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 しかしそれ以来、俺は妙に懐かれてしまったらしい。

「マールスくん」

 結構な高確率で、保井は階段を上る俺を呼び止める。彫刻受験科の教室がある階より上に、油画科の教室があるのが恨めしい。

 俺は観念して振り向いた。

「……なんですか」

 保井はにこにこと俺を見上げていた。今日の保井は、グレーの短パンに黒タイツ、だぼっとした薄手のセーターを着ていた。なんだか印象が違うと思えば、眼鏡が先日と違って太縁になっているようだ。

 いつもは俺が振り向くと、それだけで満足してあいさつだけで帰っていくのだが、今日は続きがあるようだった。

「今日私これからバイトでさ、終わるのが夜間部終わるのと同じくらいなんだよね」

「はあ」

「お茶しない?」

 『お茶をする』という表現自体、結構古いような気がする。

「……あの、すみません。俺、ちょっと用があって……」

 当たり障りのないように断ったつもりが、保井には通用しないようだ。「じゃあ空いてる日にでも」と言われ、携帯電話を差し出された。

「なんですか?」

「アドレス交換しよ?」

 なんだか、伝わっていない。俺は態度と遠回しな言葉で、この女を拒否したつもりだったのだが、全く構う様子もなくぐいぐいと迫ってくる。たまたま携帯電話を持って操作しながら歩いていたため、「今日忘れて……」「電池切れてて……」などという言い訳もできない。

 連絡を無視すれば良い。いざとなれば、アドレスが消えたことにすれば良い。自分に言い聞かせながらアドレスを交換した。そんな言い訳で逃れられないような予感には、気がつかなかったことにする。


 二日後には、なぜかコーヒーショップで保井とテーブルを挟んで向かい合っていた。

「あの……」

 俺が声をかけると、保井は顔を上げる。その勢いの良さに少したじろいだ。

「なに?」

 今日は保井は、藤吉と三人で会ったときと同じ、細縁の眼鏡をかけていた。

「眼鏡、何個も持ってるんですか」

 何、どうでも良いことを聞いているんだ、俺は。しかし保井は嬉しそうな顔をした。

「そうそう。三つ持ってるの。新しいの欲しくなるんだけど、前のもまだ使えるから気分で使い分けてるんだ」

「そうなんですか」

 しばらく沈黙。猫舌らしい保井は、まだコーヒーに口をつけない。俺はキャラメルラテを一口飲んだ。今回はアイスにしたが、今の季節には少しだけ冷たすぎて、保井の飲んでいるホットコーヒーがうらやましくなった。

「……丸住くんって、甘党なんだ?」

「は」

「この前もキャラメルラテ飲んでた」なぜか得意げに保井は指摘した。

「…………あの、前も言ったと思いますけど、俺、マルスってあだ名だけど、マルスじゃないんで」

 おずおずと切り出すと、保井は一瞬目を丸くして、それから吹き出した。

「わかってるよおー。だってマルスくん、全然ひょろひょろだし、どう見ても日本人顔じゃない!」

 このいかにも頭のねじが外れてそうな女に笑われるというのはなかなか我慢ならないものがある。俺が不機嫌になったのをさすがに察したのか、保井は笑いを引っ込めて弁解した。

「ごめん、ごめん。別にね、丸住くんのこと石膏像のマルスと同一視したりしてるわけじゃないよ、もちろん。最初は確かにそれで気になったけどさ」

 保井はひらひらと手を動かして顔をわずかに左に傾けてしゃべる。彼女の癖のようだった。

「だってマルスだもんね!美大志望者がマルスって、もうネタだもんね」

「で、何が言いたいんですか」

「……君の絵が気になっただけだよ」

 左肘をついて保井は言った。その瞬間の唇の動きと、左手が前髪をくしゃりと掴んだのをぼんやり眺めた。

「あんな、受験用の絵ですか」

「そういうつもりだけで描いてはないでしょ?」

 そうだろうか、と俺は思う。そりゃ、『傾向と対策』なんてくそくらえと思っている。けれども他の受験生だってそんなことは思っているはずだし、そうはいっても試験内容を完全に無視して合格できるはずはない。コンクールで上位になる奴の絵が気にならないはずもないのだ。

