運命の歯車が壊れる時
「戦争に行くことになった。君との婚約を破棄したい。俺は多分、二度と戻らない。配属先はそれほどの激戦地だ。理解してくれ、ジゼル」
半年前、秋の夜。
わたしは、人生の歯車が傾いでいく音を、その耳に捉えていた。
押しつぶされそうほど巨大な夕陽が海岸線に沈んでいくのを傍目に、わたしは四年半続いた恋愛に終止符を打った。
隣の国との戦争が激しさを増し、恋人だったユーゴは騎士団所属ということもあり、戦地へと赴くことになったのだ。
彼は騎士団長を務める父の愛弟子であり、わたしの幼なじみにして、それまでで最初の恋人だった。
それから一月も経過しない冬のある日。
父の上司にあたる侯爵家と、我が子爵家との縁組が、先方の意志で決まる。
そして、わたしは新しい婚約者。
二歳年上の、テネス侯爵第三令息シュラス、十八歳と婚約することになった。
※
半年後――。
その日の我が家の夕食はひときわ賑やかなものだった。
母は食卓の準備を侍女たちを指揮して仕上げると、自分は中央に座り、あとは隣にお父様を待つだけの状態になっていた。
しかし、父は軍属で遠方の戦地に出かけており、私達、三姉妹と母は家族四人。
女だらけの食卓を囲むのが、最近の日常だった。
今夜を除いては。
「ごめんなさいね、シュラス。お母様はワインを飲まれるのがお好きなの」
「いや、いいよ。こんなに温かい家庭を僕は知らないから。逆に、ありがたい」
「そう‥‥‥」
今夜は次女の私、ジゼルの婚約者が同席しているのだ。
彼の名は、テネス侯爵第三令息シュラス。私のような子爵令嬢の元に嫁いでくるにしては、いわゆる、身分がそぐわない関係だった。
黒髪に鳶色の瞳の彼は、普段は目にしないきちんとした正装‥‥‥イブニングスーツに身を包んでやってきたのだから、わたしはもっときちんとした料理を並べるべきだったと心で後悔していた。
大丈夫、ドレスと髪型、お化粧だけはちゃんとできている。
心構え‥‥‥それは最悪だ。
いつどこで母親に結婚する日取りの報告をするか、とても迷うものがあった。
「そうだよ。侯爵家なんて、名前は素晴らしくても、実際に食事となると各自が部屋で静かに取るものだから。大広間に人が集まることなんてめったにない。寂しいものだよ」
「そうなんだ。なら、よかった」
「ありがとう、ジゼル。君の家の夕食に招待されて、こんなに嬉しいことはないかな。ありがとう」
そこに嫌味の一つも、感じられなかった。
彼は率直で、武骨で、とても気のいい男性だった。
我が家とはまた違う侯爵家の内情の一つ知るたびに、彼という人物もまた知ることが出来るようで、嬉しさに頬がつい緩んだ。
しかし、お母様のお話はあまり歓迎できるものではなく。
わたしはそろそろ黙って、と目線で合図するしかできなかった。
「結婚して家に入って子供を産んでまた子育てを始める。それが悪いとはいいませんが……」
と、普段はそうでもない母親が、この夜に限っては陽気だったのでしばらく放っておくことにした。
母の話題は、女性が結婚して家に入ったらというものから、自分の若い頃のそれと変化する。
いつのまにか、だいぶ前になるという、父との新婚旅行に話題は突き進んでいた。
子育ての話はどこに行ったのだろう。
ちょっと呆れながら私は相槌を打つ。
「あれはもう二十年近く前の話よ。お父様に、新婚旅行で海外に連れて行って頂いたの。レイノートの東海岸はとても華やかで素晴らしい夜だったの」
「そう。それでお母様。その夜がどうしたっていうの」
「……昼間のパーティに誘われたの。もちろん、お父様と一緒にね」
「へえ」
レイノートとは、海を挟んだ対岸にその姿を見ることのできる、帝国の避暑地だ。
温暖な気候で年中を通して海に入ることができるという。
そんな場所だから、もちろん、開放的な気分になるのも、理解はできた。
母は三十代後半。
もうすぐ、四十歳を迎えようとしていた。
十代後半で結婚、私を生み、それから家の中でじっとだまって夫をささえる賢い女性をこなしてきた彼女。
