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いってきます

作者: 時藤 永雫

 目が覚めた。心地よい朝。すずめの声が聞こえてくる。今日は部活の選抜の日。土曜日だけれど朝練がある。台所から、食器のカチャカチャという音が聞こえる。母が朝ご飯を作っているのだろうか。伸びをして時計を見る。指された時刻は八時十五分。部活開始十五分前だ。……十五分前。

 慌てて飛び起きた。転がるようにベットから出る。乱暴にドアを開け、リビングへ。

「いてて……」

 勢いあまって壁に肩を強く打った。痛みに肩を押さえつつ、台所へ向かって吠える。

「母さん、どうして起こしてくれなかったのさ!」

 視線の先には、食器を洗っている母がいる。柔らかな表情が、突然きっと鋭くなる。

「起こしたわよ! 何度も何度も! それでも全然目を覚まさない! あの緩みきった顔見せてやりたいわ!」

 ものすごい剣幕で言葉を浴びせてくる。健太は逃げるようにして洗面台へと駆け込んだ。

 じゃぶじゃぶと顔を洗う。歯は磨かない。かわりにうがい薬を口に含む。少し辛い、ミントの香りが口いっぱいに広がった。

 乱暴にタオルで顔をぬぐい、寝間着を脱ぎ捨てる。学校の名前が印刷された、空色のユニホームを着る。スパイクを手に取って、玄関に向かう。かかとを踏んで靴を履く。背中で、母の怒気を受け流し、矢のように外へと駆け出した。


 カゴにスパイクを投げ入れて、自転車にまたがった。校則なので、ヘルメットをかぶる。あご紐は、だらんとだらしなく垂れ下がっている。サドルが、ハンドルが焼けるように熱い。思わず顔が引きつってしまう。四の五の言ってはいられない。健太は重いペダルをこぎだした。

 学校までは、ほとんど下り坂。登校は楽だが、下校は非常に苦痛である。いつもはブレーキをかけながら慎重に下っていくのだが、今日は急ぎだ。ブレーキに手を添えて、疾風のように進む。景色がどんどん後ろへ流れていく。健太は風になった。

 いよいよだ。あそこを曲がれば学校につく。スピードに乗っているが、たぶん、大丈夫。あそこはほとんど車も来ない。焦りで手にぐっしょりと汗をかいている。もうすぐ着く。もうすぐ。ぐいっとハンドルをきって。

 つるり。

 ハンドルから、手が、離れた。体が宙を舞う。質量を持った風は、徐々に地面に引き寄せられて。暗転。しびれる。こつん、と、ヘルメットの落ちる音がした。


 頭が、いたい。うめきながら目を開ける。薄暗い、見覚えのない天井。ゆっくりと起き上がる。不思議と体が軽い。まるで、空へと浮かんでゆくような。

 違う。「まるで」じゃない。「本当」に浮いている。そしてベットに横たわっているのは、他でもない、おれだ。信じられない。信じたくない。おれは、おれは……。

 扉の開く音がした。光が漏れている。誰かが出ていく。おれはあの背中を知っている。手を伸ばしても、届かない。動けない。待って、待って。

 (母さん!)

 パタン。光が、消えた。再び部屋が暗くなる。ひとり、暗い部屋に取り残される。少しずつ、意識が。いやだ、いやだ。すうっと、消えた。


 次に目を覚ますと、ただ真っ白い部屋で、焦げ茶の椅子に座っていた。この椅子は、知っている。リビングにあった椅子だ。目の前に、大きな男の人が、白いスーツを着て立っている。彫刻のような、彫りの深い顔。ゆっくりと、口が開く。

「ようこそ、ここは天国です」

 やわらかな低音に乗っていたのは、信じがたい言葉だった。さっと血の気が引く。もう、血なんて通ってないけれど。

「あなたには、これからここで、つぎの転生先が決まるまで暮らしてもらいます」

 意味が分からず、ただ口を金魚のように動かすことしかできない。

「住む場所も、手配してあります。それでは、いってらっしゃいませ」

 あたたかな、強い光につつまれて、ふっと意識がとおのいた。


 意識が戻る。よく知っている天井。自分の部屋の天井だ。でも、何かが違う気がする。先生に怒られているときの教室みたいに静かだ。ただ、時計の秒針だけが、時の流れを教えてくれる。

 夢だったのかもしれない、と、淡い希望を抱く。軽くなった体を起こしてリビングへ。そこに母親の姿はなかった。体が冷たくなるようだ。台所にも、寝室にも、トイレや洗面所にも。どこを探しても、母を見つけることはできなかった。その光景は、己が置かれている状況を知るにはあまりにも強烈だった。

 目の前が暗くなるようだ。健太は廊下で膝を抱え、うずくまった。どうして、おれは。ただひとり、嗚咽を漏らす。袖は濡れる一方で。夢から覚めることは、なかった。


 外に出よう。ふと、そんな気持ちになった。重い玄関の扉を押し開け、外へ。今は早朝。霧のかかった、静かな朝。人の姿は、まだ見えない。「知っている」と、「知らない」が入り混じった、不思議な景色。

 朝露に濡れた町を、ひとり静かに歩む。知らない道を、知っている道へ書き換えるように、ゆっくり、ゆっくり歩く。みずみずしい街路樹のトンネルをくぐり、灰色の町から外へ。