「受験以外で描いてるの?」

「いや……」

 そういえば最近、否、ここ一年近く、受験に関係ある絵しか描いていない気がする。

「…………描いてない」

「ああ、あんまり気にしないで。自分を棚に上げて言ってるだけだから。私も全然だし」

 ぱたぱたと手を振って保井は言う。声色とは裏腹に、表情は決して底抜けに明るいというわけでもない。

「だからなんていうか、こうしてときどきお話しして、マルスくんの思ってること聞きたいっていうか、それだけ」

「はあ……」

「お友だちになろって、それだけだよ」

「はあ……」

 また『はあ』だけで会話を終わらせてしまった。しかし保井はそれでも嬉しそうに微笑んだ。


 どういうつもりなんだろうなあ。俺は考える。俺のことが好きとか?そんなことあるかな。まだ会って二週間ほどしか経っていない。

 ……俺に彼女はいない。中学生のとき、クラスメイトと付き合ったことはあるが、あんなものは所詮子どものお遊びだったんだろう、多分。高校に入ってからは、別に興味がないでもなかったけれど、なんとなく機会がなくて誰とも付き合ったりはしていない。予備校に通い出したというのもあるだろう。

 もちろん保井は見かけるたびにあいさつをしてくるから、谷山にだって気づかれて、近頃にやにやとこちらを見てくる。鬱陶しい。

「なんだかんだ続いてるんじゃん、お前ら」

「続くも何も始まってない」

「またそういうこと言うのな。いいじゃん、可愛いんだから、あの人」

「俺たち、受験生だろ?」

「急にストイックぶってんなよ」

 受験では、ほんの数時間で油絵を仕上げなければならない。乾かなくては次の色をのせられないというとき、よく受験生は揮発性の高い油を使う。揮発性が高いということは、きつい油の臭いが室内に充満するということになる。その油は有害な有機溶剤であったり石油系溶剤であったりするのであまり体に良いものではない。初めてこの教室に入る人間は一様に顔をしかめるが、受験生たちはすっかり慣れて(麻痺してともいう)その臭いを気にすることはほとんどなくなってしまう。

「彼女に、臭いって怒られちまった」

 谷山の奴は、こう見えて幼馴染みの彼女がいる。どこのマンガだよと思わなくもないが、お互い本当に好きあっているという話なので余計な突っ込みはしないでおいている。馬に蹴られたくはない。

「もう染み付いてんだよ、仕方ないって」

「いや、まだ大丈夫なはずだ。ツナギを着た上にエプロンをしてだな……」

「それってただ汚れないだけで臭い関係なくね?」

 いつものばか話をしているが、この臭いの中で平然とパンをかじれるようでは解決には至らない気がする。俺も結構麻痺してしまっているが、さすがにこの中で飯は食えない。


「……保井さんって、油絵の具の臭い、嫌いですか」

「えー、嫌いじゃないよ」

 保井とは週一ペースで会っている。いつも彼女が誘ってくるのを断りきれないパターンだ。まあ、本気で嫌じゃないんだろうなと自分でも思う。確かにそれなりに可愛い顔しているし、胸もあるし。相変わらず石膏像に話しかける痛い女ではあるようだが、そこに目を向けなければそこまで問題はないようだ。

「あ、でもあれ、なんだっけ、テレピン?だっけ?あれの臭いは結構近くで嗅ぐと辛いよね」

「あ、そうですか」

 じゃあ今の俺は、保井に臭いと思われているんだろうか。電車内で他人にあからさまに顔をしかめられたことがあるから、俺にだって絵の具の臭いは染み付いてしまってるんだろう。

「え、なあに。そんなことで嫌ったりしないよ!」

「そうですか」

「ただどうやってんのかわかんないけど、石膏像に絵の具つけるのは感心しないなあ」

 乗り出していた身を仰け反らせて大仰に腕を組んだ。またそっちに話を持っていくのかと、俺は少しいらいらする。

「また石膏像すか。自分で買えば?」

「うーん。考えないでもないけど。だったらより精巧なものがほしいよね」

 考えないでもないのかよ。

「そんなに好きなの?」

「大好きだねえ」

 にっこり笑ってそう言った。

 …………。

「もっかい言って」

「え?マルス大好き」

「……」

 自分で促しておきながら少し照れる。すると何か察したらしい保井が慌てて言った。

「あ!違うからね!私が好きなのは石膏像のマルスだから!マルスくんじゃないから!何言わせてんの!」

「へー、マルスが好きなんですね。マルスがねえ」

 照れ隠しに、からかうように早口で言った。保井はますます焦って変な声を出している。

「じゃあ、どんなところが好きなんですか?」

「そ、そりゃあねえ!筋肉だよ!あのがっしりした肩!胸!全身見たことある?均整のとれた体つきはもうかっこ良すぎるよ!それでいて端正な顔つきしてるでしょ?日本人じゃ絶対にあり得ないような」

 ……聞かなきゃ良かった。

 俺とマルス像がかけ離れてることくらい、わかってるのに。

 …………いや違うだろ。長々と石膏像の話聞かされてるから後悔してるんであって、保井が好きなのがマルスで俺じゃないのを聞かされてるからとかじゃない。


 間違っても、俺がこいつのこと気になってるからとかじゃない。よな?


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