その口から、お酒に酔ったとはいえまさかこんな一言が飛び出してくるなんて、私は夢にも思わなかった。
「そこで見てしまったの。自分と同年代の若い水夫の青年だった。見習いだったかもしれない。あの真紅のルビーのように輝く情熱的な光をはなつその目に‥‥‥私は思わず見惚れてしまったわ」
「ちょっと! お母様、いきなり何を言い出すの!」
と、姉のロージが小さく叫ぶ。彼女の母譲りの銀髪が揺れた。
妹のエマも黒い腰まである長髪を結い上げたその頭を振ってぼやいた。
「あー……信じられない。これで子爵婦人なんだから」
「まあ、まあ……ははは」
エマの一言に、なぜかシュラスは同じく黒髪を撫でつけた頭を向け、その機嫌を取るように笑ってごまかす。
わたしはその時、恥ずかしさで彼の顔をまともに見れなかったから、異変には気づかなかった。
この時、気づいていれば――あとの悲劇を防げたのかもしれない。
「でも、私は彼になびかなかった」
「もう‥‥‥フォローにもなってないわよ! ジゼルが報告があるって言うからこの席を設けたのに!」
姉はそう母をしかってくれた。
妹はやれやれ、とまた首を振り、シュラスが手づから小皿に取ってくれた料理を、口に運ぶ。
彼は上に兄上様が御二人、下に弟と妹が一人。
合計、五人兄妹と聞いていたから、このときは年下の扱いも上手いのだな、としか思わなかった。
「もちろん、分かっていますよ。ほら、ロージ。お前こそ、席を中腰に立たないの。このお話にはちゃんとした教訓があるのです」
「……だって、ジゼル。きちんと聞いておいた方がいいかもよ」
姉がつき合いきれないと母を見てから、わたしに話題を振った。
そこでこちらに振らないで、と心で叫びたかったが仕方がない。
最後は、ホストとホステスに、会話は戻ってくるものだ。
今夜の主人公はわたしと彼。
家族は報告を聞くために集まってくれたお客様だから、もてなしをしなければならないのは、わたしたちの方だった。
「お母様、その話題はちょっと」
「まあ、いいじゃないか。ジゼル。お母上も、教訓があると言われている。聞いてみて悪いことはない気がするよ」
母に向けた戸惑いの手を、彼はそっと包み込むようにして、そう言ってくれた。
シュラスがそう許可を出すなら、わたしに拒否権はない。
「そう、ね。ではお母様。教えてください。その教訓を」
「あら知りたいの? いま嫌そうな顔をしていなかった」
「そんな意地悪を言わないで‥‥‥」
お酒が入った母はしたたかに酔っていた。
それは礼節を崩すほどではなかったけれど、どことなくこの婚約に反対しているようにも。
それでいて、なにか試練を与えるようにしているかのようにも見えてしまう。
母は侍女にグラスを向ける。新しくワインを注がせると、その香りを楽しむようにして一口含んだ。
そして、シュラスをじっと見つめる。
「お父様に、お話したの。その水兵のことを。そうしたらどうなったと思う?」
「……無神経すぎて、知りたくもないわよ。お母様、もう黙ってくださいな」
「本当、お姉様の言うとおりだわ」
「私もロージお姉様に賛成」
わたしたち姉妹は三者三様にそう言ったが、彼はそうでもなかったらしい。
興味を注がれたらしく、「それで、どうなりましたか」と聞きいっていた。
どうやら、紳士のたしなみ、というやつを知りたくなったのかも、とロージお姉様はあとからぼやいていた。
わたしは、この子爵家は家族そろってなんて非常識なんだ、と疑われそうで心が休まらない。
「それでどうなりました? 子爵様はやはりお怒りになられたのですか?」
と、シュラスが興味津々に食い入るようにして母に続きを促す。
母はそれがちょっと嬉しかったのか、年甲斐もなく頬をほんのりと染めて、そこに手を添えていた。
「いいえ。おしかりを受けるどころかその若い水兵の視線には気付いていた、とおっしゃいました。あの人ったら私がもしも誘惑されそうになったら、取り返しに行く気満々だったみたい」
「それはなかなか大人の対応ですね」
本当にそうだろうか?
