ノラがいなくなった日。
朝から、風が妙にやわらかかった。
冷たくはないのに、どこか頼りなく、乾いていた。
虫たちの声はまだ残っている。
でも、草の色は少しずつ黄色みを帯び、日陰には落ち葉が混じりはじめていた。
肩の上が――軽い。
ノラが、いなかった。
朝日が射すころには、いつもなら肩の上に飛び乗ってくるはずだった。
あの、のびをする声も、ふわりと巻きつくしっぽの重さもない。
「……今日は、遅いのかな」
言葉にはならない。
でも、そんな思いが、ぼくの中でぽつりと生まれた。
子猫たちもいない。
昨日の夕方には、ノラの背にのって一緒に帰っていった。
それ自体は、よくあることだった。
でも今日は――何かが違った。
笠の上に一匹のてんとう虫が止まり、またすぐに飛び立った。
その音だけが、やけに耳に残る。
風が吹いた。
それは、やさしいけれど、どこか物悲しい風だった。
午後になっても、ノラは来なかった。
少女も来ない日だった。
畑の先には、遠くで鐘を直す音だけが響いていた。
止まったままだった村の塔時計を、誰かが久しぶりにいじっているらしい。
ぼくの中で、時間が“止まったような”感覚があった。
夕暮れが近づく。
空は高く、色はうすく、雲はちぎれた綿のよう。
虫の音がいっせいに鳴き止み、代わりに、静寂が畑を包みこむ。
ノラは――来なかった。
夜がきた。
星は少なく、空気は乾き、冷えた。
ぼくはひとりだった。
動けない。喋れない。
ただ、風のなかで、静かにそこに立っていた。
ほんの少しだけ、笠の縁が揺れた。
それが風のせいなのか、ぼくのなかの何かが動いたのかは、わからなかった。
第1話からずっと傍にいたノラが、姿を消す回。
とても大きな“静かな変化”を描いています。
この喪失が、物語の秋の章を通じてじわじわと色を変え、
やがて“再会”と“真実”へとつながっていきます。