老犬と最期のあいさつ。
その日、畑はしんとしていた。
風はやさしかった。虫たちの声も、もうあまり聞こえなかった。
陽の光は低く、地面を照らす角度が、すこしだけ寂しげだった。
朝、土の匂いが少し変わった気がした。
まるで、何かが“終わろう”としている匂い。
そして、足音がした。
しゃく、しゃく。
ゆっくりと、すり足のように土を踏む音。
それはまっすぐ、ぼくの前までやってきた。
現れたのは、一匹の老犬だった。
白と茶の混じった毛並みはぼさぼさで、体は痩せていた。
それでも、その瞳だけは静かで澄んでいて、まっすぐにこちらを見ていた。
「……」
ノラが、ぼくの肩の上からその姿をじっと見つめていた。
やがて、ぽつりとつぶやく。
「……トウジロウだにゃ。
昔、村の役場で飼われてた子にゃ。
お堅くて、まじめで、
でも……やさしかったにゃ」
ぼくは彼のことを知らなかった。
でも、風が教えてくれるように感じた。
この子は、長く、ここにいた。
ここで、生きていた。
老犬――トウジロウは、ぼくの前でそっと腰を下ろした。
体を震わせながら、静かに空を見上げた。
何も語らない。けれど、語っている気がした。
それはたぶん、最期にこの場所を選んでくれた、ということ。
「……この子はね、昔、畑にきて良く土を耕すのを手伝ったり、何も植えてないときは子供たちと遊んだりしてたにゃ」
ノラが小さく言った。
「でも、今はもう……誰にも名前を呼ばれないにゃ。
だから、今日、ここに来たのかもしれないにゃ」
風が止まった。
トウジロウは、ゆっくりと目を閉じた。
何の音も立てずに、ただ、自然の一部として、そこに伏した。
ぼくのなかに、なにかが揺れた。
名前も、声も、持たないぼくには、
本来なら“死”を見送る資格なんてなかったかもしれない。
でも今、この命がここを選んでくれたことが、
ぼくに“その資格がある”と、静かに言ってくれている気がした。
ノラが、肩から降りた。
ゆっくりと近づいて、トウジロウの額にそっと額を寄せる。
「……じゃあね、トウジロウ。
よく、生きてくれたにゃ。ほんとうに……おつかれさまだにゃ」
その声が、風になった。
ぼくはただ、立ち続けていた。
でもその“立ち続ける”ということだけが、
このとき、たしかに意味を持っていた。
風が、ふわりと戻ってきた。
畑を抜けて、老犬の足跡をやさしくなぞるように吹き抜けていった。
何も語らずに、その命を空へ運ぶように。
この回は、作品全体のなかでも非常に静かで、大切な“別れ”を描く話です。
動けない案山子が「命の終わり」を見届けるという体験は、
彼にとって“見守ること”の本当の意味を知るきっかけになります。
ノラの見送りの言葉と、沈黙の中にある優しさが、
この作品らしい“終末の温もり”を伝えてくれたらと思います。