枯葉と土のにおいと。
朝、風が変わった。
夏のころの風は、草のにおいが濃くて、どこか蒸したような匂いを含んでいた。
でも今はちがう。鼻の奥をすっと抜けていく、乾いた風。
そこには――枯葉のにおいと、土のにおいが混じっていた。
「……秋の匂いにゃ」
ノラが、ぼくの肩の上で深く息を吸った。
「ちょっとさみしいけど、悪くないにおいにゃ」
「夏の花が終わって、虫が静かになって、でもまだ“冬じゃない”って感じにゃ」
風がひと吹き、畑の端から落ち葉を運んでくる。
サラサラという音が、麦の刈り株をすり抜けていった。
「サエ、土のにおいって、覚えてるかにゃ?」
ノラがふいに聞いてきた。
「にんげんだったころ……。
手に土がついて、それを落とすと、あの匂いがしたにゃ」
ぼくは覚えていない。
でも、風が運んでくるにおいを嗅ぐたびに、懐かしさに似たなにかが、胸に広がる。
「村の畑は、ちゃんと手入れされてるにゃ。
でも、誰がやってるか、最近は誰も知らないにゃ。
朝になると耕されたあとがあって、草が刈られてるにゃ。……不思議だにゃ」
ぼくはそれを、知っている気がした。
というより、“風”がそう言っていたように思えた。
きっとそれは、この村に残った人たちの“癖”だ。
気づかれずに、ただ淡々と、暮らしをなぞるように。
ノラはしばらく黙っていたが、やがて小さな声でこう言った。
「この村のにおい、サエ、おぼえててにゃ。
いつか全部、消えちゃっても……このにおいだけは、忘れないでにゃ」
ぼくには約束も言葉も交わせない。
けれど、笠が静かに鳴った。
それが、風を通じたぼくの返事だった。
その日の夕方、少女がやってきた。
足元にかさかさと音を立てて、落ち葉を踏みしめながら。
「……サエさん、もうすぐ引っ越すよ。
でも、大丈夫。においは忘れない。土のにおい、風のにおい。……ノラちゃんの匂いも」
彼女は、ぼくの足元に落ちていた枯葉を一枚拾い、
ぎゅっと手に握ったまま、振り返らずに帰っていった。
風がふたたび吹いた。
今度は、すこし冷たくなっていた。
「におい」は、記憶と深く結びついた感覚です。
この回では、枯葉と土、風のにおいを通して、
秋の深まりと“別れの準備”をゆっくり描いていきました。
においを忘れない、という約束は、言葉よりも深い“記憶の印”です。