表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狐の花嫁  作者: 篠田葉子
21/39

九州征伐前後の舞台裏あれこれ

九州征伐で兵站を担当した三成さん。

実際に何をどんなふうにしたかを考えると、この人の脳内って本当にどうなってるんだろうと思いました。

「九州征伐に行くことになった」


帰宅(帰城?)するなり唐突に三成さまがそんなことをおっしゃったので、出迎えた皆が目を見開いて驚きの表情になった。

また戦が――!


「来年になるが、その兵站を任された」


「「「「~~~~!!!」」」」


真顔で続けられた言葉に思わず絶望の表情を浮かべる者多数。

もちろんその中には私も含まれている。


兵糧、馬及びその馬糧、鉄砲及びその硝薬、弾丸、弓矢の輸送と補給、九州につける船を割りあて、その帰りの空船をどこにつけ、何を運び込むか、幾百千の船の連絡、積み下ろしの時間、軍船と荷物船の兼ね合い等々・・・

兵站を任されるとはこれら全てをしなければいけないということだ。

ひょっとしたらこれ以外にもまだあるかもしれない。


「ふ、ふふふ・・・」


中間決済。棚卸。OL時代のくっそ忙しい時に夏の祭典が重なった時とか死ぬかと思ったけど、その上を行ったのが前回の三成さまの兵站のお仕事のお手伝いをした時。

それを踏まえて想定するとどう考えても九州なんて遠方、マジで死人が出るレベルで忙殺される・・・!!


三成さまはいいのだ。

ある意味根っからの仕事中毒なんで忙しければ忙しいほどイキイキしてくる人だから。

でも当然他の部下たちはそうはいかない。

おまけに仕事を割り振ろうにも高い計算能力が必要になる仕事だからできる人間は限られてくる。


パソコンとまでは言わない。

せめて、せめて電卓があれば・・・!


悲壮な表情で三成の仕事を手伝う覚悟を決めた優秀な頭脳を持った嫁と部下たち。

その様子を三成は不思議そうに眺めていた。



三成を手伝わないという選択肢はそもそも存在していない石田家は一家総出で頑張った。

もちろん三成が中心となって行われたのだが、総勢二十万の軍勢に関する兵站の全てのその諸々の複雑な計算は滞ることもミスすることも許されない。

そのためもしうまくいかなかった場合の代案も用意しなければならず、ただでさえ少数精鋭を地で行く石田家は通常業務も行いながらの九州征伐のための前段階で文字通り忙殺された。


前代未聞の規模の動員兵力。それを賄うための兵站準備。

その中でうっかり嫁がこの時代にはまだ、というか和算にははっきりとした概念がなかったゼロや座標を教えてしまったり、微積分を持ち込んでしまったのだが――


そもそも和算は江戸時代鎖国中の日本が独自の発展を遂げたもので、戦国の世ではまだ確立していない。

そして数学の授業で習った方程式など、いったい何の役に立つんだと学生時代一度は思うものだが、その方程式が完成した年代など知っている人は少ないだろう。

そんなものを嫁がうっかり教えてしまったとしてもそれを攻めるのは酷というものである。


問題は史実では九州征伐において総勢二十万の軍勢に関する兵站の全てをほぼ独力で企画・立案・遂行した実績を持っている世界史レベルでも稀有な数学的頭脳といえる石田三成がそれを知ってしまったということだろう。


それらがもたらす影響は現時点ではまだ誰にもわからない――



ちなみに九州征伐の輸送は瀬戸内海を海上輸送したのだが、どさくさに紛れて嫁が瀬戸内海の海賊たちとコンタクトを取ろうと画策していたりなんかしていた。

もちろん失敗したが、忍者に会ってみたい!というのとさほど変わらないミーハー心と同様の日本の海賊に会ってみたい!という内心を海賊たちに護衛艦みたいな役目を与えるのはどうでしょうか?というそれらしい理由を拵えることで後日会えることになったというのは余談である。




「九州かぁ・・・」


征伐が終わったらサツマイモを売り込もう。と思っていたのだが、薩摩の芋でサツマイモと言ってるけど、地元では唐から来たからカライモって呼んでるよと鹿児島出身の友人が言っていた。

