元平民に婚約者を取られかけた令嬢たちが頼るのは元平民だった
放課後の静まり返った旧館。西に傾いた陽の光が、石造りの冷たい床へ細く長い影を伸ばしていた。
窓際に陣取る一団の手前で、ラグナルは足を止める。中心にいるのは、王立学園で一際目を引く高位貴族の令嬢たちだった。授業の終わった制服に身を包み、完璧な淑女の微笑みを仮面のように貼り付けたまま、ベイリー男爵家の養子となった元平民のラグナルを取り囲んでいる。
(また面倒な群れに捕まったな)
「――それで、あなたに聞きたいのです」
喉の奥で息を詰まらせたように口を開いたのは、宰相の孫娘であり、次代の王妃候補と噂される公爵令嬢だった。綺麗に弧を描く双眸の奥底で、わずかに光が波打っている。
「私たちが最近疑問に思うことがありますの」
「……私に?」
「ええ。転入してきたばかり、あのリベラ子爵家の庶子……ルルという娘のことですわ」
その名前が落ちた瞬間、周囲を取り囲む令嬢たちの肩がぴくりと跳ねた。彼女たちの背後には本来、家格の高い婚約者である令息たちが控えているはずなのだが、ここ最近、その多くがルルという平民上がりの娘に骨抜きにされている。
(あんな薄っぺらな手口に引っかかる男たちもどうかしているが)
「あの子はいつも、『私は平民として育ったから、貴族の常識が分からないのです』と涙を流し、私たちの婚約者様たちにベタベタと身体的接触を繰り返しています……腕にすがりつき、胸を押し付け、あまつさえ高価な品々をねだるように仕向けている」
公爵令嬢の微笑みが、わずかにひきつる。その爪先が、石畳の目地を軽く踏みつけていた。
「私たちは生粋の貴族ですから、平民の文化や習慣というものを存分に理解しているわけではありません。だからこそ疑問なのですわ、ラグナル様。平民の社会では、男女が初対面に近い間柄でああも馴れ馴れしく他人の婚約者に触れ、金品を要求することが一般的な、常識的な振る舞いなのですか?」
詰り半分、すがり半分。誇り高い彼女たちがプライドをかなぐり捨てているのは、ルルの免罪符の真偽を見極めかねているからに他ならない。
ラグナルは乾いた息を一つ吐き、目の前の作り物の顔を見据えた。
(平民の常識、か)
幼いながらも泥と汗と鉄錆の匂いが染みついたあの日々の記憶が、脳裏の澱をかき回す。日暮れまで働いてやっと得た日銭を奪い合うような環境で育ったラグナルにとって、あの女のやっていることはあまりにも異質だった。
「結論から言いましょう」
冷ややかに鼻を鳴らし、彼女たちに真っ直ぐな視線を返す。
「あんなものは、平民の常識でも何でもありません。ただの厚顔無恥なタカリです」
「……タカリ、ですって?」
公爵令嬢の作り笑いが完全に消え失せる。周囲の令嬢たちも、息をのんでわずかに目を見開いた。
「そうです。あんなものは平民でも、底辺のさらに底、屑と蔑まれる人間のやり口だ」
冷淡に言い放ち、脳裏にこびりつく記憶を言葉に落とし込む。
「平民だって生きるために必死だ。泥水をすすり、だからこそ最低限の縄張りと人間関係を守って生きている。あいつのように、出会う男ごとにすり寄って涙を流し、同情を引いて金品を巻き上げるような真似をすれば、村八分にされるどころか、まず人間として扱われなくなる」
ルルの手口はあまりにも露骨だった。可憐な少女を演じて男たちの庇護欲を煽るその裏で、計算ずくめの略奪と搾取を繰り返している。
「あいつのやっていることは平民の常識なんかじゃない。ただの身勝手な行いであり、労働を嫌った人間の卑しい乞食根性だ。平民を十把一絡げにそういう文化なのだと誤解してもらっては困る」
言葉を聞いた令嬢たちの表情が、音を立てて変わっていく。それまで彼女たちの心のどこかにあった、根拠のない躊躇や遠慮が、今しがた完全に打ち砕かれた。
