眠る小川、目覚める虫たち。
その日は、音に満ちていた。
小川のせせらぎ。土の中から目覚めた虫たちの羽音。
笠に当たる風の音も、いつもより柔らかく、少しだけ跳ねるようだった。
「にゃあ……春の音が増えてきたにゃ」
ノラが、ぼくの肩の上で丸まりながらつぶやいた。
「畑の虫たちが、みんな“起きたよ”って言ってるにゃ。草の根っこの下から、ぞわぞわにゃ」
ノラの耳がぴくりと動いた。
笠の縁に一匹のてんとう虫がとまり、ゆっくりと歩いていく。
「この子たちも、今年も来たにゃ……ちゃんと春はめぐるんだにゃ」
その言葉に、ぼくは静かにうなずくような気持ちになった。
けれど、虫の羽音に混ざって、どこかで――
聞き慣れない音が、ひとつだけ紛れ込んでいた。
ピィ……ガリ……ピ……
機械のような、擦れるような、何かが回るような。
ノラもすぐに気づいた。
「……ああ、まただにゃ。昔の“こえ”だ」
ノラが立ち上がる。笠の上で、風を嗅ぐように鼻を動かす。
「ずっと前の“でんぱとう”ってやつ。まだ、どこかで音が残ってるにゃ」
畑の先。草むらの奥。
そこには今でも、黒ずんだ柱が立っている。
錆びついた鉄が巻かれ、折れた電線が風に揺れていた。
「ここらの昔の人間は、"こえ"を沢山の家に送ってたらしいにゃ……」
「でももう、それを受け取る家も、作る人も、残ってないにゃ」
ノラの言葉に、ぼくは何も返せなかった。
けれど、風がひときわ強くなり、虫たちの音が一瞬、止んだ。
「……怖くないかにゃ? この世界が少しずつ静かになっていくこと」
ノラが、ぼくを見上げる。
「でも、おまえは案山子だにゃ。風が止んでも、音が消えても、きっとここに立ってる」
ぼくは、ただ黙って、その言葉を受け止めた。
その夜。
ノラは、ぼくの肩の上で深い眠りについた。
そして夢を見たらしい。
何か、忘れたくない記憶を。
「……昔、おまえ、笑ったことあったかにゃ」
「にんげんだったころ……誰かと肩を並べて、笑ってた気がするにゃ」
ノラの寝言のような声が、春の夜風に溶けていった。
遠く、もう使われない小学校の跡地に立つ風見鶏が、
ぎぃ……とゆっくり一度だけ、回った。
「音」というのは、記憶とつながっています。
今回は虫の声、風の音、そして“もう消えかけた機械音”を通して、
この村とこの世界が辿ってきた静かな終末の気配を描きました。
ノラの夢には、案山子の“過去”が少しだけ重なっています。