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美術大学受験についての描写がありますが、基本的に作者の想像です。実際と違う場合も多々あるかと思います、ご容赦ください。
美術に興味があった。美術の授業はつまらなかったけど、何でも好きなものを描いていいと言われれば嬉しくなった。ノートの端書きでは物足りなくなった頃に、美術大学の存在を知った。美術教師は相談されて嬉しそうな顔をしたけど、受験勉強に関してはそっぽを向いた。しょうがないから学校に届いていたチラシの中で、一番最初に目についた予備校に通うことにした。
勉強の予備校は、高校受験のときにちょっとだけ通ったことがあったから、なんとなくイメージがあったけれど、美術大学受験用の予備校は、独特の雰囲気があった。汚い壁のビルに一歩入ると、絵の具の匂いがした。大きな四角い鞄を持った受験生がこちらをちらりと見て通り過ぎていった。やがて通された部屋でパンフレットを渡され、いくつか説明をされたあと、ちょうど今講評をしているから見て行くと良いと大きな部屋に案内された。
白黒のデッサンが、壁に備え付けられた四段くらいの溝にびっしり並んでいた。それを見つめて、講師が容赦ない一言を言っていく。何か言われるのは上の段の数枚のデッサンだけで、他は一瞥もされない。受験生たちは必死に何かを手元にメモしていた。
その異様な雰囲気に圧倒されて、これから自分がこの中に混じる実感は少しも湧かなかった。ただ、白黒ばっかりはつまらないな、なんてことを思っていた。それが高校二年の春のことだ。
空腹を覚えて、手元のパンを見た。木炭を消すために使われる食パンは、木炭の黒にまみれてとてもじゃないが食べられるようには見えない。そっと袋から新しい食パンを取り出して、口に押し込んだ。
再び絵に向き合う。受験勉強の一環で描かされる、石膏でできた人間の像を、俺はどうにも好きになれない。元は有名な彫刻たちなんだろうけど、何度も型に取られたせいで本物より数段形が甘くなってしまっている。この生気がない目を、どうやって好きになれって言うんだ。特にこいつ。俺はパンを咀嚼しながら、自分の絵越しに像を見た。半裸の男。変なヘルメット被ってさ。
時計をちらりと見る。もうすぐ夜間部の授業が終わる時間だった。授業と言っても、みんながそれぞれに課題をこなすだけだけど。今日はあんまり身が入らなかったけれど、こんな日もあるよな。今日は切りいいし、これで終わり。
立ち上がって自分の絵を確認し終わった途端、チャイムが鳴った。今日は終わりだ。
「相変わらず、うまいなー、お前は」
帰り支度をしていると、二つ隣で同じ像を描いていた谷山が話しかけてきた。
「いや、今日はダメだ」
「まじかよ。まあ、確かに、今日は進みが遅いようにも見えるけど。でも相変わらず顔似てるしさ。俺、全然別人になるんだよなあ」
「別人っていうか、谷山本人の顔になってるよな」
ひょいと谷山の絵を覗き込んでそう言った。
「え、まじで?」
「まじでまじで」
谷山は鏡を取り出して、自分の顔と絵を見比べ始めた。実際、人物を描くと一番見慣れた自分の顔に似てしまうというのはよくある話、らしい。
予備校のビルを出て歩き出しても、谷山はまだ首を傾げていた。日は長くなってきたとはいえ、8時を過ぎているから日没はとっくに終わっているけど、繁華街が近いから辺りは明るく、そしてうるさい。
「そんな似てるかな」
「いや、知らんけど。今日は俺位置が良かったから、実際はダメでもちょっとよく見えるのかも。お前今日、顔真正面じゃん」
「ああ、まあ、位置は確かに」
「あー、やだなあ、もう描きたくない」
大きく伸びをした。予備校に通い始めて一年以上経つ。ほとんど毎日、こんな面白くない課題ばかりさせられている。
「お前ほんとに嫌いな、石膏像」
「嫌い、嫌い。俺の好きなもの描けないなんて、ちっとも楽しくない」
「俺は、好きなもの描けって言われた方が、困るかも」
谷山がぼそりと言った。
「……好きなもの描けって言われて、なんで困るの?」
「想像して自由に、って苦手なんだよな」
よくわからない。知らず眉をひそめて、問うた。
「……谷山、なんで美術方面に進んだの?」
「うるせえな。みんながみんな、お前みたいな奴じゃねえんだよ。絵を描くのは好きだって、もちろん」
谷山は、気分を害してしまったようだった。気まずくなってしばらく黙る。
駅の改札をくぐって、電車を待っている間に、気を使ってか再び谷山が話しかけてきた。
「そういや、お前、知ってる?」
「何を?」
「彫刻の昼間部に、可愛い浪人生がいるんだってさ」
「は?」
唐突な話題に追いつけなくて、間抜けな声を出すと、谷山はなぜか笑いをかみ殺したような表情で付け足した。
「その人、石膏像が大好きらしくてさ。特に、俺らが今日描いてたあれ」
「あれって……」
「毎日公言してるんだってさ。『マルス大好きって』」
「マっ」
谷山はこらえきれず笑いをこぼすと、やってきた急行に乗るべくさっさと歩いて行ってしまう。各駅停車を待つ俺は、ホームに取り残される。
「じゃあ、また明日な、『マルスくん』」
「お前黙れ!」
俺は友人のあいさつにも答えず、そんな悪態をついて彼を見送った。
俺の名前は丸住 裕斗。予備校に入ってついたあだ名は、さっきまで描いていた石膏像の名前から、『マルス』だ。