第36話 前夜(2)
私の言葉を聞いたサイラスは、少し間を置いて「……いえ」と言ってくれた。
彼は顔を背けている。しばらくして、鼻をすするような音が聞こえてきた。……いろいろと、サイラスにも思うことがあるのだろう。
(本当……私は、ここにきて愛されることを知れたわ)
ずっと孤独だった。そんな私が愛されることを、愛することを知れたのは、間違いなくリスター家の面々のおかげだ。
それを実感していると、扉がノックされた。サイラスが扉を開ければ、そこには旦那様がいらっしゃって。
彼はお部屋に入ってこられると、私のすぐ隣に腰を下ろした。
「では、私はこれで」
旦那様の姿を見て、サイラスが頭を下げて退室する。
……気を遣ってくれたのだろうか。私のわがままでいてもらっていたのに。
そう思って眉を下げる私を見つめる旦那様。その目の奥が、少し揺れているような気がする。
「……シェリル。少し、いいだろうか?」
「はい?」
改まって声をかけられて、私はきょとんとしつつ旦那様を見つめる。彼はおもむろに上着のポケットに手を入れて、そこからなにかを取り出された。……見た感じ、お守り、だろうか。
「俺の古い友人が『豊穣の巫女』の研究をしているんだ」
「……そう、なのですか」
「そいつが、送ってくれた」
ぽかんとする私の手を取る旦那様。その手のひらの上に置かれたのは、やっぱりお守り。
「ここには北の辺境で採掘することが出来る鉱石が入っている。そして、この鉱石には豊穣の女神の加護が宿っているとされているらしい」
鉱石が入っているなんて、思えなかった。でも、微かにそれっぽい感触がする。もしかしたら、小さなものなのかもしれない。
「本当は俺が取りに行くつもりだったんだ。だが、こっちに任せておけと言われてな……」
旦那様がポリポリと頬を掻きつつ、照れくさそうにそう教えてくださった。……今のところに照れる要素は見受けられないけれど。
「……あいつは、俺にシェリルの側から離れるなと言っていたんだ」
「え……」
「『豊穣の巫女』は不安定になりやすい。メンタルを安定させるためには、俺が側にいたほうがいいと。……とはいっても、仕事を投げ出すことはできなかったから、その。そこまで一緒にはいれなかったが」
眉を下げられた旦那様が、何処か可愛く見える。
それに、旦那様は悪いようにおっしゃるけれど。万が一、お仕事を投げ出してまで私の傍にずっといらっしゃったら。
――私は、彼のことを蹴り飛ばしていたと思う。
「いえ、十分です。その、お仕事は大切ですから」
「……あぁ」
「旦那様は私の夫である以上に、領民にとっては領主です」
お守りをぎゅっと握りしめて、そう伝える。
領主とは家族になにがあったとしても、領民のほうを優先せねばならない。ひと昔前までは、そう言われていたそうだ。
今でこそその慣習みたいなものは廃れつつあるけれど、やっぱりそう簡単に変わるようなものではない。
「シェリル」
「領民たちは、旦那様を頼りにしておりますから」
そうじゃないと、要望書なんて送ってこないし、相談だってしてくれないだろう。
だから、旦那様は領民にとってとても頼りになるお人なの。
「そうか。けど、領地を回るとな。いつも問いかけられたんだ。――奥様は大丈夫かって」
「……そ、の」
「領民にとって、シェリルはもうかけがえのない存在だ」
なんだかそう言われると、涙が込み上げてきた。悲しいとか、不安とか。そういうことからじゃない。
……嬉しい涙だった。あぁ、私は今日、一体どれだけ泣いてしまうのだろうか。
「領民の中には、俺がシェリルを泣かしていないかとか、聞いてくる奴もいるほどだ」
「……そ、うなのですか」
「あぁ。もしかしたら、俺よりも頼りにされているのかもな」
絶対に買いかぶりすぎだって思う。けど、それを言うのはちょっと違うような気がして。私は黙って言葉を聞く。
「若いのにしっかりとしているとか、よく考えている人だとか。あとは、俺のストッパーだとか、称されているな」
「……ストッパーだなんて」
「実際、そうだろう。俺はシェリルがいないと暴走する」
至極真面目な表情でそう言われて、私は……おかしくなってしまった。
泣きながら笑うなんて、ちょっと変なのに。今は、どうしてかそれがしっくりと来てしまう。
「だから、戻って来い。……戻ってきたら、旅行に行くんだろ」
「……はい」
「それから、シェリルの願いを何でも聞く。……もちろん、聞ける範囲はあるが……」
付け足した言葉に、私はくすっと声を上げて、また笑って。旦那様の頬に手を押し当てた。
「私のお願いは、私とずっと一緒にいてほしいということが一番ですよ」
いよいよ一週間後に紙のコミックスの第1巻が発売します……! お話をいただいたときはまだまだ先だなぁと思っていたのに、もうすぐですね。
また、WEBでの連載もクライマックスに近づいておりますので、どうぞ引き続きよろしくお願いいたします。