相対の時 その④
「……俺たちと一緒に帰ろう、匂宮。秋川の言うことなんて聞かなくていい」
「そうかしら。元々私は匂宮グループの代表なのよ。一時的にその座を空けていただけ。本来であれば、匂宮グループの代表であるべきなのがこの私なのよ。今、こうしてこの仕事をしているのは、本来私がいるべき場所に戻ったというだけ。あなたたちと帰る必要はないの」
淡々と言葉を口にする匂宮。
それは本気で言っているようにも、ただ用意された台詞を喋っているだけのようにも見えた。
「……秋川の言いなりになってグループの代表を続けるのが、本来の匂宮だってことか?」
「過程はどうあれ結果は同じということよ。私は私が匂宮家であることから逃れられない」
「逃れられない……? その言い方だとまるで、匂宮グループから逃げ出したいって意味に聞こえるけど?」
「……!」
匂宮の表情に動揺が走る。
「もうこんなことはやめよう、匂宮。いつかは匂宮がグループの代表にならなきゃならないのは分かる。だけどそれは、誰かに脅されて―――その誰かのエゴのためにって理由じゃなくてもいいだろ?」
「それは――そうかもしれないけど」匂宮は歯を食いしばるようにしながら言った。「だからといって他に手段がないの。私がグループの代表で居れば匂宮グループも守られる。あの男の言うことを聞いていれば又野くんや麻里も守れる。そういう条件で、私は今、グループの代表になっているのよ」
匂宮の声が震える。
今の匂宮にはかつて俺を救ってくれたときの堂々とした態度の面影はなく、不安や恐怖に押しつぶされかけている小さな女の子そのものだった。
というかむしろ、そちらの方が匂宮の本質なのだということを、俺は彼女と過ごした日々の中で気付かされた。
俺は俺自身の無力さと、秋川という男を呪った。
どうして自分の望みを叶えるためだけに、こんな小さな子を犠牲に出来るのだろう。
「なあ、匂宮。グループの代表なんてやめろよ」
「……私が代表をやめればどうなるかを分かって言っているの?」
「匂宮グループそのものを秋川に渡してしまえよ。グループの収益向上とか経営方針とか、あの意味の分からない会議とか企業内の権力争いとか、そんなのはそういうことが好きな人間にやらせておけばいい。匂宮はそうじゃない……だろ?」
「好きとか好きじゃないとか、そんなこと関係ない。私は匂宮グループの人間なのよ。だからグループの跡を継がなきゃならないの。そもそも私がこうしていなければ、又野くんは住むところだってないんだから」
……………。
それは、そう。
はっきり言う。俺は匂宮に養われている。
今の俺の生活は、全て匂宮のお陰で成り立っている。
それは俺が匂宮のパートナーだから―――匂宮が、俺をパートナーとして認めてくれているからだ。
だとしたら。
俺は、パートナーとしてやるべきことをやらなければならない。
「匂宮、俺、働くよ」
「……え?」
匂宮が目を丸くする。
俺は構わずに言葉を続けた。
「ずっと思ってたんだよ、俺、誰かに守られてばかりだったって。匂宮はずっと俺を守ってくれているし、その前は―――あの秋川でさえ、俺の生活を保障してくれていた。俺は今まで一度も、自分ひとりだけで生きてこなかったんだ。だから、今がその時なんだと思う。高校もすぐやめて、どこかで働くよ。大鳥理事長や牛山に土下座してでも働かせてもらえる場所を探す。それで、借金してでも匂宮が幸せに暮らせるようにする」
「何を言ってるの、又野くん……!?」
「1000万もいつか返す。だからもう、匂宮グループの代表なんてやめてしまえよ、匂宮」
「又野くん……!」
匂宮は半分泣きそうな顔をした。
めちゃくちゃなことを言っている自覚はあった。
だけど、今の俺にできる最大限のことは、匂宮のために働いて金を稼ぐってことくらいだというのは本心だった。
「あ、あの、私も一応貯金がありますので! お嬢様と又野さんのお二人くらいなら、しばらくは何とかなりますから!」
何か言わねばと思ったのか、麻里さんが上ずった声を上げた。
匂宮は俺の顔を見た後、少し俯いて、しばらくしてからもう一度顔を上げた。
「……匂宮家の者として、今すぐ代表をやめることはできない。でも―――又野くんが待っていていくれるなら、私、いつかはグループから離れる。そうしたら、必ずまたあなたのところに行くから」
さっきまでの虚ろな表情ではなく、決意を感じられるような瞳を俺に向け、匂宮は言った。
「匂宮……!」
俺が答えた瞬間。
部屋の温度が、氷点下まで下がったような錯覚をした。
「勝手な約束をしてもらっては困りますね、ご当主様」
ドアの方を振り返る。
そこに立っていたのは、黒いシャツに身を包んだ秋川だった。