他の男に自分の妻が、それも新婚旅行中に色目を使われて、その場で怒らない夫がいるものだろうか。
わたしならまずまっさきに、そんなことを考える。
男性は、女性のわたしとは主観が違うのかもしれないけれど。
母は言葉を続けた。
「お父様は何も怒ってなかった訳じゃないの。ただ自分に自信があっただけなのよ」
「自信? お母様が、思い出話にせよこんなことを話すのに?」
「そう。ロージはちょっと気が短いわね、損をするわよ。エマは物事に無関心を装って、それでいて小ばかにするようなことが多い」
「私のことは関係ないでしょ!」
「私、そんな感じで世界を見ていません」
などと、姉妹が母に文句をつけるが、彼女はどこ吹く風とこなしていた。
わたしは婚約者の前で、実の母親にどんな評価を下されるのかと思うと、生きた心地がしない。
「そして、ジゼル」
「彼女はおおらかで、慈愛に満ち、何事にも前を向いて歩くことができる女性だと信じています」
「あら、先にそう言われたらもうこれ以上言うことはないわね。でも‥‥‥」
「何ですか、お母様」
「あなたは前を向きすぎて、人のことを大事にしすぎて、自分のほんのちょっと小さなことを、疎かにしがち。そこを気をつけなさい。婚約おめでとう、結婚式はいつにするのかしら?」
「あっ……」
いきなりそこに話が飛ぶなんて。
考えていたことが全て頭から抜け落ちてしまった。
わたしと彼は、互いに顔を見合わせる。
用意していた一通の手紙を母親に、二人で手渡した。
それは、二ヶ月後の初夏のとある日曜日。
結婚式への招待状だった。
「これを渡したくて。彼のことを認めてほしくて。食事会を開いてもらったの」
「もちろん参加しますよ。可愛い娘の結婚式だもの。戦地にいらしているお父様の名代として、ちゃんといかせていただきます。ありがとうね」
「お母様、それで相談が‥‥‥」
この国では男が女性の家に入る時、多額の持参金を用意する。
女が男性の家に入る時は、家具一式と女だけのお金を持たせる。
夫婦でも財布は別。
男性はいずれ家の跡とりになるから、その意味では財布を持つ必要が無いからだ。
そして私の場合、彼を迎えることになる。
「いや、それは僕から話すべきだろう」
「でも、あなた」
「いいから。僕が義理の母上になる方に、お伝えしよう」
「はい」
と、わたしが言いづらそうにしていると、彼がその役を買って出てくれた。
「僕は侯爵家の三男ですから、自然と自分に与えられる爵位と領地は子爵となります」
「ええ、そうね。長男のかたが跡を継がれるなら、次男は伯爵、三男は子爵となるのが通例だわ」
「はい、ありがとうございます。そこで、法律家と相談しました。持参金についてですが‥‥‥」
母は呑気な顔をしながら、彼の話に耳をかたむける。
子爵家にはまだ跡取りがいない。姉はもうすぐ結婚するし、妹はまだ十四歳だから、結婚は少しばかり早い。
しかし、シュラスは三男ということもあり、持っている爵位も我が家と同等の、子爵位。
子爵が別の子爵を継ぐのだから、とくに持参金は要らないだろうというのが、法律家の見解だった。
「なるほど。持参金について、今回は同じ爵位を継ぐのだから必要はないと。そういうことですね」
「大変心苦しいのですが、父からはそう伝るように、申し使っております」
「侯爵様もなかなかに現実的なことをおっしゃるのね」
「お心遣い痛み入ります」
心遣いはしていないけれど、と母はなぜかわたしではなく、シュラスの隣に座り、ケーキに手を伸ばしていたエマを見やる。
黒髪に黒髪。
年齢差はあるけれども、これはこれで絵になる光景だった。
さて、問題はこれからだ。
