既読の向こう側~ステップ・バイno.6
障子越しの光が、畳の上に細長く落ちていた。古い武家屋敷を模したセットの中には、臨場感を出すためと、本物の香炉が床の間に置かれ、そこから白い煙が一筋流れている。
結流が今回演じるのは巫女。そして、結流が愛し始めている相手を演じるのが、若手アイドルの桐谷さんだ。
「じゃあ、次。3人とも、感情を少し強めでお願いします」
監督の声が飛ぶ。
「はい」
結流は小さく返事をした。
その隣では、薔子さんが衣装の袖を整えている。薔子さんが演じるのは、結流のライバル役。美しく、気まぐれで、主人公達をはじめ、結流と桐谷さんの間もを翻弄する役だった。桐谷さんはこの2人の間で揺れ動く。
今日の場面では、桐谷さん演じる青年が、薔子さんを前にして、気持ちが揺れる。
結流の役は、その2人を偶然、目撃してしまう。そういう場面だった。
「結流ちゃん、まずはこっちから見てるだけだからね」
監督が声を落として言った。
「はい」
「台詞はないから、目だけでいい。感情、出しすぎてもいいくらい」
「わかりました」
返事をしながら、結流は一度だけ息を吐いた。
嫉妬。困惑。
それなら、できる。
演技なら。
カメラが回れば、役の感情を作れる。
そう思っていた。
「本番いきます!」
スタッフの声。
ざわめきが消える。照明が落ち着き、カメラの赤いランプが灯った。
「よーい・・・」
桐谷さんが、ゆっくり薔子さんへ近づいていく。
「・・・どうして、そんなに俺を避けるんだ?」
低く、柔らかな声。
薔子さんは一歩後ろへ下がった。
「近すぎます」
「そう?」
桐谷さんが笑う。
「俺は、もっと近くにいたいけど」
結流は、柱の陰から2人を見つめている。まだ台詞はない。
ただ、視線だけ。
カメラが自分に向けられているのがわかる。
「それ以上、近づくと、私の陣営に入ったと思われますよ? それで、貴方は構わないのですか?」
「そんな事より、なあ」
桐谷さんが、薔子さんへそっと手を伸ばす。まだ届かない。
「俺の事、どう思ってる?」
その瞬間、結流の胸が、わずかに揺れた。
違う。今のは桐谷さんの声だ。
わかっている。なのに、耳の奥で、別の声が重なった。
『結流ちゃんはさ』
少し笑いながら。
『俺の事、どう思ってるの?』
紬さん。あの日の声。車の中で。
少しだけ甘くて、冗談なのか本気なのかわからなくて・・・それでも、胸の奥に残ってしまった声。
結流は、ほんの少しだけ指先に力を入れた。
カメラは回っている。ここは撮影現場。今、自分は巫女だ。
紬さんの事を考えている場合じゃない。
「・・・わかりません」
薔子さんが答える。
「わからない? 本当に? こんなに近くにいるのに?」
「貴方の事なんて・・・」
「なら、何で先日声をかけた?」
桐谷さんの声が更に柔らかくなる。
「何とも思わないのに?」
結流の胸の奥が、また痛んだ。
『何とも思わない?』
そんな言葉を、紬さんに言われた事はない。
けれど、もし今、紬さんが目の前にいたら、そんな風に聞かれたら、自分は何と答えるのだろう。
好き。
そう言えばいいのだろうか。
スマホを開けば、紬さんとのメッセージがある。
送っても、返事はない。既読がついて、それきり。
忙しいのだと思おうとした。仕事なのだと思おうとした。何度もそう思った。
でも、その直後に見てしまった。見たくなくても、何度も繰り返しネットニュースでも、動画にも出てくる。
人気トップアイドルグループ STELLA-roots 佐伯紬のスキャンダルだから。
週刊誌の記事。
紬さんと、若手タレント荒木エマ。仲良くくっついてレストランから出てくる二人の写真。誕生日デート。熱愛発覚。結婚秒読み?! 何度見ても、目を逸らしたくなる言葉。
