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吹花雪

作者: 北峰希

 部屋が空っぽになっていくにつれて何だかざわざわとした、良く分からない感情が胸の中を走り回る。

一年半近く続けた就活がやっと終わった夏頃、引っ越すために荷物を捨てて片していく度に表しがたい気持ちに駆られるのに気づいてから断捨離を止めていた。そのつけが回り、今こうして春前のギリギリになって片付けをしているがどうにも進まない様子だ。棚や引き出しの中のものは粗方段ボールに詰め込まれているが、大きな封筒一部だけが未だに平机の上に置かれたままである。意味もなく開けていた窓からの光、それによって存在がやけに大きく感じる。

 有名とも言い難い企業の名前住所と人事の氏名、それに続く僕の名前が連ねられた封筒。中身は四月からの仕事についてと就職を歓迎する言葉が紙一枚にびっしりと書かれている。何となく、これらはテンプレートで全て添付されただけのものなんだろうなと考えると笑いそうになった。就活中は心に刺さる何かがこの企業にはあったはずなのに、それが何だったか思い出せない。

 不意に着信音が鳴る。音が大きくて肩が一瞬びくっとしたが、一呼吸おいて電話をとる。


「もしもし」

「あーもしもし。おれ、俺。いや暇だなと思って、住みが離れる前に飯とかどうかなって」


 オレオレ詐欺まがいな電話の主は小学校から高校まで一緒だった友達の満だった。

僕は最初、胸についた名札を見て「み、つるくんってよべばいいのかな」とぼそりとそう言ったが、彼は

「それじゃあみっつ、になっちゃうだろ!おれはみっちーのみちるだかんな!」

と良く分からない怒られ方をされたので慌てて「みちるくん。ご、ごめんね」と言い直したのが未だに忘れられない。

 彼はちょっと強気で自分中心。人にやさしく自分にも優しく、だけど笑顔で何でもやってのけるところが羨ましくあった。大学は機械系の方に進みこの春からは希望通りの企業に入社、ずっと目指していたエンジニアとやらになるらしい。鼻水をすする音とともに電話越しで報告された時なんかは僕も一緒に水を流すくらいの仲だ。


「飯って言っても、引っ越しの片付けまだまだだから。ちょっと無理かな」

「おいおい確か引っ越すのってもうすぐだろ。そろそろ本気で始めないと荷物置き去りになるぞ」

「そう思って前々から始めてはいたはずなんだけど。なんか全然進まないんだ」

「俺なんてもうとっくに終わってるし。流石過ぎるなあ、俺。じゃあ息抜きがてら飯でも食いに行こ!」

「じゃあ、の使い方おかしいから」

「えー。どうせ今日踏ん張ったところで変わらないだろ」

「そういって毎日やらなかったら本当に引っ越せなくなりそうだし。また誘ってよ、片付いて僕の気も向いたら行くから」

「じゃあ早く片して気も向かせろよ!引っ越しても入社式までは暇だからさ。絶対だぞ!」

「はいはい。じゃあ切るよ」


 会話ボタンの消えた携帯にはただ今の時刻だけが白く映っている。

満と話していた時間なんてほんの数分のはずなのに日は傾いて、封筒を照らす日光は散らかった冊子達の方に向かって差していた。ぼうっと眺めていると、どことなくお腹が空いてきた気がする。


「満のせいで余計集中力きれたし、お腹減った」


誰もいない部屋だが文句をぼそりと言う。完璧なる八つ当たりだったがこの際どうでもよかった。腹が減っては戦も片付けも出来ないから、と適当に理由づけて台所に向かう。大学に入ってから住むこの部屋はあまり広くないし、台所もコンロ一口と小さめシンクに冷蔵庫があるだけだから二、三歩歩くだけでたどり着く。自室、廊下脇にある台所と洗濯機もろもろ、それに続いてすぐ玄関なので実家と比べてしまうと手狭に感じたが「住めば都」だった。郵便物が届けばどこにいても大体気づくし、自分の好きなものを好きなだけ広げられる秘密基地のような感覚だ。

 冷蔵庫の重い扉を開ける。ほとんど中身は空っぽで、昨晩酔った勢いで作った金柑の蜂蜜漬けと少しの調味料しかなかった。金柑のタッパーを開けていくつか口に放り入れるが空腹は満たされない。口の中がただ甘酸っぱくなっただけだった。むしろ余計にお腹が空いてくる。冷凍庫を開けても冷やし枕だけしかなかった。コンビニでも行くしかないか、と高を括る。

 外に出ると冷たい空気にあたって、思わずポケットに手を突っ込む。日は傾くどころかもうほとんど落ちていて、街灯がまばらに点き始めていた。いつもならやわらかくて暖かい陽射しがあり、桜が麗らかに揺れている。けれど今は冬を忘れさせてくれないような寒さだった。どうせ飯を買いに行くなら満の誘いに乗ってもよかったな。そんなことを思いながら速足でコンビニに向かう。




 漬け物と卵と無洗米2キロ、それからインスタントコーヒー。これだけでエコバックの中は一杯になった。食の好みとしては肉も買いたいし、体のことも考えると野菜も入手しておきたい。けれど僕の小さな鞄と寂しい懐はそれを良しとはしてくれなかった。コンビニは便利だけれど少し高価で、おかげで今日も炒飯か卵かけご飯だ。

 それなりに重い荷物を片手に外を歩くと、寒さと重さで手が千切れそうだった。家に帰ったらご飯を炊いてまた引っ越しの準備をしなきゃならない。歩くのが億劫になるのも無理ないんじゃないだろうかなんて思う。

