薫り立つ君
失われた時を、求めない
相手のため、おいしいものを準備するのが当たり前になったのは、いつからだろうか。
いそいそと鯛焼きの包みを開ける夫のために、新茶を淹れる。澄んだ若草色からたっぷりとバニラのような甘さが薫り立つ。
新茶の若草色を見るたびに、祖母の姿を思い出す。しわしわの手の中の湯呑みが、祖母の手遊びに合わせて波打って、そこにうつった私も祖母も揺れていた。緑茶にはこれだよねえと羊羹をぱくつくたびに、趣味が渋いと苦笑した祖母。会うたびに背中が小さくなる。また会いに行こう、と心に影を落として思う。
祖母が出してくれた羊羹は、夜の梅という名前だった。和歌の引用で「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる」が由来だと言う。本当かどうか疑わしい。検索したけれどわからなかった。
歌の意味は、暗いけれど匂い立つ君。姿は見えなくても、あなたの匂いがする。だいぶ色っぽいなと目眩がする。
バニラの香り。
暗けれど、匂い立つ君。
真っ白いホテルシーツ、カーテンの隙間から細くたなびくネオン色の光、キラキラする傷んだ長い金髪、細いうなじ、鎖骨のくぼみ、スパイスとバニラの香水、タバコ、女の子の肌の匂い。
蓋が開いたように、頭の中に溢れ出してくる情景を振り払おうとする。
あの子とはお互いを思い合うなんて無理だった。関わろうとするほど傷つけられて、それでもまた近寄りたいと望んでしまった。傷んだ髪を染め直すことでまた傷むのと同じ、徒労感が重なった。話さなくても通じるでしょう?と言われて、必死で汲んで、だからこそぶつかり合うこともできずに、身体だけを理解していた。
彼氏に作ったお弁当の話、昨日作った夜ご飯の話、彼氏が作ってくれた朝ごはんの話。枕を並べた朝、作るのが好きな君から、愚痴と並行して、ごはんの話を聞かされた。料理ができない私は再現もできず、勿論作ってもらえないごはんの話だった。
たまにはジャンクなものが食べたい!と言われ、その日の朝ごはんはマックだった。朝からマック?と反対したい気持ちもあったがしなかった。
私は徹底して肯定しかしなかった。相手の領域を侵していいのは、ベッドの中だけ。心にも踏み込まず、当たり障りのない返事をした。黙ってる時は綺麗だなぁと静かに寝顔を眺めるだけだった。
親友だと言ってくれた、私を一番知っているのは君、と笑っていた。私からも、頷いて親友だと応えればよかったんだろうか。人ではなく、従順な犬としてしか君のそばにいられなかったのに。そして、君には大事な人間がいたのに。
そんな思い悩みを抱えた時期に、その人は現れた。穏やかで大柄で照れ屋だった。食いしん坊で、ご飯を作るのが上手だった。自然にお互いを想い合える関係になっていった。
私は作って欲しいご飯をリクエストした。食べるものについて、これから観る映画について、たくさんわがままを言い、時には議論しつつ和やかに過ごすことができた。
お互いにいい歳だったし、同棲するまで時間はかからなかった。結婚を視野に入れた交際を始めてから、あの子とは疎遠になった。目の前の人と幸せに過ごすことこそ、あの子への報復になる気がした。
結婚して数年経った初夏のある朝、電話があった。出たくないなと思いつつ、寝ぼけ眼で通話に応じた。
電話の主は母からで、亡くなったんだってあの子、と名前を伝えられた。ほら同級生の、あんたの友達にしては垢抜けてた子。お葬式しないらしいよ。そうなんだ、と頷くので精一杯で、他の言葉が出なかった。
垢抜けてた子。あの子の短くしていた制服のスカートが脳裏にチラついた。
お仏壇に手を合わせたい、と手土産を携えて彼女の実家に行った。
彼氏がくれて嬉しかった、と言っていた花と菊を買った。あの子が好きな花は聞いていなかった、と気づいた。
出していただいたお茶は新茶だった。とてもいいお茶で、バニラのような軽やかな香りがした。お茶の銘柄と産地を尋ねた後、当たり障りのない思い出話をした。
お墓に入れるのがなんだかもったいなくて、骨壺はここに出してあるのよ、と御母堂が笑っていた。なんと返していいかわからず、曖昧な笑顔のまま、彼女の実家を後にした。
私は、あの子を何も知らなかった。知ろうとしなかった。ただ苦い気持ちを噛み締めた。
それから、初夏を迎えると、そのお茶を買う。うんと高くて、あの子と同じバニラの香りのお茶。
夫が、鯛焼き食べないの?と私をつついた。ごめんね、ぼんやりしていたよ、と答えて、お茶を一口飲み下した。
新茶を飲みながら書きました。
種子島産の松寿、バニラの香りがしておすすめです。