平民出身のラグナルが、自身の過去を踏まえた上で、あんなものは平民でも絶対に許されないと言い切ったのだ。ルルの主張はすべて嘘であり、確信犯的な風紀の乱れなのだと証明された瞬間だった。
「……そう、ですか」
静まり返った廊下に、公爵令嬢の低い声が落ちる。先ほどまでの焦燥感はきれいに消え失せ、代わりに地底の氷のような冷たさが瞳の奥に張り付いていた。
「平民の常識ですらないのなら、あの子がただの卑劣な嘘つきだというのなら、私たちがこれ以上、あの下劣な泥棒猫に慈悲をかける必要はありませんわね」
他の令嬢たちも、次々と深くうなずいた。彼女たちの瞳には、これ以上ないほどの覚悟と、徹底的に相手を追い詰めるための冷徹な光が宿っている。
「ラグナル様、教えてくださって感謝しますわ。……この借りは、きっちりお返しします」
優雅でありながらも、牙を剥き出しにした獣のような笑みを浮かべ、令嬢たちは一斉に踵を返す。その足音が、夕暮れの廊下に冷たく響いた。
数日後、夕暮れの王立学園。その最も奥まった場所にある学園長室の扉が、音もなく開かれた。
先頭を切って足を踏み入れたのは、準備を整えサロンで牙を研いでいた公爵令嬢をはじめとする一団だ。その背後には、ルルに魂を抜かれていたはずの令息たちが、王太子側近の弟を含めて青ざめた顔で連行されている。中心には、いつものように濡れ羽色の瞳を潤ませ、震える小動物を演じるルルの姿があった。
「――ほう?」
執務机の山に埋もれるようにして座っていた人物が、ふっと面白そうに口角を上げる。学園長であり、王の異母妹にして王位継承権を投げ捨てた型破りの学者ミラベルだ。彼女は手元の書類から視線を外し、入室してきた華美な一団へと値踏みするような目を向けた。
(また退屈しのぎの客が群れをなしてやってきたな)
「我が学園の誇る令嬢たちが、揃いも揃ってこのような夕暮れ時に、いったい何の用かしら。しかも、あそこの男どもを引き連れて……おや、そこにいるのはラグナル君ではないか。君まで巻き込まれているとはね」
ミラベルの涼やかな声の裏で、学園長としての鋭さが波打っている。学園内で起きるゴシップを特等席の観劇のように楽しむ悪癖の持ち主だったが、その知性は決して飾りではない。
「学園長、私たちはお話ししなければならないことがありますの」
公爵令嬢が一歩前に進み出た。その顔には優雅ないつもの微笑みが消え失せ、剥き出しの怒りと毅然とした決意が張り付いている。彼女は一礼もそこそこに、ルルを指差した。
「このリベラ子爵家の庶子ルルが学園内で繰り広げてきた数々の狼藉についてです。あの子は『平民出身で貴族の作法が分からない』という言い訳を盾に、私たちの大切な婚約者たちに卑猥な接触を繰り返し、財産まで巻き上げておりました」
「なっ……!そんな、私はただ、皆様と仲良くしたくて……!」
すかさずルルがか細い声を上げ、大粒の涙をポロポロと零してみせる。その場にいた令息の一人が、反射的に庇うようにルルの前へ一歩踏み出した。
だが、ミラベルは冷ややかに片手を上げ、その場を制する。
「おや、泣き真似はそれくらいにしておきなさい。君のその芝居が、どれだけの人間を不快にさせているか、この部屋の空気で分からないのかい?」
ミラベルの低い、しかし有無を言わせぬ王族としての威圧感が部屋の空気を一気に凍らせた。ルルはビクリと肩を震わせ、さらに身を縮こまらせる。
「続けなさい、令嬢たち。そしてラグナル君、君の証言も聞かせてもらうよ」
ミラベルの号令のもと、逃げ場のない密室で、すべての関係者が一堂に会した尋問の舞台が幕を開けた。
「さて。言い訳の時間は終わりだ。事の次第はあらかた把握しているが……本人の口からも、もう少し詳しく聞かせてもらおうか」
その冷静かつ威圧的な一言で、部屋の緊張感は一気に高まる。もはや逃げ場がないと悟ったのか、ルルは潤んだ瞳をさらに大きく見開き、得意の涙をぽろぽろと零してみせる。いつも通り周囲の令息たちの庇護欲を煽ろうと身を震わせた。
