5 タワマンに、居る
17:30少し前。
所長が私のデスクに向かってくるのが視界に入った。
いつもは超つまらないことでも呼びつけるのにコエダメのほうから来るなんて気持ち悪い。
「安寧くん、たまには早くアガリなさい。」
入社して三年目、こんなことは初めてだ。
ますます気持ち悪い。
一体どういう風の吹き回しなんだか。
「…突然どうなさったんですか?」
隣席のリア充、草田実寛が露骨にこちらを見ているのが視界に入っている。
クサッタミカンにだって、コエダメの行動が奇妙に思えているはずだ。
コエダメが顔を寄せてきた。
息が臭い。
一体、何を食べてどんな生活をしたら、こんなに口が臭くなるんだろうか。
「本社から君の勤退表を見て、異常だと指摘があった。おそらく視察役の藤井君がチクったんだろう。」
おのれ、フーガモドキ。
私のなけなしの残業代をむしりとるとは。
……とは思わない。
嫌がらせのつもりだったのかもしれないけど、そもそも殆どがサビ残だったから何も失うものはない。
大体、モドキは毎日ベルダッシュで、私が残業してる姿なんか見たことないだろうに。
「指摘されたのは君についてだけなんだけど…まぁ、君の残業時間が断トツだからなぁ。…ともかく、藤井くんの契約が今月末で終わるまででいいから、しばらくは遅くとも18時には終わるように。今日はもう帰って。」
「……わかりました。」
不満顔を隠そうともしないコエダメは言いたいことだけ言うと私が返事をするころには後ろ向きに手をあげてさっさと立ち去っていた。
私は立ち上がって勤退のソフトを立ち上げ、『退社』ボタンをクリックした。
「ほんとに帰るんですね…。」
クサッタミカンが呟いた。
「あとお願いしますね。」
「…え…えぇっ!?何をお願いするんです?先輩の残りの業務とかいうのやめてくださいよ!?無理に決まってるじゃ…ひぇえ!?先輩っ!?」
何が先輩だ。
アンタのほうが年上だし、先輩だなんて爪の垢ほども思ってないくせに。
白々しい。
たまにはアンタだって残業ぐらいしろっつーの。
経理に回す書類を出すのを忘れたと思って、一回部屋から出たのに席に戻ると、クサッタミカンが「クソ!安寧のくせに!」って何回も言いながら、拳でゴンゴン机の上を打ち付けてた。
いつものキャラと違って、ちょっと引く。
私が机の上から書類を取ると、ミカンはビクッと体を硬直させた。
私は無言で書類を経理にだし、ミカンには一瞥もくれずに再び部屋から出た。
指定の住所には愛車で向かった。
『愛車』というのは、もちろんアレ。
例のボロ自転車だ。
マップのアプリを立ち上げて「案内開始」をタップし、自転車を漕ぎ出した。
その瞬間。
ビュン!!と周りの景色が飛んで、私は別の場所に立っていた。
「……………は?」
周囲にはまばらに人がいるけど、私が前からそこで自転車に乗っていたかのように全く私に注目していない。
(私、今、突然あらわれたはずなんですけど!?)
キョドる私に、すれ違った買い物袋をさげた仕事帰り風の女性が怪訝な顔をした。
目の前にはタワマン。
入り口の黒い扉に昔の大阪万博のシンボルマークみたいなお日様の顔が金色で描いてある。
いかにも『金もちが住んでるぞー!』的なタワマン。
「…なにこれ…?…夢?…てか私、からかわれてるの…?」
私は自転車にまたがったままゴキリと首をかしげた。
フツフツと怒りがわき始めたとき、タワマンの正面玄関、黒い扉がフィン…と静かに開き、中からモドキが出てきた。
びっくりして自転車のハンドルを持ったままのけぞってしまう。
「からかってませんよ。」
もうこれ以上、何にも驚かないだろうと思っていたけど、ふっつーに驚いてしまう。
いやはや。
「どうぞ。自転車ごと中にはいれるんで。」
と、モドキは優雅な仕草でスイッと進行方向に手をスライドする。
思考能力が停止していた私は言葉もなく、自転車をカラカラ転がしながらタワマンの中に入った。
コンシュルジュが恭しく頭を下げた。
モドキはクイッと片手をあげて適当に挨拶しただけだった。
私は大の大人に頭を下げられて無視できる神経は持ち合わせていないのでペコリと頭を下げた。
そんな私を見てモドキがクイッと眉をあげ、また前を向いて正面にあった扉を開いたままのエレベーターに乗り込んだ。
「そのまま入ってください。」
言われたとおり、自転車ごとエレベーターに乗る。
絨毯が敷き詰めてあるような広くて豪華なエレベーターの中に、こんなボロい自転車で乗り込んでいいのだろうか?
