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ギー、バッタン

作者: サモト
掲載日:2026/08/26

 その音のことを知ったのは、ゴミ出しのときだった。


「ねえ、夜にさ、変な音がしない? ギーって」

「え? 知らないけど?」

「夜の十時ごろかしら。毎日、ギーって。何の音かしらねえ」


 ご近所さん同士の会話を、聞くでもなく聞く。


 私はゴミを捨てると、さっさとその場を離れた。

 そんな音より、バスの時間の方が大事だ。

 停留所へ急ぐ。

 仕事を終えて帰る頃には、そんな話を聞いたことさえ忘れていた。


 ところが、夜。

 窓辺でビールを飲んでいたとき、その話を思い出すことになった。


 ——ギィィィ……


 ビール缶を傾ける手が止まる。

 時計を確認すると、夜の十時を少し回ったところだった。


(ああ。これのことか)


 窓を開けて、外をのぞく。


 ぽつん、ぽつんと街灯が立つだけの、人けのない通り。

 黒いアスファルトの上に、白線がしらじらと浮かび上がっている。

 じっとりとした暑い空気が肌にまとわりついてきた。


 音がしたのは、右の方向だった。

 このアパートの隣は民家で、そのさらに隣は空き家。


 こじんまりした日本家屋だ。

 長いこと放置されているらしく、屋根瓦はいくつか落ちている。

 庭木は門扉に覆いかぶさるほど伸びていた。


(あそこの扉が動いたのかな)


 しばらく耳を澄ませたが、もう何も聞こえない。

 空き家で何か起こることもない。

 ただ、闇の中に沈んでいる。


(……空き家で、いつも同じ時間がするって、変だよね)


 首をひねる。

 考えこんだけど、手元のスマホが鳴ると、すぐにそちらへ意識が向いた。

 じき、音のことは忘れて眠った。


 次の日も、その次の日も、夜十時を過ぎると、音はした。


 ——ギィィィ……


 動画やSNSを眺めていても、その音は一瞬だけ私の意識を持っていく。

 不思議と、窓を閉めていても、雨が降っていても、その音だけは聞こえてくる。


(気にし始めたから、耳につくようになったのかな)


 別に騒音ということもないので、あまり思い悩むこともなく過ごした。


*


 しばらくして、友人の美咲が泊まりに来た。

 駅まで迎えに行った帰り道、例の空き家の前を通る。


 私は歩調をゆるめた。

 屋根瓦が落ちるだけでなく、割れた窓もそのまま。荒れていた。


「どうしたの?」


 美咲が首を傾げる。


「ここ、空き家なんだけどさ」

「うん。見るからにね」

「毎晩、十時くらいになると変な音がするんだよね」

「どんな?」

「ギーって」


 美咲は木の門扉を見た。


「この扉が開く音じゃないの?」

「私もそう思ったんだけど。勝手に開きそうでもなくない?」


 強い風が吹いて、庭木を揺らす。

 でも、木の門扉はかすかにカタカタと揺れるだけだ。


「じゃあ、誰かが勝手に住み着いていたりして」

「やめてよ、気持ち悪い」


 私は美咲の肩を軽く押した。

 話はそれで終わり、私たちはアパートへ向かった。


 二人で夕食を食べ、酒を飲み、推しのライブ映像を見て盛り上がる。

 音のことなんて、すっかり忘れていた。


 ——ギィィィ……


 会話が途切れた、ほんの一瞬だった。


「あ」


 美咲が窓に顔を向ける。


「ほんとだ。したね」

「でしょ?」


 相槌を打ち、私はつまみに手を伸ばす。

 美咲はというと、まだ外を気にしていていた。


「でもさ」

「うん?」

「バッタンって音もしたよね」

「え?」


 私には聞こえなかった。


「してないよ」

「したよ。ギー、バッタン。やっぱりあの扉が動いてるんだって」


 美咲はそう言うけれど、私は今までバッタンなんて一度も聞いたことがない。


「聞き間違いじゃない?」

「えー。絶対したよ」


 負けず嫌いの友人は、口をとがらす。


「明日ちゃんと聞いてみて!」

「はいはい」


 翌日の夜。

 私は時計を気にしながら、ベッドでスマホをいじっていた。


 ——ギィィィ……


 いつも通り、あの音がする。

 目を閉じ、耳を澄ませた。


 ——バッタン


 思わず身を起こした。


(……した)


 美咲の言うとおりだった。

 扉が開いて、閉まるような音。


『昨日のバッタン、聞こえたよ』


 美咲にメッセージを送信して、考えた。


(……誰か住み着いていたら怖いな)


 翌朝、出勤前に空き家の前まで行ってみた。


 古びた門扉は今日もぴたりと閉じている。

 その足元には雑草が生い茂っていたが、どの草葉もまっすぐに伸びていた。

 誰かに踏まれたような様子はない。


(きっと、別の家の音なんだ)


 私は周辺の家を見回し、バス停へ向かった。


*


 ——ギィィィ……

 ——バッタン


 相変わらず、あの音は続いている。

 疲れてベッドに寝転がっていた私は、ふと想像した。

 扉が開き、閉まるところを。


(夜の散歩に出かけていく音とか?)