「そ、そんな……私はただ……!」
縋るような目を向けられた令息の一人が、顔面を蒼白にさせながらもルルの方へ手を伸ばそうとする。だが、その背後に控える本来の婚約者たちの冷ややかな視線に気づき、ぴたりと動きを止めた。味方だと思っていた男たちが次々と気圧され、誰一人として動かない。
完全に孤立したと悟った瞬間、ルルの表情からか弱い少女の仮面が剥がれ落ちた。彼女はひきつった笑みを浮かべたまま、よろよろと足元をフラつかせながら、その場にいたラグナルのほうへすがりつくように駆け寄ってくる。
「ら、ラグナル様……!お願い、助けてよ……!」
べっとりと腕にしがみつき、胸元を押し付けながら、これ見よがしに過剰な身振りで身を寄せてくる。男の庇護を誘うための接触だった。
「あなたも平民出身なんでしょう!?なら、私の気持ちが分かるはずよ!貴族どもに虐げられて、這い上がろうとして何が悪いって言ってよ!」
周囲の令息たちがどよめき、告発していた令嬢たちが眉をひそめる。だが、微動だにせず、ただ冷ややかな、路傍の石ころでも見るような目をルルに向けた。そのあまりの冷たさに、すがりついていたルルの手がわずかに震える。
「――離せ!薄汚い」
低い、感情の欠落した声が執務室の静寂に落とされた。
「同じ平民だと?ふざけるな。私を貴様のような安っぽい詐欺師まがいのお前と一緒にするな」
ラグナルはルルの腕を冷たく振り払い、一歩引いて見下ろした。
「目の前の男に色目を使い、涙を武器に金をせびり、都合が悪くなれば被害者を気取って身を寄せる……そんな生き様はな、平民の者たちにとっても唾棄すべき恥だ。お前のやっていることは、落ちぶれた酒場の片隅で男を漁る、場末の情婦のそれと何ら変わらん」
「っ……!な、に……」
「そうだろ?貴族の常識を知らないのではなく、人間としての倫理や羞恥心が欠落しているだけだ。それを平民の文化などと抜かすのは、懸命に生きるすべての平民に対する侮辱だとしか思わん」
容赦ない一刀両断に、ルルは顔面を真っ青にし、その場にへたり込んだ。言い訳の余地すら残さない完全な論破。猫被りも被害者芝居もすべて剥ぎ取られたその醜態を前に、ミラベルが満足げに小さく息を吐いた。
「――実に鮮やかな切り捨て方だね」
ミラベルはスッと立ち上がり、冷徹な光を宿した瞳をルルと、その背後で震える令息たちへと向ける。学園の秩序と規律を取り戻すための、幕が本格的に開いた。
冷え切った学園長室の空気を満たしていたのは、断罪という名の現実だった。
「――以上をもって、リベラ子爵家次女ルルの王立学園における在籍資格の剥奪、および直ちに実家への強制送還処分とする」
ミラベルの告げた宣告は事務的な響きを帯びていたが、その奥底には揺るぎない王族の権力が重く沈んでいる。その場にへたり込んだままのルルは、血の気の引いた顔でわなわなと唇を震わせ、浅い呼吸を繰り返していた。
「なっ……!そんな、お父様に言いつけてやるんだから!あなたたち、みんなひどいわ……!」
(最後のあがきがこれか)
あがきとばかりに喚き散らすルルの声には、もう誰も耳を貸さない。数日前まで彼女の甘言に酔いしれ、貢ぎ物を捧げていた令息たちは、青ざめた顔で自身の靴先を見つめることしかできなかった。
「ありもしない平民の常識を持ち出して周囲を欺き、学園の風紀を踏みにじった代償だ。ありがたく噛み締めるがいいよ」
ミラベルが冷ややかに一瞥をくれると、控えていた衛士たちが無言でルルの両脇を抱え起こし、ずるずると引きずるようにして扉の外へと連れ出していった。
「やめてよ!離して!ラグナル様、助けて――っ!」
往生際悪く響いていた悲鳴も、重厚な扉が閉ざされるとともに完全に掻き消えた。
静まり返った部屋の中で、令息たちは泥を被った犬のように縮こまっている。その背後には、本来の婚約者である高位貴族の令嬢たちが控えていた。愛想笑いを剥ぎ取った彼女たちの双眸は、底冷えのするような冷徹な光を放っている。
