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マルス像。本物の像はルーブル美術館に収められている、「ボルゲーゼのアレス」という彫刻だそうだ。マルスという存在自体はローマ神話の軍神で、ゲームやマンガの題材にもされているから、知っている人も結構いるだろう。マーズと読めば、火星のことも指す。
俺のあだ名のマルスは、言わずもがなこのマルスからとられている。美術大学を受験する学生たちにとってマルス像というのはかなりメジャーな部類らしく、「丸住です。あだ名はマルスです」というと、大抵の人が「ああ」と笑みをこぼす。覚えられやすくて結構だ。
今日から描くのは、いくつか与えられた物体を元にイメージして描くという課題の絵だ。多少は縛りがあるものの、イメージして描くというのは好きだ。少しうきうきして、予備校に着いたのもいつもより30分早い時間だった。この時間はまだぎりぎり昼間部、つまり浪人生たちが描いている頃だ。どうしようかと思っているうちにチャイムが鳴ったので、そのまま階段に向かった。昼間部が終わってもしばらくは入れ替えでどたばたするだろうけど、教室に行って先に課題を確認したい。
えっちらおっちら階段を上っていると、各階の廊下が騒がしくなってくる。昼間部の生徒が帰り支度を始めているのだろう。こんなに早く来られたから、デッサンの日だったらいい場所とれたんだろうけどな、と思った。でも今日はデッサンより数段良い課題だから残念とは思わない。
二階から三階へ上がろうとしたところで、二階の廊下の方から名前を呼ばれた気がした。
「……ねー、マルス?」
「はい」
聞こえた名前に半ば無意識に反応して、振り向いた。
昇降口のところに立って、ぽかんとこちらを見つめる二人組の女性と目が合った。思わぬところから返事があった、という顔だ。というより、そのとおり思わぬところから返事をしてしまったんだろう。知らない人だし。
「あ、すみません。聞き間違いでした」
さっと謝ってその場を去ろうとした。こういうのは時間が経てば経つほど恥ずかしくなるものだ。そこに、谷山の声が後ろからかかった。
「おす、マルス、早いな?」
「おす。お前こそ早いな」
「俺はいつもこんな時間だよ」
知らなかった。そう言えば確かに、いつも俺より先に席についている。追いついてきた谷山と連れ立って階段を上っていると、谷山がこそっと俺に囁いた。
「今の人じゃね?前言ったの」
「前?」
「ほら、石膏のマルスが好きな昼間部の」
「ああ……」
石膏像のマルス好きの浪人生の話を、以前谷山がしていた。さっきのがその人だったとしたら、もしかして、あれは聞き間違いではなく、本当に「マルス」と言っていたのだろうか。
「…………」
……え、石膏像に話しかけるって、おかしくね?
「可愛かったな、ほんとに」
「あ、そう?」
「お前見てなかったのかよー」
普通に会話の中でマルスと言っただけなのを、俺が勝手に呼ばれたと勘違いしただけなんだろう。石膏像に向かって呼びかけるなんてするわけないし、そもそも階段に石膏像はいないし。
とそのときの俺は思っていたが、その実、彼女は、本当に石膏像に話しかけるかなり痛い女だったのである。
土曜日、昼間部と同じ場所で課題をこなす。高三にもなると、受験課題に即した課題が出されるようになって、「基礎、基礎」とうるさく言われることがなくなってきた。大学の受験問題だって、近頃は正確な写生を求めていないのだから、最初からいろんなものを自由に描かせてくれれば良かったのに。
コンビニで菓子パンを買って戻ってくると、昼間部の生徒が俺の絵を覗き込んでいた。
「あの、なんですか」
「面白いの描くね、丸住って言ったっけ」
同じ大学の同じ学科を受ける予定の、三浪くらいしている人だ。俺の絵を見てこの色がどうのと話したが、何でいきなり話しかけてきたのか、俺にはまだ掴めていない。するとその人はふいに話を変えた。
「なあ丸住って、マルスってあだ名なんでしょ?」
「はあ」
「俺の同級生でさ、石膏のマルスがすっげえ好きな奴いるんだけどさ。どっかから丸住の話聞いたらしくて、会ってみたいんだとさ。ごめんけど、今日終わった後時間ある?」
「はあ?」
石膏のマルスが好きな人って多いんだな、なんて思わない。間違いなく、先日会った浪人生だろう。名前が似ているだけの人に会いたいとか、その人を誘うのに別の人を使うとか、他人の迷惑を考えていないのだろうか、噂のマルス好きは。俺の怪訝な表情に少したじろぎながらも、その浪人生は引かなかった。
「悪い、ちょっと変わり者なんだよ。茶おごるからさ」
「はあ」
『はあ』しか言えずに会話が終わった。しかし俺は今日、家に帰る前にその変わり者に面会しなくてはならなくなったらしい。
予備校の近くに、チェーンのコーヒーショップがある。俺たち油画受験科の授業が早く終わったので、先にそちらに向かった。俺には好きなものを頼ませたのに、その多浪生は自分では一番安い飲み物を頼んだ。これだけ多浪していたら金もなくなるんだろうな。いや、多浪できているんだから金はあるのか?
