けた様子で保井は近寄ってくると、俺の座っている段の一段上にすとんとしゃがみ込んだ。振り返った俺より少し視線が高い。

「日本語使ってください」

「やだなあ、ジェネレーションギャップ」

 口調だけで嘆きながら、しゃがんだ足を片足ずつ降ろして俺と同じ段に座った。俺はそれを眺めている。正直、空気読めよと思っていた。誰とも話したくなかったが、本当に一人になりたければもっと違う場所があっただろうから、座るなとも寄るなとも言えない。

 派手な色のタイツが目立った。顔を見ると、今日は太縁の眼鏡だった。その奥の目が細くなって、笑ったみたいだ。

「コンクール二位、おめでとう」

 俺は言った覚えはない。藤吉辺りから聞いたのだろう。

「……ありがとうございます」

「悔しかった?一位じゃなくて」

「いや。俺が負けたのは、三位の奴」

 俺は首を振った。保井は苦笑する。

「生意気ですねえ」

「あんた、俺より四つ年上なだけだろ」

「まあねー」

 だが、四つも年上だ。これまで学校で、一つの歳の差はいかにも重大なもののように教育されていたせいで、四つ上という年齢がいまいち想像できない。保井は保井という人物で、年齢なんて関係ないもののように思える。

 もう一度保井を見る。やっぱり笑っていたが、ふざけている調子ではなかった。

「……悔しかったんでしょ?」

「だから、」俺が負けたのは……、

「うん。だから、三位の人の絵見て、悔しかったんでしょ?」

 俺は口をつぐんだ。一位の奴の絵は、どうでもいい。小手先の、いかにも『傾向と対策』を勉強したような絵だった。俺の目を奪ったのは、三位の奴だ。

 睨みつけるみたいな鮮烈な色で、画面を乱暴に支配する。しかし見え隠れする直線が、冷静さと執着を感じさせた。

「あれは、俺には描けない」

 ぽつりと呟いたが、保井は何も言わなかった。


 保井の絵を初めて見た。

 予備校一階のロビーに貼り出されていた。彫刻科受験生のコンクールで一位だったらしい。本人はあんなに奇抜なのに、描いてある絵は実に堅実で、悪く言えばつまらない。ただひとつ、他の彫刻科の奴の絵と比べて、光がきれい、それだけだった。何しろ彫刻科の奴ら、形重視なんて言っていつも真っ黒なデッサンを描くのだ。

「そりゃあね。受験問題が違うじゃん。マルスくんはさ、そのまんま描かなくてもいいっていうか、そのまま描いたらそれこそ面白くないって言われちゃうでしょ」

「じゃあ、大学に入ったら、どんなものを作るんだ?」

 単純な疑問だった。しかし保井はぎくりと口をつぐみ、「いじわるなこときくね」と俺を睨む。

「大体さ、この世にあるものって、すべて美しいじゃない」

 逸らされているなとは思ったが、代わりの話題の方にも興味を引かれて黙って続きを促す。全て美しいというのは、正しく全てだろう。万物すべての有り様が美しい。おおよそ美術においては、醜いものなんてありはしない、と俺は思う。

 俺の肯定の念を読み取ってか、保井は頷いた。

「なのに、そこに美しいものがあるのに、それを写し取らずに、頭の中だけで描くの?」

 抽象全てを否定しているとも取られかねない発言だ。俺は一瞬考えて、答える。

「そこに美しいものがあったら、それは美しいから、写し取ることなんてできない。それ以上に美しい何かを作るしかないんじゃないの」

「ううん、でも結局それは、美しいものをモチーフにするしかないじゃない?だから、ええと……」

「全く新しいものはできないってこと?」

「まあ、そうかな」

「それでも、じゃあそのまま写しましょうってことにはならないだろ、必ずしも」

「そうだけど」

 頷きはしたが、完全に納得はいない表情の保井だ。

「でもなんにしろ、傾向と対策って大事だと思うよ。君が求めてることって、大学でいくらでもできるじゃない。基礎が前提としてないと、大学の貴重な時間を無駄にしかねない」

「それこそずれてる。『傾向と対策』と『基礎』は違う」

 いつものコーヒーショップだ。俺はなんだかんだキャラメルラテを飲んでいて、保井は相変わらずホットコーヒーだ。しばらく沈黙して、お互い飲み物を飲んだ。やがて保井が口を開く。

「……君には関係ないか。基礎も充分お上手だもんね」

 言葉には刺があった。むっとして保井を見ると、彼女はなぜか泣きそうな顔をしている。唖然として見つめていると、その視線から逃れるように顔を逸らして、明るい語調で言う。

「天才っているんだよねえ。突出した何かを持っている人って、どうやっても」

 保井が何を言いたいか分からない。

「人にはそれぞれ役割があるとかさ、欠けても良い人間なんていないなんて言うけどさ。それって別に、誰もが天才になれるなんて言ってるわけじゃないじゃん、もちろん。歯車は歯車として、いなくちゃ困るってだけで、全員が何かしら輝くなんて、実際ないじゃん」

 急に始まったネガティブな発言に、俺は困惑する。それが誰にでも辿り着きそうな平凡な結論なだけに、いっそういらついた。

「……ってことがさ、なんとなく、わかってきちゃったんだよね」

「……俺より四年長く生きて、わかったことってそれだけ?」

 俺の言葉に、彼女は顔を曇らせた。傷ついた表情にも見えた。

われながらジベタリアンなんて単語は久しぶりに思い出しました。死語ですね

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