あれを見てから、紬さんへ連絡する指が、少しだけ重くなった。自分との事はただの気紛れで、ただの友達で。
だから、連絡がない事も当然で・・・。
それでも連絡した。更にもう一度だけ、と思って。
でも既読がつくだけだった。
「・・・俺の事、嫌い?」
桐谷さんの声が、再び現実へ引き戻す。
薔子さんが顔を上げた。
「そんな事・・・」
「じゃあ、好き? 好きになってくれる?」
結流は、目の前の2人を見つめる。
なのに、頭の中には別の場面が浮かぶ。
『結流ちゃん』
紬さんの声。
『好きになってくれる?』
そんな事は言われていない。実際は、恋人候補にして?・・・だった。
桐谷さんの甘い声がスタジオに響く。
「俺だったら、もっと大事にするよ。アンタに、こんな事はさせない」
『俺だったら、もっと大事にするけどな』
・・・そんな事、言われてない。わかっている。これは自分が勝手に重ねているだけだ。
それなのに。
どうして今、紬さんの声が聞こえるの。
「・・・好きだと言ったら?」
薔子さんが囁く。
桐谷さんが一歩、距離を詰める。
「だったら・・・」
その瞬間だった。桐谷の視線が、ふっと横へ流れた。
結流を見る。
ほんの一瞬だった。けれど、確かに目が合った。桐谷さんの表情が変わる。
そして、薔子さんの肩越しに結流を見たまま、台詞を続けた。
「・・・俺は、」
結流の胸が、また跳ねた。
薔子さんが、ふっと桐谷さんの視線に気づく。
そして。
すべてを察したように、わずかに口元を緩めた。
「・・・そういう顔、するんですね」
「どんな顔?」
「私じゃなくて」
薔子さんがこっちを見る。
「・・・あっちが気になる顔」
そう言い残すと、薔子さんはくるりと身を翻した。衣装の裾が、ふわりと揺れる。
そのまま、結流の横を通り過ぎていく。
薔子さんはちらりと結流を見る。その視線だけで背筋が凍る。演技・・・としては情感がこもり過ぎている気がした。
見透かされている・・・?
そのまま薔子さんはセットの外へ消えていった。
残されたのは、結流と桐谷さん。
カメラはまだ回っている。今の視線の意味をすぐに尋ねに行く訳にはいかない。
桐谷さんが、ゆっくりこちらへ歩いてくる。役の中では、彼は結流の恋する相手だ。
彼は、優しく笑った。ごまかすように。
「・・・見てた?」
結流は答えない。
「ずっと?」
近づいてくる。
あと数歩。
「だったら、ちゃんと聞いて。誤解だよ」
桐谷さんが声を落とした。
『誤解だよ』
心臓が鳴る。
『あんな週刊誌なんて出鱈目だよ』
頭の中で、紬さんの声が勝手に出来上がっていく。
違う。
これは芝居。
わかっている。
なのに。
その声に、また紬さんが重なる。
『結流ちゃん』
あの日の声。胸の奥が締めつけられる。
桐谷さんが、さらに一歩近づいた。
「俺が好きなのは・・・」
桐谷さんが一瞬、薔子さんの消えた方へ目を向ける。結流の目を見る。
「君だよ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
紬さんではない。紬さんが言ったわけでもない。
わかっている。
これは台本に書かれた台詞。
それなのに今、一番聞きたかった言葉だった。だからこそ苦しかった。
結流は、役として彼を見つめ返す。
泣いてはいけない。ここで涙を流す役ではない。笑う場面でもない。
ただ、驚いて。
戸惑って。
それでも嬉しそうに・・・そういう表情を作らなければならない。
なのに。嘘だと感じてしまう自分がいる。違うと感じてしまう自分がいる。
自分が愛されていると、核心は持てないまでも純粋に嬉しいと表現しなくてはいけない。それができない。役になり切れない。
胸の中に浮かんだのは、たった一人だった。
紬さん。
今、何をしているの。
私からの連絡を見ている?
それとも。
もう、見たくない?
