31.好きと嫌いは表裏一体。
どれくらい経っただろうか。無限にも思える沈黙の後、碧が、
「嫌われたかなぁ」
ぽつりとつぶやいて、全体重を預けるような形で、椅子の背もたれに寄りかかる。
きっと、嫌われただろう。
だけど、同時に、嫌いになんかなりきれないのではないだろうか。
育巳の碧に対する感情はきっとそういうものだ。
どれだけの“嫌い”を積み重ねても……いや、むしろ積み重ねるほどに“好き”が強調されていくに違いない。
どういう経緯で彼女がここにたどり着いたのかを俺は知らない。ただ、大きな期待を持っていたのだけは間違いない。
それがどうだろうか。過去に抱いた理想の先輩像は、日を追うごとにどんどんと冷たい現実によってくだかれていったのだ。
最初のうちはたまたまやる気が無いだけだと思っていたかもしれない。そのうち「この人に描く気は無いんだ」と、どこかで悟ったのだろう。けれど、頭では分かっていても、心は納得しなかったはずだ。その歪な組み合わせが、公然と「嫌い」と言ってのけるという現状に繋がっているに違いない。
そんな状態で、自ら描くといって出てきた絵があの幾何学模様にも見える絵だ。一度はあきらめた期待をもう一度持たされ、そこから更に突き落とされる。相当のショックを受けるはず。それくらいは碧だって分かっていたのではないか。
俺は、碧の絵を手にとり、
「……なんで、普通にデッサンしなかったんですか?」
「んー……なんでだと思う?」
逆に問いかける。
なぜだ。
自らの実力を過剰に評価する育巳に現実を見せたかった?違う。それならデッサンをしない理由はない。単純に実力を見せるか、わざと下手に描いて見せるだけでいい。それだけでも、失望させるには十分すぎるほどだ。
単純に碧の、今の絵柄がこの絵だった?それも違う。もし仮に彼女の今の作風がこの絵のようなものだったとしたら、それを隠す必要性は全くない。崇拝に近い敬意を持っている彼女だ。きっとトンデモキュビスムな絵柄でも、なんかしらの解釈をして褒めてくれるはずだ。もったいぶる必要なんてどこにもないはずだ。
この絵柄を完成させるのに時間がかかっていて、今日漸く完成した?それも無いだろう。もしそうだったらデッサンなんて話を持ち掛ける必要性は無い。素直に描いて見せればいいだけだ。そうでなかったとしても、試行錯誤していることを隠す必要性はあんまりない。それを恥ずかしがったというのならば可能性はあるけど、碧がそういう細かなところで恥を感じるタイプにはどうしても見えない。
沈黙を無回答と捉えたのか碧は、
「そこ、座りなよ」
と、俺を手近な椅子に誘導する。育巳を止めようと思って思わず立ち上がっていたらしい。俺がゆっくりとその椅子に腰かけると、碧は一言、
「そうしたら、きっと期待するから」
最初はなんのことか分からなかった。
少しして、「普通にデッサンしなかった理由」だと分かった。
「期待って……一色先輩が、ですか?」
「そ。期待。一色はさ、私がたまたま上手くいっただけの絵の幻影を未だに追っかけてる。尊敬してくれるのは嬉しいよ?だけど、今の私に、その力はないの。だから、期待させないようにと思って」
「デッサンで期待するってことは、技術力があるってことじゃないんですか?」
碧は苦笑いして、
「正確性だけならね。だけど、それだけじゃ絵ってのは成り立たない。風景や人物を正確に描くだけだったら写真でいいでしょ?絵って言うのはそこに何らかの意味を込める必要があるの。独特の色味だったりとか、あるいはさっき私が描いたみたいに、幾何学模様みたいにするとかね」
二人の視線がほぼ同時に、先ほど碧が描いたデッサンらしき何かに移る。
「これは、意味を込めたことにはならないんですか?」
碧が肩をすくめ、
「ならないと思うよ。さっきはそれっぽい解説したけど、実際は何かを考えたわけじゃないから」
何かを考えたわけではない。
意味なんて込めてない。
本当にそうなのだろうか。
育巳の見る目がいかほどかは分からない。ただ、デッサンを見て彼女が期待をかけるというのであれば、それだけで十分なのではないか。彼女のために描く。それでは駄目なのか。
分からない。
多分、聞いても答えは返ってこないのだろう。
「あの」
「ん、なに?」
「この、絵、なんですけど。貰っていいですか?」
碧はなんとも不思議そうに、
「これ?いいけど、欲しいの?」
「はい。折角描いてもらったものですから」
「そう?いいよ。あげる。私が持ってるよりいいと思うから」
そう言いつつ、スケッチブックから先ほどの絵がかかれた紙だけを切り離して、
「はい」
手渡してくる。俺はそれを受け取り、
「ありがとうございます。あの、また来てもいいですか?」
「いいよ。多分、開いてると思うから。あ、でも、寝てたら無理やり起こさない方がいいかもね」
あはは、と笑う。俺からすれば笑い事ではないんだけど、まあいい。今度からは気を付けよう。
「分かりました。それじゃ、失礼しますね」
「あ、華ちゃん、待って」
呼び止められる。なんだろう。
「はい?」
振り向いた俺に碧が下着をぴらぴらさせて、
「服、着ないと」
「あ」
あ、ではない。
朱に交われば赤くなる、ということだろうか。交わってはいけないものにまじわってしまったような気がしないでもない。
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