第40話 ただいま
ゆっくりと瞼を開けた。
視界に入ったのは見知らぬ天井。鼻に届くのはなんとも言えない微妙なにおい。
(……美味しくなさそう)
どうしてかそう思って、私はそっと身体を起こした。
閉じられたカーテンが、窓から入って来た風で揺れている。ちらりと見えた空は、真っ黒だった。
「今は……」
何時くらいかと思って、私は横になっていた場所から下りようとした。
どうやら私が横になっていたのは寝台らしい。肌触りのいい毛布。……ただ、寝心地はあまりよくなかったように思う。
(……土台が硬いのね)
なんて思って、私が移動しようとすると。ふと、誰かが側にいることに気が付いた。
その人は寝台に突っ伏して眠っているようで。私はそちらに視線を向ける。
「……旦那様?」
そこには、すやすやと眠る旦那様がいらっしゃった。
いつもよりも少し幼く見えるのは、前髪が下りているからなのか。
そう思いつつ、私は彼の寝顔を観察する。……たまに見る寝顔とは、少し違う。なんだか、疲れているような雰囲気だった。
「……私、心配ばっかりかけてしまったものね」
一体どれほど眠っていたのか。儀式にどれだけの時間がかかったのか。
私には想像もつかないけれど、待っている人からすれば気が気じゃない時間だったのだろう。
ゆっくりと手を伸ばして、彼の肩に触れた。……声が聞きたいと思った。でも、起こしてしまっていいのだろうか。
葛藤して、手を引っ込めたり伸ばしたり。
「……シェリル?」
そんなことをしていると、私の名前が呼ばれた。そして、手を掴まれる。
まるで逃がさないとでも言いたげな強い力で掴まれて、私はびくんと身体を跳ねさせてしまった。
「……あの、起きていらっしゃいますか?」
控えめにそう問いかけるけれど、返答はない。……寝ぼけていらっしゃったのだろうか。
(寝ぼけているのに私の名前を呼ぶの? それも、手も掴むなんて……)
なんていうか、面白いお人だ。
そう思ってくすくすと声を上げて笑っていると、もう一度「シェリル?」と名前を呼ばれた。
「……はい」
返事をする。そうすれば、旦那様の瞼がゆっくりと開く。
その目が私を見つめる。少しの間を置いて、彼がハッと身を起こした。
「シェリル!?」
旦那様が、慌てたように立ち上がる。その際に腰掛けていたのであろう椅子ががたんと大きく音を鳴らして倒れた。
「……あ、あぁ、悪い」
まるで情緒不安定だ。驚いたかと思ったら、しょぼくれて。
見ている分には面白いかもだけれど、彼の気持ちを思うとこれ以上このままには出来なかった。
「はい、シェリルです」
淡々と答えれば、彼が私の両頬を両手で挟み込んだ。ムニムニと頬を揉まれて、ちょっとだけ眉間にしわが寄る。
「……本物か?」
そう問いかけられて、こくんと首を縦に振る。
「夢じゃないんだな?」
もう一度首を縦に振る。
「……戻って来たんだな」
一体どれだけ確認すれば気が済むのだろうか。
心の奥底ではそう思うけれど、あまりにも震えた彼の声を聞いていると、なんだか突っぱねることが出来なかった。
「はい。……そう、ですね」
「……そうか」
私の言葉に旦那様がほっと胸を撫でおろされたのがわかった。
「ほかの者たちにはそれぞれ交代で休んでもらっている」
「……そうですよね。夜中……ですものね」
時計を見る。針は三時を示していて、真夜中だ。
「……ところで、旦那様は一体どうしてこちらに?」
きょとんとしてそう問いかければ、彼は気まずそうに視線を逸らす。……聞かれたくなかったんだろう。
「いや、さすがに不安だったからな。……目覚めるまでついておこうと、思って」
「そうなのですね」
冷静に返せたはずだ。……胸の奥底から湧き上がってくる歓喜の感情は、言葉にはこもっていないはず。
「ところで、私は何時間くらい眠っていました?」
「儀式にかかったのは十八時間ほど。シェリルが眠っていたのは……そうだな。四日……くらいだな」
……そんなに眠っていたんだ。そりゃあ、旦那様も心配になられるはずだ。
それから、少しの沈黙。どちらもなにも言わなくて、なんだかちょっといたたまれない空間。
私は旦那様をちらりと見つめて、口を開こうとして……やっぱり無理と思って、閉ざす。
(なにを、言えばいいんだろう……)
散々心配をかけておいて、なにを言えばいいのか……。
そう思う私の気持ちを汲み取ったかのように、旦那様が「シェリル」と改めて名前を呼んでくださった。
「……はい」
返事をする。そうすれば、旦那様は「言いたいことが、あるんだが」とおっしゃった。
「言いたいこと、ですか?」
「……あぁ」
神妙な面持ちで頷いた彼が、意を決したように口を開いた。
「――おかえり」
その言葉は、シンプルなのに今の私に一番効果があったらしい。
涙がぶわっとこみあげてきて、私は震える声で言葉を返す。
「――ただいま、です」