答えはない。
ただ、目の前の桐谷さんが、台詞を続ける。
「ずっと、君に言いたかった」
優しい声。
甘い声。
紬さんの声ではない。
なのに結流の心は、その声の奥に紬さんを探してしまう。
そして・・・。
「はいっ、カット!」
乾いた声が、スタジオの空気を切った。
結流は、そこでようやく瞬きをする。その場に立ったまま動けなかった。
台詞は間違えていない。
立ち位置も。
表情も。
視線も。
全部、できていた。
それなのに。胸の奥だけが、ひどく疲れた。
照明が熱い。
すぐ目の前に、桐谷さんの顔があって思わず身を引く。
大型セットの中、スタッフ達が一斉に動き始める。
「香炉、一旦消してー!」
「タオルお願いしまーす」
「カメラ位置戻しますっ」
怒号みたいな指示が飛び交う。
けれどそのどれよりも先に、結流は視線を感じていた。
怖いくらい真っ直ぐな視線。
「・・・何考えてるのか知らないけど」
低い声。
結流は振り向く。
そこにいたのは、薔子さんだった。
小柄な体。百五十センチそこそこの華奢な輪郭。けれど現場では誰より存在感がある。
いつもより更にまっすぐ作られた黒髪が頬に張りつき、陶器みたいに白い肌を際立たせている。大きな瞳はドールみたいなのに、今は氷みたいに冷たい。10代役も違和感なく演じられる異常な透明感。
なのに怒ると、その綺麗さがそのまま刃になる。
スタッフ達が何事かと、ちらちらこちらに視線を送る。
「集中できてないでしょ。できないなら帰ったら?」
ぴしゃりと言った。
「迷惑」
スタジオ内の空気が止まる。
近くにいたスタッフが目を逸らした。
メイクさんの手も止まる。
結流の喉が詰まる。
反論できない。できるわけがない。実際、集中できていない。
台詞は入っている。
動きも覚えている。
でも役になり切れない。感情が、どこか別の場所に置き去りになっている。
鞄の中のスマホを思い出す。
既読。
それだけ。
紬さんへ送ったメッセージ。既読にはなる。でも返事は来ない。
最初は、忙しいんだと思った。
ツアー前だと聞いていたし。レッスンもリハーサルも衣装合わせもあるだろうし。取材もある。宣伝のために、ありとあらゆるメディアに出る必要がある。トップアイドルだから。
だから待った。
一週間。
大丈夫。
あとで返そうと思って忘れてるだけ。
そう言い聞かせた。
でも、返信はなく。悩んで悩んで、二回目を送って。
それも既読になって。
でも、やっぱり返事は来なかった。
理由なんて、わかっている。
結流はゆっくり目を伏せる。・・・あの日からだ。
『俺の誕生日、一緒に過ごせない?』
そのメッセージを見た瞬間、心臓が跳ねた。
仕事終わりの夜。車の窓に流れる東京の灯りが、やけに綺麗に見えたのを覚えている。
嬉しくて。
信じられなくて。
でも同時に、少しだけ怖かった。
いいのかな、と思った。
アイドルの紬が。
今、一番勢いのあるSTELLA-Rootsが。
自分なんかに、そんな言葉をくれて。
『もちろんお願いします』
すぐ返した。
少しでも間を空けたら、夢みたいに消えてしまいそうで。
その数日後に決まったパリコレの話。
会議室の空調の音だけが妙に響いていた。
何度も画面を開いて。
閉じて。
文章を書いて。
消して。
結局、送ったのは短いメッセージだった。
『ごめんなさい。
仕事が入ってしまって、行けなくなりました』
本当は違う。
本当は、もっと言いたかった。楽しみにしてた。会いたかった。一緒にいたかった。
でも、それを書けば書くほど言い訳みたいになって。
苦しくなって。
最後には、ただの謝罪だけが残った。
送信。
数秒後。
既読。
それだけだった。勿論、直接会う事も出来なくて。
そして、帰国後の週刊誌・・・。
「一旦止めます! 十分休憩入りまーす!」
スタッフの声で、現実へ引き戻される。
結流はゆっくり顔を上げる。
現場の空気が少しだけ緩む。
張り詰めていた照明の熱気の中、スタッフ達が慌ただしく動き始めた。
薔子さんはまだこちらを見ていた。
怒っている。
当然だ。
せっかく。
『次のドラマも一緒に出演できるね』
そう笑って声をかけてくれたのに。今の自分は、その期待に何一つ返せていない。
結流は爪が食い込むほど拳を握る。
ちゃんとしなきゃ。
そう思うのに、頭のどこかではずっと、返事の来ないメッセージ画面だけが光っていた。
結流は小さく息を吐くと、その場を離れた。
スタッフ達の動線を邪魔しないようにセット裏へ抜け、簡易テーブルと紙コップが並ぶ休憩スペースへ向かう。
コーヒーメーカーの機械音。誰かの笑い声。モニター確認をしているスタッフ達の話し声。
ざわざわした空気の中にいても、結流だけが上手く馴染めない。自分で紙コップにコーヒーを入れる。
ぬるい。
飲む気にもなれず、そのまま視線を落とした時だった。
