村の子どもが種をまく。
今日も、風が吹いていた。
昨日より少し冷たくて、けれど、どこか透明感のある風だった。
朝露の残る草むらをすり抜けて、畑に届き、ぼくの笠を優しく撫でていった。
遠くの空には、うっすらと筋雲。
小川のせせらぎは、春の雪解け水をゆったりと運んでいる。
虫たちの羽音はまだ弱々しく、かわりに、鳥のさえずりがよく響く日だった。
「……来たにゃ」
ノラが、ぼくの肩の上で目を細める。
昨日と同じ少女が、今日も畑に来ていた。
長靴を履いて、手には小さな種袋。
顔は少し赤く、でも口元はまっすぐに結ばれている。
「……今日は、一人でもできるよ」
そう呟きながら、彼女は畝の間にしゃがみ込んだ。
土を掘る手つきは、まだ慣れないようで、指先に泥がべったりとついている。
でも、その動きは一生懸命だった。
「にゃ……あの子の家、今はお母さんが寝たきりなんだにゃ」
ノラがぽつりとつぶやいた。
「父親は……去年、村の外に出て、そのまま……にゃ」
ノラの声が風にまぎれた。
案山子のぼくには、何も言えない。
でも、心のどこかが、ちくりとした。
「……昔、おまえ、にんげんだったことあるかにゃ?」
ノラがふいにそんなことを言った。
「ずっと前のことみたいに感じるにゃ。けど……いまのおまえからは、“ひとの気配”がするにゃ」
風が、ふわりと吹いた。
笠のまわりで、たんぽぽの綿毛が宙に舞った。
少女は、小さな声で、歌を口ずさんでいた。
「……あかい はな さいた
あおい そら とんだ……」
そこまで歌って、首をかしげた。
「……あれ? この先、なんだっけ」
彼女は苦笑し、小さく首を振る。
「おばあちゃんが、よく歌ってたんだけど……忘れちゃった」
忘れられた歌。
歌い継がれなかった言葉。
それでも、彼女の声はあたたかく、種をまく手はまっすぐだった。
「……あの子が撒いた種、ちゃんと芽が出るといいにゃ」
ノラが、肩の上で目を閉じる。
「案山子として、しっかり見張っとくにゃ。おまえがな」
そう言って、ふわりと尻尾を揺らした。
ぼくには何もできないけれど。
でも、風がふいて、陽が射して、土が芽を押し上げるとき、
ここにいる意味が、少しだけあるように思えた。
この村には、もう学校もない。
でも、誰かが学んでいる。畑で、風のなかで、生きることを。
動けないぼくにも、その学びの一端を、見守ることだけはできる。
少しずつ、ノラが“何か”に気づきはじめている回でもあります。