 川だ。緩やかな傾斜に、青々とした芝生が広がっている。川の向こう岸は見えない。霧のせいか、それともとても広いのか。

 ひりひりとする目じりをこすって、芝生に腰掛ける。やわらかい朝風が頬をなでる。風で冷やされた目もとが冷たい。川はとめどなく流れている。ときどき木の葉が運ばれてくる。そうしていると、どうも寂しくなって、また胸が苦しくなる。蕭々と吹く風は、涙で熱くなった顔を、懸命に冷やそうとしてくれているのだろうか。霧は優しく健太をつつむ。誰にも見られないように。


「ねえ」

 いきなり声をかけられた。ゆっくり顔を上げる。斜陽が健太を射る。女の子だろうか。逆光で顔はよく見えない。白色のワンピースが、西日で茜色に染められ、なめらかになびいている。

「どうかしたの?」

 楚々としたソプラノが沁みる。安心で、また、涙が。

 泣いてばかりだな、おれ。情けないな。

 すすり泣く健太の背中を、少女はずっとさすってくれた。落ち着くまで、ずっと。


 落ち着いた健太は、ぽつりぽつりと語りだした。寝坊をして、急いでいたこと。しっかりとヘルメットをかぶらずに自転車を漕ぎだしたこと。カーブを曲がりきれなかったこと。

「死んでしまったことが悲しくて泣いているわけじゃないよ。いや、悲しくないって意味じゃないけど……」

 ぽりぽりと頭をかく。

「あの日、母さんに、ちゃんと『いってきます』って言えなかったんだ。少し、ケンカをして、その場から逃げるように出て行ってしまった。悲しみ、よりも」

 ゆっくり息を吐く。

「後悔のほうが、大きいよ」

 ふと、隣を見る。女の子は、健太のそばに座って、静かに話を聞いていた。

「君の、望みはなあに?」

「え?」

 意外な質問に戸惑った。少女はこくん、とうなずく。

「あるでしょう? 自分の中で、最も大きな、望み。よく、考えてみて」

 望み? ああ、そうか。おれは。

「母さんに、もう一度逢いたい。『いってきます』って、ちゃんと言いたい」

 ふわりと立ち上がった彼女は、笑みを浮かべて言った。

「じゃあ、いいこと教えてあげる。ここでは、いいことをたくさんすると、ひとつだけ、望みを叶えてくれるの。だから、お母さんにも、逢えるかもしれない」

「本当に?」

 うん、と少女は微笑を浮かべる。そのとき、一陣の風が吹いた。眩しい。夕日の何倍も明るい光。

 私も、そのために頑張ってきたんだから。

 光が消え、目が慣れたころには、そこに少女の姿は、なかった。


 その日から、健太は変わった。早く起きて、外に出る。道案内をしたり、重い荷物を持ってあげたり。生きていたころはほとんどしていなかった、善い行いは、だいたい全部。彼らの笑顔を見るたびに、健太の心は潤されていくように思えた。

 そんな生活をどれくらい続けただろうか。健太は落ち葉を集めていた。ひとしきり掃いていると、急に強い風が吹いた。ああ、せっかく集めたのに。そう思ったのも束の間、まばゆい光につつまれた。この光を、おれは知っている。あたたかくて、優しい。


 目を開くと、よく見知った部屋にいた。でも、どこか懐かしい。カレンダーの日付は、健太が死んだ日から、ちょうど十五年。あの背中を、おれは知っている。あの時よりも、ずいぶん小さく、弱々しくなったように思えた。机には、紅茶が湯気をたてている。ルイボスの香り。カフェインの苦手な母が、よく飲んでいたものだ。

「母さん!」

 手を伸ばす。今度は届く。きっと。

 するり。

 健太の手はすり抜けた。よく見ると、少し透けている。声も、母には届いていない。目の前にいるのに。手を伸ばせば触れられる距離なのに。十五年前の事実を、再び突きつけられる。おれは死んだんだ。もう、住む世界が違うのだ。

「ああ……」

 力なく声が漏れる。触れられなくても、せめて、母の顔は見たい。

 ふと、後ろの棚に飾られている写真が目に留まった。手入れの行き届いた写真立てだ。誰のだろう。そっと手にとる。

 息をのんだ。これは、おれの写真だ。嬉しさと寂しさで、胸があたたかく、そして苦しくなる。静かに写真立てをもとにもどす。

 パタン。

 倒してしまった。ゆっくりと母が振り返る。目が合った。合うはずがないのだが。

 昔のままの優しいその目は、「待っていて」と、言っている気がした。


 時は経ち、健太は母と共に、天国で暮らしていた。ある日、アパートの郵便受けに、手紙が届いた。健太の転生が決まったのだ。

 出発の日。最後の別れを惜しむように、健太は母と静かに抱き合っていた。あのときは触れられなかった肩を、しっかりと。言葉は交わさない。余計に寂しくなるから。

 出発の時間になった。靴を履く。かかとは踏まない。母の肩は小刻みに震えている。涙をこらえる様子を見て、こちらも熱いものがこみあげてくる。

 泣かないって決めたんだ。心配してしまうから。

 ドアノブに手をかける。泣くな。泣くな。笑顔で言うんだ。あの日言えなかった言葉を。

 くるりと振り返る。泣かないって決めたのに、お互いの顔はぐしゃぐしゃだ。深呼吸して、さあ。

「いってきます」

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