1 カワウソが、居る
今日も激務を終え、真夜中に帰宅した私の部屋に、何故かカワウソが居る。
こないだリア充自慢がうっとうしい同僚の男が恋人とヨーロッパ周遊してきたとかでお土産にくれた、私のとっておきの紅茶、ロイヤルブレックファーストを勝手に淹れて飲んでいる。
緑のベロアのベストに、襟がレースのスタンドカラーシャツ、エンジ色の蝶ネクタイ。
中性のヨーロピアンな出で立ち。
ブツブツ独り言を言う話し方が年よりくさい。
カワウソが独り言?
ああ、そうか。
私、ついに働きすぎて頭がおかしくなったのかも。
先月も救急車で帰宅途中に貧血で倒れて救急搬送されて、翌日病院から直接出勤したっけ。
あんな嫌な朝帰りって無かったわ。
それで、こういう時って、労災認定されるんだろうか?
つまり、部屋にカワウソが見えるときって。
「部屋でカワウソが二足歩行で紅茶を淹れてるんです」って?
ハハッ、カワウソなんか、別に後ろ足で立つの、珍しくないでしょ?って、言われない?
「違うって!!そういうことじゃなくて!!」
四畳一間のボロアパートの玄関で立ち尽くしたまま、私は叫んだ。
「ん?どうされた、アンネリーサ殿?おっと、一応は初対面であるからして、『はじめまして』、かの?」
「はじめましてに決まってるでしょぉ!?カワウソの知り合いなんかいないし!てか、なんですかその名前!私、安寧理沙ですから!」
「だからアンネリーサ殿と言うておろうが?……はて、耳がわるいのかの?主からはそのような情報は与えられておらんが…まぁよい。貴殿もこちら、飲まれるが良い。」
そういって、直径40センチくらいの愛用のドピンクの丸いちゃぶ台の上に、柄の不揃いなマグカップが二つ置かれた。
「色気が無いのぅ…。エレガントなティーカップとまで言わずとも、せめてお揃いのマグカップとか、ないのかの?」
フリマで500円で買ったちゃぶ台の上に、がらくた市で買った各20円のカップだ。
それ以上を求められても困る。
私は物事に順応しやすい人間だ。
激しく貧しい暮らしをしてきたから、そうあらねば生きてこられなかったというのもある。
だけど、さすがに家に帰ったら喋るカワウソが居たとか、無理だ。
でももう、三日合わせても睡眠時間が5時間に満たない私には、考えること自体、無理だ。
ああそうか、私、やっぱり夢を見てるんだ。
「恋愛キャンセル界隈に、色気とか、お揃いのマグカップとか、マジ無用なんですよ!」
夢の中に居るらしき私は、とりあえずカワウソに答えた。
「貴殿の言葉は良くわからんが、ほれ、冷めぬうちに。」
カワウソに勧められるままに、紅茶をすすった。
芳醇な香り。
旨い。
もらってすぐに自分で淹れたのより、ずっと。
この部屋では白湯しか飲んだことがなかった私には、すさまじい贅沢だ。
「誰かに淹れてもらうお茶って、美味しいね……。」
ポツリと言葉がこぼれ出た。
そんなふうに誰かと接したのって、いつぶりだろう?
過去にそんなことがあったような…?
カワウソは短くて、でもとても器用な指でポットの取っ手をつかみ、蓋に手を添えて、自分のカップに紅茶のおかわりを注いでいる。
そういえば先週取材で水族館に行ったとき、コツメカワウソの握手会があるっていうんで職員さんに勧められるままにカワウソと握手したっけ。
ひんやりして、ちょっと湿ってて、柔らかくて。
固くてザラザラしたのを想像してたのと、ずいぶん違った。
目の前の、執事服みたいなのを着て蝶ネクタイをしたコイツの手は、握手したらどんな感じだろうか。
「ちと、冷めたのぅ。」
そうひとりごちたカワウソの手が白く光り、ポットの口から湯気がたった。
魔法(?)が使えるカワウソ。
いよいよ夢だ。
アハハ。
なぁんだ、やっぱり夢かぁ。
ずず…ずず…。
紅茶をすすっているうちに、まぶたがトロンと落ちてきた。
しつこいようだが、きっとこれは私の夢なのだ。
このところ、何度も繰り返し不気味な夢を見ていたのだが、それとは全く違う愉快な夢で嬉しい。
もう一生、あの夢しか見れないのかと思って眠るのが億劫になっていたほどなのだ。
わたしのまぶたが落ちかけていることに気がついているのかいないのか、カワウソは喋り続けている。
「先週は、ホレ、あそこの、秋田原の電気屋に行ってきたんだがの?」
(あなたみたいなのがそんなところに行ったら、とっくに全国ネットのニュースになってるでしょうよ。)
頭でそう思っても、今この瞬間にも眠りにつこうとしている私には、もはや答える力も残されていない。
「ある家族は炊飯器を見て、高くて買えないと嘆いておったのに、別の家族は100万ほどするホームシアターのセット一式を息子に買い与えとった。貴殿の国は本当に歪んどるの?ちょっと、首相のリーダーシップがなってなさすぎるのでは?我が国、ああ、貴殿も知っておろうが、ビースタリオード王国の国王の爪の垢でも、ドンブリいっぱい持ってきてやろうかの?」
てゆーかなんなの?その話。
夢の中でも私の知らない話って、出てくるものなの?
ビースタリオード王国はわかるわよ?
だって、私が書いた小説に出てくる国の名前だもん。
ああそっか、だから夢なのね?
「それにしても……外に何やら煩い羽虫がおるのぉ…。」
カワウソの声が低く、唸るようになった。
仕方ないじゃん。
今どき風呂もトイレも共有のお化け屋敷みたいなボロアパートなんだから、ハエぐらいいるわよ。
「この大賢者を前に、小賢しい。」
ブワリとカワウソの背中の毛が逆立った。
「浄化。」
静かにそう言って窓に向かって手を払う仕草をすると、窓の外でグェ!とカエルがつぶれるような声がして、テニスボールぐらいの光が二つ、ボッ!と弾けた。
「フン。」
窓の外を一瞥したカワウソは、またティーカップを手にコクリと茶をすする。
(カワウソのくせに、なんか、カッコイイ…。)
心の中で合いの手を入れ続けていると、眠り始めた私に気がついたカワウソが私の前にずいっと顔を寄せてきた。
息が魚臭い。
カワウソって、肉食で、魚とか食べるんだよな…。
「起きておるか?ちょっと?アンネリーサ殿?」
「だから…わたしは……安寧……」
ひんやりした手でピシピシと頬を叩かれ、からだが揺れるのが余計に心地よく、わたしは数日ぶりに会社の床ではなく自分の部屋の床で眠りについたのだった。