そして、最上階について、伝統工芸品みたいな木彫りの玄関扉がある部屋の前で止まったモドキは「ここらへん、どこにでも停めておいてもらえれば」
と、言った。
瞬間、ここまで黙って黙々と彼についてきていた私の、ポンコツな頭の回路がピーーーーーーン!!と繋がった。
「あ、あ、あ、あ、あなた!!何なんですか!?」
今日はこの人にこればっかり言ってる。
「いや、それ、そもそもこっちのセリフなんですけど。…てか、のけぞられたの初めて。」
クックッとモドキが笑う。
「のけぞるでしょ!?今すぐ逃げたいですよ!本社から派遣されてきた人とはいえ、あんな零細企業に派遣で勤めてる人が住める場所じゃないでしょ!?ここ!…あ、別にあなたの持ち物ってわけじゃないとか?」
「僕のですよ。」
「いや、アンタのかーい!」
「しかも一棟丸ごと。」
自転車を押して回れ右し、エレベーターに戻ろうとした私の自転車がガッシリと掴まれた。
「いや…あの…。」
「逃がしませんよ……。」
モドキの前髪からのぞく目が不敵に光り、口許がニヤリと笑いをこぼした。
今日の昼は距離をとって見てても何度も悪寒が走ったのに、不思議と何とも思わなかった。
今なんて腕をつかまれているっていうのに、あの時感じた生理的な嫌悪感が全くない。
言動はむしろ昼より気持ち悪いほどなのに。
「ここ、来いって指定してた場所じゃないですよね?」
首からぶら下げていたスマホを見ると、マップアプリの道案内は『南に戻る』と矢印が出ていいる。
「どれ?」
モドキが私のスマホをのぞきこんだ。
とても高そうな、良い香りがする。
なぜかすごく、ホッとする香り。
画面を見たモドキは無言だった。
「……ああ……まぁ……気にしないで。」
まとう雰囲気がマシになったから、昼間の印象は別人格なんじゃないかとさえ思ったけど、この会話のキャッチボールの成立たなさかげん。
間違いなく藤井風雅だ。
* * *
白くてやたら広い玄関の壁に、造付けのオシャレなフックが三つ。
モドキはそのうちの1つにかかっていたハンガーを取り、着ていたジャケットをかけた。
私に向かって手を伸ばしてくる。
私のジャケットも渡せという意味らしい。
「い…いえ。大丈夫です。」
(ジャケットを脱ぐほど長居するつもりはないので。)
「…じゃあ、脱ぎたくなったらあとで勝手にココにかけて。」
話し方が急にタメ口になった。
獲物が自分のテリトリーに入ったから遠慮がなくなった、みたいなことだろうか?
「はい。」
(てか、脱ぎたくなんかなりませんけど。)
フックには既視感のあるバックパックがぶら下がっていた。
オリーブグリーンに黒のトリミング。
アウトドアブランドのロゴ。
そして、何かに切り裂かれたような5センチほどの切れ目が右下にあって、ぶきっちょな縫い目で縫い合わされている。
「……どうかした?」
声をかけられてハッとした。
「いえ、なんでも。」
きっと、量産されてるリュックなんだろう、と、このときは思った。
「コーヒー飲めるよね。淹れるから座ってて。」
「あ…いえ…おかまいなく……。」
そう言いながら私は部屋の中を見回しそうになって、ギギギ…と目線を足元にうつした。
他人様の暮らしを好奇心でジロジロ見るなんて失礼だと思うし。
「……僕の資産を目にしたら大抵の女性は前のめりになるんだけどな。 のけぞられたの初めて。あ、無言で逃げようとされたのなんかもっと初めてだけど。」
そのあとに続いた「まぁ、君らしいね」、という台詞はどういう意味かと一瞬ひっかかったけど、スルーした。
たいした意味はないだろうし。
モドキが高そうなコーヒーサーバーに豆をセットして、ピッとスイッチを入れるとコーヒーのアロマが部屋中に広がった。
(何…このショールームみたいな部屋は……)
私は場違いすぎてドコに座っていいかわからず、革張りのソファーの横の床にちんまりと座った。
顔のすぐそばで座面から高級そうなレザーの香りがプンプンする。
「…ソファー、見えてる?」
「き、傷とかつけたら大変ですので…。」
モドキが肩をゆらして笑うのを我慢している。
昨日みたいに嫌味に笑わないのはどうしてなんだろう。
「その上にダイブとかしても別に怒らないよ。飽きたら定期的に買い替えてるし。どうぞ。」
言い方は昨日と大違いで優しくて丁寧だけど、言ってる内容はド貧民にはかなり嫌味だ。
一セットだけで私の月収が飛びそうなカップとソーサーに注がれた美味しそうな黒い液体が魔王の血みたいに思える。
毒が入ってたりして。
いやもう、こんな状況に身を置いてなきゃならないなら、いっそ今すぐ猛毒で瞬殺されたい。
「あ…はは…。 で、では、遠慮なく…。」
モドキは自分の分のコーヒーをローテーブルに置くと、ソファーには座らず、リビングの横のスライド式の白いドアに向かい、それをすっと開けた。
中は寝室らしい。
そして、その中に入ったモドキは、私の居る位置から見える、白い、おそらくクローゼットの扉であろう扉を引いた。
ジャバー…と、私の口の中からコーヒーがこぼれた。