彼がそれを伝えようとしているのを真横で聞いていると、胸の奥がぐっと掴まれたようになる。
母に対して、なにか申し訳ない気持ちで一杯になった。
「そこで最後に問題となるのが、僕の妻となる女性の髪と瞳の色ということです」
「あら? ジゼルは綺麗な緑色の髪に、夜空に浮かぶ銀色の月のように美しい瞳をしているわよ。そのどこに不満があるというの?」
「……いえ、それは。ご存知でしょう? あなたも、子爵婦人なら‥‥‥」
話すまでもなく母親が理解を示すものだと勝手に思い込んでいた彼は、出鼻をくじかれて戸惑っていた。
綺麗な緑色の髪。
銀色の月のような美しい瞳。
母親だけでなく姉までも、「それの何が気に入らないの?」と質問する始末だ。
彼は大いに困っていた。
そこに助け舟を出したのは意外にも、妹のエマだった。
エマは「そんなの分かりきってるじゃない」と大人びた口調で、ケーキを食べたそれを紅茶で飲み下すと、やれやれと首を振る。
この程度の常識も知らない? そんな感じだった。
「いいこと、お母様にお姉様方。緑の髪に銀色の瞳。それは伝説に出てくる魔女と同じ容姿ということ。神様と戦いこの世に破滅をもたらす魔女と同じ容姿を持つお姉さまを、私は恥ずかしく思うわ」
「エマ! あなたなんてことを言うのですか!」
姉は妹をたしなめるようにしかりつける。
母はたいして驚くこともなく、妹の発言を受け止めていた。
「まあ、まあ。いいじゃない、ロージ。子供にはまだわからない世界なのよ。でもそれを持ち出してくる、侯爵様の御令息の常識を、ちょっとおかしいと思うわね」
「失礼なことを言わないでいただきたい。緑髪と銀色の瞳。それを持つ女性は、結婚をする時に魔法によって髪の色と瞳の色。この二つを黒く染めるという習慣があるのはご存知でしょう」
そこまで聞いて、改めて自分が家族に対して迷惑をかけているのだということを思ってしまい、彼の愛もそこが防波堤になって食い止めているような気がしてしまい。
わたしはただただ、恥じ入るばかりだった。
そして見てしまったのだ。
俯いたそのままで、左手に視線を移すと‥‥‥そこでしっかりと、握られている二つの手。
それは、エマと婚約者のものだった。
「そんな習慣は数千年前の古いものですね。今はもう、人が鉄の船で海を渡る時代ですよ。いつまでそんな古臭い伝説に惑わされているのかよく分かりません」
「……常識がないとおっしゃるのか?」
「そうは言いませんけどね。黒髪に黒い瞳が、伝説にある神様の容姿だからといって、生まれ持ったままのその姿を愛することのできない男性のもとに、娘をやることが果たして正しいのかどうか。母親としては悩ましいところですね」
「僕は何も、ジゼルを愛していないとは言っていない」
「もちろんおっしゃっておりません。貴族社会の習慣に従いそうしなければならない、というそちらの意見も、ご理解はできます。だけどまだあなたはおっしゃっていません」
母は、どうも微妙な感触をその口調に含めていた。
まるでそれは彼に別の好きな女性がいるか、のようにわたしには聞こえた。
「僕は何を伝えていないと?」
「あなたは私の娘を可愛いとか、美しいとか。そんな言葉で飾ろうとはしています。けれど、愛しているとか、生涯をかけて大事にしたいとか、この女性とともに大事な家庭を築いていきたいとか。普通、恋をした男性ならば当たり前のように伝えるその一言を、私はまだ聞いたことがありません。娘からも、そういった報告を受けておりません。これについてはどうですか?」
「そっ、それは‥‥‥。もちろん」
もちろん、と言い。
そこで彼の視線が向いたのは、妹の方だった。
なぜ、そこでわたしを見ないの?