「・・・暗い顔」
声が落ちてくる。振り向く前にわかった。
薔子さんだ。怒っていても人形みたいに綺麗だった。
小柄な体。華奢な肩。自分とは違う生き物みたいだ。こういう外見だったなら、振られたりしないのかな。
結流はそっと息をついた。
何だかんだ言っても、可愛い外見の方がモテる。これまで告白した事はないけれど、でも教室の隅で男子達や、会社の休憩室で男性社員達が、誰々が小さくて可愛い。氷室はデカ過ぎだろ・・・何度も聞いた。その中に、ちょっと好きになりかけていた男子がいた事もある。
薔子さんのぱっちりした目は少女みたいなのに、その奥だけが妙に大人だ。29歳と聞いた時は、正直芸能界特有のサバ読みかと思ったくらいだ。本当だと聞いた時は、失礼にも3度確認した。
結流の前に立ったまま、薔子さんは腕を組む。
「あなたの役が草臥れてたら、私の役が立たないでしょ」
ぴしゃりと言う。
「しっかりしなさいよっ」
痛いほど真っ直ぐな言葉だった。結流は何も返せない。図星だった。
薔子さんがじっと見る、その大きな瞳で。その視線だけで、誤魔化しが全部剥がされる気がする。取り繕った言葉も言い訳も、全部。
「・・・パリコレ歩いたのでしょ」
結流の肩が揺れた。
薔子さんは視線を逸らさない。
「男よりパリコレ取ったのでしょ」
さらりと言われる。皮肉でもなんでもなく、ただ事実を確認するみたいに。
でも結流の中ではそんなつもりはなかった。パリコレを歩いた事がニュースになれば、もう紬さんにも言ってもいい。誕生日の事を謝って、別の日に改めて誕生日祝いをして、それで・・・普通に続くと思っていた。
恋人にはなれなくても、友達以上恋人未満、くらいには。
薔子さんはふっと息を吐いた。
「私なんて、歩きたくても声もかからないわ」
軽い口調だった。
けれど結流は、一瞬言葉を失う。
九条薔子。
10代から何度も主演を張り続ける女優。透明感の象徴みたいに言われる存在。
その薔子さんでさえ、選ばれない側になる世界。
結流は喉が詰まる。あのオーディションが、どれだけ異常な切符だったのか。
これまでコンプレックスで、可愛いと言われた事もない。この高身長が武器になる。改めて突きつけられる。
同時に、胸の奥がじくりと痛んだ。
あの日。
自分が選んだもの。置いてきたもの。
はっきりと選んだわけじゃない。流された気持ちはある。でも、最終的に同意したのは自分だ。
それを全部見透かされた気がした。
「・・・何で・・・」
知ってるの。そこまで言えなかった。
薔子さんは小さく鼻で笑う。
「長くこの世界に生きてるのよ」
薔子さんは壁に軽く背を預ける。細い腕を組み、長い睫毛を伏せるみたいに一度だけ瞬きをした。その横顔は、作り物みたいに整っている。
けれど次に上がった視線は、妙に現実的で冷静だった。
「聞きたくない事まで耳に入ってくるわよ」
「リアルツンデレだねぇ」
急に、場違いなくらい軽い声が割り込んだ。
結流は振り向く。
潤さんが、休憩スペースの入口に立っていた。
長身。
ラフに崩した衣装。髪は無造作なのに妙に整っていて、細い銀縁眼鏡がよく似合う。片手を着物の袂に入れたまま、にこにこしている。そのにこにこがちょっと怖い。
目の奥だけが笑っていない。細く切れ長の視線が、相手を値踏みするみたいに静かに動く。怒鳴るタイプじゃない。むしろ穏やかだ。
静かな声で逃げ道を塞ぐタイプ。
本当に、副業で高級クラブの奥で若頭やっていても驚かない、と結流は一緒にドラマをするようになっても時々思う。
知的で。
品が良くて。
ちゃんとして見えるのに、絶対に敵に回したくない顔。
人懐っこそうに笑っているだけで、何故か悪役に見える。
「何でアンタが覗いてるのよ」
薔子さんが露骨に眉を寄せる。それに対抗できる薔子さんも凄いと思う。
「結流ちゃんが怖がってないかと思って」
潤さんが少し肩を竦めた。
冗談っぽい口調。
けれど視線だけは、ちゃんとこちらを見ている。
「薔子さんって、実は口調キツいから」
「悪かったわねっ」
即座に返す。
潤さんは楽しそうに笑った。
「そんなとこも、俺は好きだよっ」
「余計な事言ってないで、行くわよっ」
薔子さんが苛立ったように踵を返す。小柄なのに、歩くだけで周囲の空気が動く。数歩進いてから、ふと思い出したみたいに振り返った。
「結流ちゃんも、それ飲んだら、来なさいよっ」
「じゃあ、俺も行くんで~。待ってるよ」
潤さんがひらひら手を振る。
「・・・はい」
二人が去っていく。
ざわついた休憩スペースの音だけが戻る。
結流は少し遅れて、手の中の紙コップを見る。コーヒーに、ゆっくり口をつけた。
読んでくださってありがとうございます(*_ _)
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