「あ、俺の名前覚えてるっけ?」
「藤吉さんですよね?」
「ああ、うんうん、良かった」
「あの、これから会う人は?」
「あっと、保井っていうやつなんだ。彫刻の」
彫刻の浪人生、間違いなく谷山の言っていた人物と一緒だ。
「あ、来た来た。保井、こっち」
きょろきょろとトレイを持って立っていたのは、茶髪の女性だった。オリーブグリーンのワンピースはシンプルなデザインだったが、身体によくあっているように見えた。
「ごっめん、遅くなって」
どかどかと席に座り、焦ったようにコーヒーを飲んで、案の定「あちっ」と声を上げた。
「落ち着けって、保井。あ、こいつが、保井っていう奴ね」
「はあ」
ぼんやり保井の顔を見ていると、保井は俺をちら見しながらどぎまぎと藤吉を伺った。
「あの、この人が……」
「そうそう。丸住ね」
「こんにちは……」
「あ、こんにちは」
ようやくまっすぐ俺を見て、一瞬目を落とした。それをごまかすように、眼鏡を外して拭いた。
「あの、マルス、くん?」
「はい」
マルスと呼ばれて返事をしたことに保井は満足したようだ。眼鏡をかけ直し、俺に問う。
「マルス、好き?あ、石膏の」
「……いや、特には……」
どっちかというと嫌いだ。それが好きな人間に対してそこまでは言わないけど。
「そっか」
もう一度目を落とす。
「あの、会ってみたいって聞いたんですけど」
会ってどうするんだ、と聞きたかった。
「うん、マルス、私好きなの」
それは前から聞いてますけど……。マルス好きなのって面と向かって言われると、ちょっとどっきりしてしまう。どうでもいいけど、この人ちょっと胸が大きい。
「でもあの、俺はマルスってあだ名なだけで、マルスじゃないんで……」
「そうだね」
そう言って保井はコーヒーをすする。俺もどうしようもなくてキャラメルラテを飲んだ。しばらくの沈黙。隣のテーブルの、姦しいOLだか女子大生だかの会話が聞こえてくる。童貞がどうのこうのって、日のあるうちから堂々と何の話してんだよ。早く帰りたい。
俺よりも、隣の藤吉がそわそわとしだした。引き合わせた以上、俺の機嫌が気になるんだろうと思う。そして俺はそんな藤吉に気を使わなきゃいけないような気がしてしまう。保井が話さないなら、俺がこの場を終わらせるべきなのか。
「あの、俺、そろそろ」
おそるおそる切り出すと、保井はぱっと顔を上げた。
「あ、そうだね」
そして鞄に手を突っ込み、何かをごそごそと探し始める。やがて目的のものを見つけたのか、手を引き抜くとこちらにずいっと伸ばしてきた。
「これ、あげるね」
差し出されたのは、ガチャポンの丸いケース。透明な丸いケースを見下ろして、ちょっと嫌な予感を覚える。手を出さない俺に業を煮やしてか、保井自身の手でそのケースは開けられた。そこから現れたのはミニチュアのマルス像だった。
「……マルス?」
「あー懐かしいな。石膏像ガチャだ」
何年か前流行ったんだよな、と藤吉が言った。国立の芸術大学の学生が型を制作し作られたことでも有名なのだそうだ。
「私、何個も持ってるから」
そう言って、なんと保井はミニチュア石膏像を見下ろして、「ねー、マルス。寂しいけど、マルスくんのところの方がいいよね」と言ってのけた。声かけた。この女、人形にしゃべりかけた。
絶句している俺の手に、保井は人形を押し付けた。
「ってことで、あげるね。お近づきの印」
いらねえ。
「……ありがとうございます」
本音を出さずに礼を言った俺はさっさと立ち上がり、藤吉に会釈してから店を出た。
正直に言うと、人形はいらないし、保井ともお近づきになりたくない。しかしまあ、科が違うし、これ以上お近づきになることはないだろう。そもそも、今人形に話しかけてみせたのも、彼女なりのジョークの類だったのかもしれない。うん、と自分に言い聞かせて、電車に乗って帰った。
次の日、廊下をマルスを抱えて歩く保井の、「今日はヘルメスだって、残念だね。またマルス描いてあげるからね」などと話しかけているのを目撃した俺は、もらったミニチュアマルスを今すぐ捨てたくなった。