「……お分かりになりましたか?」
公爵令嬢が、静かに、しかし刃物のように鋭い声を落とした。
「あなたたちが失った信頼を取り戻すには、これからの数十倍の忠誠と、恥を知る行動が必要になりますわ。次はありません」
その低い宣告に、令息たちは首をすくめて深く頭を垂れるしかなかった。甘い蜜に釣られて手放しかけていた伴侶の重みと、自らの慢心が招いた代償は、彼らの骨身に深く刻み込まれていく。
ルルが放逐された王立学園は、本来の規律と静けさを取り戻していた。
だが、かつての日常とは決定的に異なる変化が一つある。高位貴族の令息たちと、その本来の婚約者である令嬢たちの距離感だった。
中庭のテラス席。
そこでは、かつてルルの甘言に溺れかけていた令息たちが、本来の婚約者である令嬢たちに対して、かつてないほど真摯な態度で頭を下げていた。
「……先日は、その、本当にすまなかった。君の言葉に耳を貸さず、あんな下劣な芝居に目が眩んでいたなんて、今思えば正気の沙汰じゃなかったよ」
王太子側近の弟である青年は、冷ややかな伯爵令嬢を前に、情けないほど肩を落としている。もはやそこに傲慢な貴族の影はなく、失いかけた信頼を取り戻そうと必死にもがく姿だけがあった。
伯爵令嬢は、カップに紅茶を注ぐ優雅な手つきを止めず、ふっと涼やかに息を吐く。
「お気づきいただけたのなら、これ以上過去の過ちを蒸し返すつもりはありませんわ。けれど次はありません。次に同じような愚行を犯したときは、婚約破棄どころでは済みませんからね」
「あ、ああ、誓うよ。二度と君を悲しませたりしない」
その声には上辺だけの社交辞令は混じっていなかった。愛想笑いの裏で耐え忍んでいた彼女たちの誇りは、この騒動を経てより一層強固なものとなり、令息たちは頭が上がらなくなっている。
過ちを犯した者たちは深く反省し、支えてくれる伴侶の真の価値を骨身に染みて理解する。それは単なる力関係の復活ではなく、お互いを対等なパートナーとして見据えた、確かな信頼の芽生えだった。
騒動の喧騒が引いた学園において、ラグナルの周囲だけはいつもと変わらぬ冷ややかな平穏を保っていた。
ルルが放逐され、令息たちが改心したあの件以来、ラグナルを見る学園の視線は決定的に変わっていた。かつては男爵家の胡散臭い元平民として陰口を叩かれていたはずが、いつの間にか学園の腐敗を一刀両断した異端児という、妙に歪んだ評価へとすり替わっている。
廊下ですれ違う高位貴族の生徒たちは、以前のような露骨な侮蔑を隠し、どこか警戒を含んだ複雑な目で避けていく。中にはあのとき救われた令嬢たちが上品な一礼を寄越してくることもあるが、それに軽く会釈を返すだけで、足をとめたりはしない。
(他人の褌で相撲をとる気もないし、正義の味方を気取った覚えもない)
ただ、あまりにも筋の通らない茶番が、自分の平穏な学園生活の邪魔だったから排除した――それだけの話だ。
放課後の鐘が、静まり返った校舎に低く響き渡る。
ラグナルは教科書を抱え直すと、西日に染まり始めた長い廊下を一人、淡々と歩いて行った。
ふと窓の外に目をやれば、きれいに手入れされた中庭で、真っ直ぐに寄り添い歩く令息と令嬢の姿が見えた。彼らにとっての試練は終わったのだろう。だが、この広大な貴族社会という泥沼において、個人のいざこざなどほんの一幕の余興に過ぎない。
泥臭い労働と生存競争に満ちた平民の暮らしを知る者からすれば、権力と嫉妬にまみれたこの学園の空気は相変わらず息苦しい。
それでも、ベイリー男爵家の養子として生き抜くとなった以上、ラグナルは自分の足で、この歪な世界をしっかりと歩んでいく。
夕暮れの影が石造りの床を長く伸ばしていく中、誰の干渉も受けない通路へと、ただまっすぐに歩みを進めた。