訝し気に二人をにらむと、彼は何か罪悪感を感じたのか視線をそらしてしまった。母の代わりに、今度はわたしが彼に言葉を放つ。
「……シュラス様? なんですか、そんなに黒髪黒目がお好きですか? その妹と繋いだ手はどういうことですか。婚約者としては、きちんとした釈明を頂きたいものです!」
「いや、違うっ」
我ながら、思ったよりも大きな声が出てしまった。
この辺りはお父様譲りらしい。
納得がいかないことがあるうちは、結婚なんてとんでもない。
もし妹の方を優先するなんて発言が飛び出してきたら、この場で婚約破棄と、料理の載った皿をその整った顔にぶつけてやる気で、そろそろと料理皿に手を伸ばす。
しかし、それは予想したのか、姉によって抑え込まれてしまった。
仕方がないので、言葉で決着をつけることにする。
「何が違うのかはっきりしていただきたいと思います。まさか‥‥‥婚約者の妹に、手を出そうとしていたとか。そんな事実はございませんよね? 妹はまだ十四歳ですよ! そこのところ理解されていますか?」
「十四でも!」
と、小さな嘲笑が室内に飛んだ。
オタオタとしてみっともない婚約者の側で、黒髪の魔女が微笑む。
それはまるで数百年を生きた魔性の女がするような、恐ろしい男を奪う女の得意げなそれだった。
「エマ‥‥‥あなた。何を言い出すの‥‥‥」
「十四歳でも、ちゃんと結婚できますわ。シュラス様、しっかりとなさってくださいませ。お姉さまの髪と瞳の色を染める問題。お母様がそれを拒絶なさったら、私を妻にしていただけるという話。このエマは忘れておりませんから」
「ああ……それは、ああ」
妹は満面の笑みでそれを受け止めると、凍てつくような氷の視線でわたしをにらみつける。
まるで、動物が自分の手柄にした獲物を、誰にも譲らないときのように。
こうなってくると、常識があるない、以前の問題となってしまう。
私はもう呆れ果てて声が出なかった。
知らぬ間に、妹と婚約者がこんな関係にあったのかと気づかなかった自分のそれも落ち度だと、肩をがっくりと落とす。
姉が側でわたしを抱いてくれなければ、さっさと怒りを爆発させていたかもしれない。
「まあ、そんな話になるのだろうと思っていましたからね」
「はあ?」
「お母様?」
姉とわたしの悲鳴にも似た疑問の声が、母親に飛ぶ。
彼女は涼しそうな顔して、まあまあ、と控えめにそう言った。
「あちら様からも、生まれながらの容姿を変えるならば、最初から髪も瞳も黒い妹の方が良い、と内々に打診はいただいていましたの。でも、ほら‥‥‥ね? シュラス様はついさっきまでジゼルとの結婚をする素振りを崩さなかったから」
「それは――私だって、自分の容姿を変えるのは嫌。でも‥‥‥」
「ほら、ね? これはこれで二人の間で、話ができているものかな、と。私は思っていたのですよ」
「娘の意思よりも、親の一存が大事だろう。それが貴族社会というものだ」
「そうかもしれませんけれども。やはり大好きな二人が結婚しなければ、子供が可哀想じゃないですか。もっとも―ー」
と、母は妹を見、自分の常識が通用しない何かに出くわしたかのような、シュラスを見て、断言した。
「姉の婚約者と関係を持つような娘を、この家に置いておいたのでは、我が家の恥となりますし、夫にもしかられてしまいます。子爵家と侯爵家の家同士の結婚というならば、どうぞ、その不肖の娘をお連れになってください。ただし、いかがですか。シュラス様。あなたもこんなお恥ずかしい内情を、互いに世間様には知られたくないと、私は考えますが」
「……つまり、妻となる女性の持参金替わりの品は、持たせない。そういう意味に取れば‥‥‥宜しいかな、子爵婦人」
「ええ、それで結構です。ああ、そうそう。すでにエマの仕度は整っておりますから」
と、パンパンっと母が手を叩くと、それは出てきた。
すでに整っているとの言葉どおり、スーツケーツが二つ。
侍女は二人で付いて行くらしい。
中身は‥‥‥多分、あの子の身の回りの品々?
いやそれだとすると追い出すことが前提となるし‥‥‥あれ?
