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59.顔と名前を一回では覚えられないなんてよくある話。

「…………ん?」


 建物の内部に入ると、視界に二人の人物が映る。憩いの場として設けられている椅子とテーブルのところだ。一人は白衣姿で、一人はスーツ姿。年齢は俺よりも上。そう、ちょうど教師くらいの、


「お、(はな)じゃないか。随分と遅い帰りだが、男でも引っ掛けてきたのか?」


 訂正。教師くらいの、ではない。


 二人はまさに間違いなく、教師なんだ。


「はなぁ~?誰よそれ?新しい女の名前ぇ~?」


 もう片方のスーツの女性が、それはそれはめんどくさい絡み方をする。が、白衣の女性はそんなことなど慣れっこといった感じで、


「はいはい。良い子良い子」


「わーい」


 スーツの女性の、頭を撫でる。近くまで来ていた俺は、それを見て一言、


「…………なにやってるんですか?伊原(いはら)先生」


「見て分からんか?介抱だ、介抱」


「介抱っていうか、めんどくさい絡まれ方してるだけな気がしますけど……」


 俺はそのめんどくさい酔っ払いを見る。信じがたいことにその姿には見覚えがあった。というか見覚えがありすぎた。


「あの……ひょっとしなくても、猿橋(さるはし)先生ですよね?」


 未来(みらい)はけろりと、


「そうだが?なんだ君、自分の担任の顔も覚えていないのか?」


「いや、覚えてますけど……」


 だって、ねえ?聞きたくもなるじゃない。


 普段はスーツでびしっと決めてて、若い教師特有の融通の利かなさと、熱意を持った感じのあの先生が、死ぬほどめんどくさい酔っ払いにジョブチェンジして、同僚に絡んでいるなんて思わないし、思いたくもないじゃない。


 いや、まあ大人って案外そういうものなのは分かってるんだけど、せめてそういうのは見えないところでやっていただきたい。なんでこんな、皆の目につく学生寮のエントランスでやってるんだ。


 と、そんなことを考えていたら、未来が、


「ここ、良い椅子と、机があるだろ?だから、まあ、休ませるのにはちょうどいいかもなって思ってな。家まで連れて帰るのは、もうちょっと酔いがさめてからにしたいしな」


 と補足を入れる。


 まあいいや。別に担任の教師がどれだけ泥酔していても、俺が困ることじゃない。あの絡み方を俺にもするようだと流石に困るけど、今は机につっぷして、それはそれは幸せそうな寝顔で、夢の世界を漂っている。うわ、よだれまで垂れてる。


 未来はそんなよだれを、ポケットから取り出したハンカチで拭いたのち、


「全く……昔から変わらんな、千代(ちよ)は」


「あはは……」


 俺は思わず苦笑い…………あれ?今なんて言った?千代?その名前ってどこかで、


「あっ」


「ん?どうした?ピルを飲むのを忘れたか?」


「…………あんたの話題は下ネタしかないのか」


 未来はくっくっくっくっと実に楽しそうに笑い、


「冗談だ。で?どうした?」


「あ、いや……あの、さっき“千代”って、」


「ああ、千代……猿橋千代は私の昔馴染みだよ」


「言ってませんでした……早いですね、返答が」


「まあ、大体考えていることは読めたからな」


 だったら言わせるんじゃない、とも思ったけど、きっと無理なんだろうなぁ……彼女、そういう小さな悪戯が大好きそうだし。


 未来はやや不思議そうに、


「と、いうか、担任の下の名前、知らなかったのか?千代のことだから、初日にそれくらいの自己紹介はしていると思ったんだが」


「あー……」


 思い返す。


 確かに、千代の自己紹介を聞いたのは覚えている。見た目のイメージと寸分たがわない、ちょっと固めで、ちょっと暑苦しめの挨拶だったはずだ。


 ただ、その大半は俺の頭に残っていなかった。仕方ない。あの時は何を間違えたのか同じクラスの生徒として学院に通うとかいう意味の分からない選択をした女神の存在で頭が一杯だったから。この表現だと恋愛的に見えるかもしれないけれど、そんな意味合いは断じて、無い。


 未来はふっと微笑み、


「まあ、仕方あるまい。一度聞いただけでは覚えないなんてことはあっても不思議ではない。私なんか二、三回会ったくらいじゃ、顔と名前が一致しないからな」


 そう言って胸を張る。


「いや、誇ることじゃないでしょう……」


 そこまで言ってふと気になり、


「……あれ?それなら私はなんで?」


「ん?華か?」


 未来は腕を組んで「うーん……」と暫く考え込み、


「なんでだろうな?」


「いや、私に聞かれても……」


「まあ、そうか。しかし、うーん……何故だ」


「あの、すぐに顔と名前が覚えられた人っているんですか?」


「ん?ああ、いるよ。例えば、」


 未来は目の前で熟睡している千代を指さして、


「千代はそうだな。あとは……」


 そこまで言って言葉を切って、


「そういえば…………いや、ない。ないな。ない」


 と自分で否定する。なんだそれは。気になるじゃないか。


「え、なんですか?関係あるかもしれないじゃないですか?教えてくださいよ」


 未来は露骨に嫌そうな顔をし、


「ああ、もう。そういうところもそっくりだな、全く」


「そっくり、っていうことは私と似ている人がいるんですね?その人との共通点が、」


「無いよ」


「え、でも」


「無いったら、無い。だってアイツは、」


 そこで少し言葉を選ぶような間があいて、


「男、だから」

次回更新は明日(10/28)の0時です。

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