春風、すこしだけ目が開いた日。
カラン……コロン……と、どこかで風鈴が鳴った気がした。
春の風が、畑を撫でるように吹き抜けてゆく。
ぼくは、それを感じた。
見えているわけでも、聞こえているわけでもない。
でも確かに、あの風には、色があって、音があって、匂いがあった。
淡く、すこしだけ湿った匂い。
遠くの木々が、葉を擦りあわせる音。
足元の土から、やわらかく立ち上る春の気配。
ぼくは、案山子だった。
動けない。喋れない。
けれど、風の通り道のような“何か”が、確かにぼくのなかを抜けていった。
*
視界の端で、黄色いたんぽぽが揺れていた。
そのそばに、小さな足音が近づいてくる。
「にゃあ……今日はあったかいにゃあ」
ふわりと肩に乗った重みと、しっとりとした肉球の感触。
それは、猫だった。
灰色の毛並みをした、まだ若くも老いも感じさせない猫。
のんびりと瞳を細めて、ぼくの肩で香箱を組んだ。
「おまえ、前からここに立ってたけど……ちょっと変わったにゃ」
猫は、目を閉じたままぼそりと呟いた。
「なんだろう……においが、違う。あったかくなったにゃ」
風がまた吹いて、小川のせせらぎが、どこからか聞こえてきた。
そういえば、この畑の向こうにあった石橋は、去年の大雨で半分崩れたらしい。
誰も修理しないまま、苔と草が覆い、今は獣道のようになっている。
「……昔は、この村にも“とどけびと”が来てたらしいにゃ。手紙とか、荷物とか運ぶにゃつ。おばあちゃんが言ってたにゃ」
猫が、風に紛れてつぶやく。
「でも、もう来ないにゃ。十年くらい……にゃ?」
ぼくはただ、立っていた。
立ち続けていることしかできないけれど、いま、この猫と過ごしているこの時間だけは、きっと何か意味があるような気がした。
この猫といる意味を考えてみよう。
そうだ、名前を決めようか。
僕には名前を呼ぶ口はないけれど。
野良猫の"ノラ"。うん、悪くないんじゃないかな?
空にはまだ雲が少し残っていたが、春の陽はのびやかで、やわらかく、どこまでも遠くを照らしていた。
ここは、もう誰も地図に記さない場所。
でも、確かに風が吹き、命が芽吹いている村。
“動けない”案山子だからこそ見えるもの、
“動かない”猫だからこそ寄り添えるもの。
そんなふたりの物語を、どうぞこれから見守ってください。