と、わたしと姉が首を傾げると、母は言った。
「私の若い頃に嫁いできた際の、衣類をまとめております。それくらいなら、粗大ごみに出したとでも思えば、損をした気になりませんから。さ、御二人とも、お帰りはあちらですよ」
「いや、ちょっと待ってくれ! 子爵婦人、これでは僕は家に戻れない。せめて持参金をっ――」
「待って、お母様!? なんてひどい仕打ちをなさるの! それでも母親? 娘の結婚っ‥‥‥」
聞こえて来たのはそこまでだ。
家人たち、特に父親の部下として邸宅の守りに付いている騎士たちが、今夜は数多く食堂にいたのも気になってはいたけれど。
てっきり、身分の高い人物が来るからその警護の人数を増やしたのかと思ったら違った‥‥‥。
「追い返す、ため‥‥‥だったの?」
「あら、言わなかったかしら?」
「何も聞いてないわよ! 心臓に悪いことをさせないで、お母様!」
わたしは呆れやら、安堵やら妹から受けた仕打ちの惨さやらで、もういろいろと駄目になってしまい、食卓に倒れ込みそうになっていた。
姉はこうするならすると事前に話してくれるべきだと母に詰め寄り、「そんなことをしたら、短気なお前では芝居ができないでしょう?」、と言い返されて黙ってしまう。
追い出されたエマのことなんて、いまは頭の中になく。
ただ、裏切られたどうしようという地獄の業火のようなものが、心の中を巡り巡っていた。
そんなわたしの炎を、母の呑気な一言が鎮火させる。
「ああ、それからねえ、ジゼル」
「……なあに、お母様。いきなり婚約破棄されて、妹に婚約者を寝取られたかもしれない哀れな娘に何になにか御用?」
「それだけ言い返せるなら、まだまだ大丈夫。あなたも本気じゃなかったってことよ」
「そんな酷い。傷口に塩を塗り込まないで‥‥‥」
わたしの目の前に、侍女がお盆に乗せた手紙が一枚。
中を改めると、お父様のしたためたものだった。
「戦争が一段落して、あなたのユーゴが手柄を挙げ、昇進で王都に勤続になるそうよ」
それを見て、わたしの心はざわめく。
良い方に‥‥‥ざわめいた。
しかし、母の言い方にもトゲがある。
わたしは思わず不満を漏らした。
「あなたのって。いかにも嫌味」
「だって、まだ心はあるでしょう? さっさと迎えに行きなさいな。明日の船で着くと書いてあるわ」
「……そんなことして不貞の女だって言われないかしら。ついさっき、その」
「大丈夫よ。あの男を家に入れるきは毛頭なかったから。エマが色目を使い始めたのも分かっていたし。それなら両家の縁を保つために、駒になって貰わないと、ね」
心が小躍りをする。
ユーゴが戻ってくる。
この王都に。それだけで、わたしの落ち込んだ心は舞い上がる。
癒されるようだった。
それにしても、この母の変わり身には理由がありそうだ。
どうもそれがはっきりしないことには、今度はわたしが裏切られそうで怖い。
返事を渋っていると‥‥‥。
「上から押し付けられた子を、ようやく戻す機会ができたのだから。それでいいじゃない」
「は? え‥‥‥それって、まさかの‥‥‥」
「さあ? 早く仕度しないと、馬車の便に間に合わないわよ。港までは、よくて半日かかるのだから」
そう言われ、さっさと食堂から追い出された。
あの発言はどういう意味だったのだろうと、あとから馬車のなかで姉に質問する。
すると、ロージもよく分からないという顔をしながら、教えてくれた。
「あるとき、子供が増えたの。わたしも三歳か、四歳だったから。妹がきた、としか覚えていない。お父様は‥‥‥お母様も揃って険しい顔を為されていたわ」
「どうしてそうなったのかしら」
「分からないけれど」
と、言いロージはあ、そうだ。と思い出したかのように叫んだ。
エマの幼い頃。
初めて見たその姿は‥‥‥。
「緑の髪に、銀色の瞳だった――気がする」
「……まさか、侯爵家から忌み子として、押し付けられた?」
「お母様、それを押し付け返したんじゃないかしら」
「じゃあ、あの二人。もしかして‥‥‥」
そこから先は、これ以上の秘密は知ってはいけない気がして、二人して押し黙ってしまった。
翌朝。
眠い目をこすりながら、朝もやの向こうに見える、黒い煙を吐く一つの船を港に認めた。
わたしの胸には何か熱いものがこみ上げてきてしまい、そこから降りてくるユーゴを見ようとしても、涙のせいでちゃんと見ることができなかった。
多分、わたしの人生は、ようやくまともな方向にその歯車を変えたのだと思う。
彼に抱き締められたとき、人生の歯車がまともな位置に傾いで、戻った気がした。