 部屋を片付ける時になる、ざわざわとした胸の感じがやってきた。空腹と相まって気持ち悪い。季節が一転、二転。もうすぐ三転もしそうなのに変わらず部屋の空虚が増えていくことに心が走り回るのはむしろすごいのでは、なんて考え始めてきた。こんなふわふわとした馬鹿な思想は「社会人になる」ことや「新しい環境になる」ことへの不安なんてもので片付けられれば良いのに。そうすれば、多少は心が軽くなるだろうに。


 ちら。視界に白いものが映る。冷たい風のせいで桜が散っているのかと思うと冷たいものだった。地面に落ちるとアスファルトに溶けて染みを残していく。


「あ、雪か」


 降ってきたものが桜、ではなく雪だと気づくのに少し時間がかかった。空は夜なのに少し白くて、肩や髪には積もるのに肌に触れるとふわりと溶けていく。なんだか不思議な夜だ。空を仰ぐと、綺麗に咲いた桜に雪が隠すように積もり始めている。春はすぐそこまで来ていたのに一夜で冬に帰された気分になった。

 空も雪も白くて、春の訪れを知らせる花も、春に旅立つ僕も全て白くなっていく。なんとなく「儚い」とはまさにこのことか、と思った。今ある光景全てが酷く美しいのに、きっとこれは一夜で溶け切っていくのだろう。花は散り、空は青くなる。凍りそうな僕の肌も雪をはらえば血色を取り戻して、いつかこんな景色を忘れて生活を送る。きっとこのざわざわとした胸のわだかまりも、夏の頃にはすっかり忘れて働いているのだろうと思う。苦しいと思う現状も、儚いと思う景色も全て忘れて生きていくのはあまりにも薄情のように感じるのに、意図せず僕はそうやって生活している。


「『終わりがあるからこそ、美しい。今は二度とない』から、だからこんなに儚くて苦しいのか」


いつかの映画で聞いた台詞をふと思いだす。このざわざわとしていた感情の正体は「今ある場所から離れたくない」「忘れたくない」ということ、なのかもしれない。だから新しい場所への準備もうまく出来なくて、未来をみた友人の姿に怒りに似せた寂しさを当てていたのかもしれない。

 自分の気持ちに漸く気づき、かすれた声ながらに笑ってしまった。まるで寂しがりの子供みたいじゃないか。しかも自分の心すら分からなくなって八つ当たりしているなんて子供より子供みたいだ。

 やっと、ざわざわとした胸の正体に、笑わずにはいられなかったのだ。こんなことにも気づかなかった自分が面白いのもあるし、未だ寂しさを紛らわすために声をだしているというのもある。だけど雪や桜があまりにも美しいから、きっと通りすがりの人も僕のことなんて気にしないだろうと思った。気にされたところで僕は今こんなに美しい景色を見て、自分の心の整理がついたところで、すっきりとした気持ちでいるから、周りなんてどうでもよかった。

 雪の重さに耐えきれない花が少しずつ散っていく。薄紅と白とそれから透明な雫が舞う世界でしばらく僕はひとりで笑っていた。




「もしもし。分かってるって、今晩は八時でしょ。じゃあ電話切るよ」

ピッという無機質な音が暖かい風にのって響く。部屋の荷物はほとんどが段ボールの中だ。空っぽにも見えるこの部屋を見ると、やっぱりあの日みたいに胸はざわつくけれど全然晴れやかな気持ちだった。この間買い出しに行ったものも全て胃の中に入り、空っぽだ。金柑の蜂蜜漬けが少しだけ残っていたかな、とタッパーを取り出すとあと一粒だけ入っていた。口に放り込むと以前と違って、少し満たされた気分になる。


「あまずっぱ」


なんとなげに思ったままを口にすると同時にカーテンがふわりと揺れた。タイミングの良い時に風が吹いたなあ、とカーテンを見ながら少しだけ笑った。風は少しだけ冷たくて、冬らしさを残している。雪みたく少しずつ体を冷やしていくような感覚だ。開けっ放しの窓を閉めに行くとどことなく春らしい香りがする。一夜の冬が散らせた桜は、少しだけだけれど青い葉をつけていた。

 ふと思う。やっぱり何かが変わるっていうのは寂しくて、怖くて心許ない。

だけど毎日が冬だったら、寒さに凍えて景色なんて見なかったのかもしれない。ずっと学生のままだったら、制服のわずらわしさばかり感じているのかもしれない。だけど限りあるものだから、僕は大切にしているし寂しいと思うんだろう。

変わるのは嫌いだ。慣れていたものから解き放たれて全て振り出しになった感覚がどうしても苦手だ。不安でたまらなくなるし、どうしても変わる前と比較してしまう。でも意図せず変わってしまうものがあって、変わらなきゃいけない時があることは知っているのだ。知らない、といえるほど子供ではなくなってしまったから。だから僕は過去や未来をみるよりも、今このときを心に綴って生きていきたいと思う。忘れてしまうこともあるかもしれないけれど、なかったことにはならないから。僕を形どる何かになっていると信じて記していこうと、あの日思ったから。


 待ち合わせの時間を考えると少し早いかもしれないけど、たまには歩いていこうか。そう思って少し厚手の羽織を着た。帰るころにはまだ冬の寒さが還ってくるかもしれないからとポケットに手袋を突っ込むとふわっと何かが落ちた。薄紅色のそれはほんのちょっと朽ちている。どうにも捨てる気にはなれなくて、それをポケットにしまいなおした。








「もうすぐ、春だ」




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