ならば唐から来て、現在石田家にあるこの芋は下手に売り込むとイシダイモになってしまうのだろうか。とりんは真剣に悩んでいた。

そもそもサツマイモでもカライモでもなければこの芋はなんという名前なのだろうかと。

いや、輸入元から甘藷かんしょという芋だと聞いてはいるんだが芋には○○芋という名前がほしい。個人的に。なんとなく。


ちなみにさつまいもは薩摩藩で栽培されたのは1698年、種子島の島主種子島久基の使者が琉球から持ち帰ったもので、庶民に広まりだしたのは1705年に前田利右衛門が琉球から持ち帰った時である。

種子島では種子島久基をいもとのさまと呼んでおり、前田利右衛門はカライモオンジョと呼ばれ、共にそれぞれ別の神社ではあるが奉られている存在である。


そんなことはさておき。

若干ずれたことを悩みながら、りんは九州征伐後について考えを巡らしていた。

三成が博多町奉行になる可能性と、その際には共に九州へと渡り、都市計画に協力することを秀吉から示唆されたと三成から聞いているからだ。


博多商人とも縁を結んでおきたいし、有名なガラシャ夫人とも会ってみたい。黒砂糖も手に入れることができるんじゃないかと思うと優先順位も含めて今からしっかり考えておく必要がある。


三成と共に九州へ渡ったところで有力な方々の奥方との外交のみを担当するわけではなく、むしろ事務方の主力となるために確実に起こるであろう忙殺される日々の合間に関ヶ原フラグをへし折るための行動をしなければいけないという、忙しさの上に忙しさを二乗する未来予想図に現実逃避をした結果が、サツマイモについて悩むりんの姿であったりする。



その後史実通り、秀吉軍は島津を降伏に追い込んだ。

三成は島津との外交窓口である取次であったため、相手側と共に抗戦を続ける重臣を説得したりなど主に裏方で活躍した。

また取次は事後対応を行うこともあり、戦が終わったからといってそれで仕事が終わることもなく、引き続き島津との対応の窓口となることになった。


秀吉の懸念通り博多は荒れており、三成や長束正家、小西行長、山崎片家、滝川雄利の五名に復興を命じた。


もっともだからといって三成がずっと博多にいたわけではない。

上洛する島津義久を出迎えて大阪城へと送ったり、堺奉行の仕事をしたり、各地で進行中の太閤検地の奉行もしたりと忙しく動き回っていた。


義久が上洛した翌年には島津義弘を大阪に迎えた。

義弘は大阪に来ると直ちに三成を訪ね、指南を乞うている。

そして三成と細川幽斎の尽力もあって義弘の帰国後、義久と人質の義久の娘の亀寿も帰国が許された。

これはかなり寛大な対応で、その事もあって帰国後も義弘は三成を頼り、それに三成が応えた。

やがて三成は島津分国の内政面(重臣対策や検知)でも指南を求められることになるのだが――




「計算が間違っておる!!」

「ちょ、三成さま!巻子本で殴ったら本が傷みます!」

「そっちですか奥方!!」

「むぅ・・・どこで間違ったのだろうか」

「そしてあんたも少しは気にしてください!!」


まさかこんなことから指南することになるとは思わなかった。と彼は後に友人に語った。

島津家は経営がどんぶり勘定を通り越してもはやワクに近く、正しい帳簿の付け方を教えるところからのスタートだった。


「これでは赤になるのも道理だ!」と優れた経営感覚とそろばん勘定の能力を持つ三成は憤慨しながらビシバシと島津家を鍛えた。

嫁も軸が木でできている巻子本で頭を殴っては危険だからとそっと夫にハリセンを与えて、家計簿の簡単な付け方から教えることで協力した。


幸いにも彼らは筋が通っていると思えば三成の暴力的なツッコミにも黙って耐え(というか頑丈な彼らにはさほどダメージがなかったためかもしれない)四苦八苦しながらも内政面の勉強に励んだ。

三成がじっくり帳簿を見直した結果、赤字が黒字になった個所があったことも勉強に励んだ一因でもあったが、それに気付いた三成がますます怒ったのは仕方がないことかもしれない。


島津さんとのファーストコンタクトやガラシャさんたちと嫁との交流はまた次回にお届けします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