 うとうとしながら、エアコンの冷風に身を任せていたら、


 ——……ッ、……ッ、……ッ


 連続して、小さな音が聞こえた。

 ちょうど、人が歩いているような間隔で。


(やっぱり、そうだ。出かけていく音なんだ)


 そう思った瞬間、妙な感じがした。

 まるで、私がそう考えるのを待っていたような気がした。


(……そもそも、最初は何も聞こえていなかったのに)


 存在すら知らない音だったのに、いつの間にか、音は私の日常に居座っている。


 近所の人が「ギー」と言った。

 それから、ギーが聞こえるようになった。


 美咲が「バッタン」と言った。

 それから、バッタンも聞こえるようになった。


 そして今。

 私は、誰かが歩いていると思った。


 ——……ッ、……ッ、……ッ


 ぞわ、と肌が粟立った。

 急にエアコンの風が寒く感じて、タオルケットを肩までかぶった。


 次を考えてはいけない。

 理由は分からないけど、そんな気がした。


 重たい体を動かし、スマホを手に取る。

 イヤホンを耳に押しこみ、適当に音楽を再生した。

 気味の悪い音から気をそらすために。


*


 翌日も、十時を過ぎるとまた音がした。


 ——ギィィィ……

 ——バッタン

 ——……ッ、……ッ、……ッ


 私はすぐイヤホンを手に取った。

 でも、すぐ考え直す。


(本当に、誰か歩いてるだけかもしれないよね)


 そうなら、こんなに怯える必要はない。

 私は窓辺へ寄り、カーテンの隙間から通りをのぞいた。


 ——……ッ、……ッ、……ッ


 足音はまだ続いている。

 でも、通りに人影はない。

 右にも、左にも。


 ——……ッ、……ッ、……ッ


 なのに、足音だけが暗い通りを歩いている。


「……」


 私はすぐさまカーテンを閉め、イヤホンを耳に押しこんだ。

 それからは、夜にイヤホンをして、動画なり音楽なりを視聴することが、私の日課になった。


*


 やがて、どうしてそれが日課になったのか、一瞬考えなければ思い出せないほどになった頃。


 美咲が、また泊まりに来た。

 いつものように食べたり飲んだりしながら、だらだらと雑談する。

 時計を見ることも忘れていた。


 ——ギィィィ……


 ぎくりとした。

 今日はイヤホンをしていない。


 ——バッタン

 ——……ッ、……ッ、……ッ


「この音、まだするんだねー」


 美咲がのんびり言う。


「……うん」


 私は窓に軽く背を向けた。

 美咲はといえば、窓の方へ軽く耳を傾けている。


「なんか、バッタンの後にも、音してない?」


 心臓が跳ねた。

 やめて、言わないで。


「トッ、トッって」


 知っている。私にも聞こえている。


「誰か歩いてるね」


 私はうっすら口を開き、閉じた。

 言えば、存在を認めることになる気がした。


「こんな時間に。……スーパーに行くのかな?」


 途端、足音が少しずつ大きくなりはじめた。


 ——……トッ、……トッ、……トッ


 口の中が渇く。

 でも、手が固まってしまって、グラスのお茶が飲めない。


「でも、スーパーって開いてたっけ?」

「もう閉まってるよ」


 即答して、後悔する。

 話の接ぎ穂を得た美咲が、さらに続ける。


「じゃあ、どこ行くんだろ?」

「考えないで」

「え?」

「お願いだから。その音のこと、考えないで」


 何も知らない美咲は、目を丸くした。


 ——……トッ、……トッ、……トッ


 足音はまだしている。しかも、近くで。


 早く消えてほしい。

 ここを通り過ぎて、どこかへ行ってしまってほしい。


 万が一にも、このアパートへは来ないで。


 ——トン


 音が、また変わった。

 私はビクッと肩を跳ねさせた。


「どうしたの?」


 美咲に答えず、玄関を振り返る。


 ——トン、トン、トン


 する。階段を上っているような音が。


「ね、どうしたの? 何か音した?」

「しないよ、何も」

「え? してるよね」


 美咲も玄関の方を見やる。


「階段上る音。誰か帰ってきたのかな?」

「やめて!」


 悲鳴のように叫ぶ。

 美咲は目を丸くして固まった。


 しん、と部屋が静まり返る。


 何の音もしない。

 あの足音すらも。


 間に合った。

 あの足音は、この部屋へは来ない。

 ほっと息を吐いた――その瞬間。


 ——コン


 玄関から、音がした。


 ——コン、コン


 規則正しく、ノックの音が。

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