第35話 前夜(1)
移動を終えた日の夜。
私たちは夕食を終え、各々の時間を過ごしていた。
ロザリアさんとアネットさまは、最寄りの街に出向いている。なんでも、魔法薬に使える珍しい材料があるとか、なんとか……。
私はお二人を見送って、与えられたお部屋のソファーに腰掛けていた。
お部屋の隅にはサイラスがいる。旦那様がこの邸宅の管理人とお話をなさっている今、一人じゃ寂しいので私がお願いしていてもらっている。
申し訳なさそうに言えば、サイラスは「いえいえ」と言ってくれて。彼は私が落ち着くようにと紅茶まで淹れてくれたのだ。
「奥様。……不安は、尽きませんか?」
サイラスが私のほうに近づいて来て、そう問いかけてくれる。
手に持つティーカップの水面を見つめて、私は控えめに頷いた。
「えぇ、やっぱり……ほら。初めてのことだし」
私の口から出たのは、驚くほどに弱々しい声だった。
「それに、私に全部が懸かっているのだと思うと……その、重荷が」
今、神官の人たちは必死に儀式の準備をしている。ロザリアさんとアネットさまが材料を買いに出向いたのは、私に万が一のことがあったときのためだということも、実は知っていた。
彼女たちはせっかくだし……と言っていたけれど、こっそりと話しているのを聞いてしまったのだ。
(申し訳ないと思ってはダメ。……その恩に報いようと思わなければ)
あれだけ馬車の中で泣いたのに、どうしても怖くなってしまう。
その所為で夕食もあまり喉を通らなかった。せっかく美味しそうだったのに。
「さようでございますか。……私には、儀式のことがよくわかりません」
ゆるゆるとサイラスが首を横に振ってそう言う。……サイラスは、なんでも知っていると思っていたのに。
知らないことがあるなんて、本当に意外。そういう意味を込めて目を瞬かせれば、サイラスがふっと口元を緩める。
「私にも知らないことくらいありますよ。そして、私がいくら予想しても、そのレベルを超えるものだってあります」
サイラスが穏やかな声でそう言う。私はぽかんとする。
「例えば……そうですね。予想以上に旦那様がヘタレだったとか。そういうことでしょうか」
「……そう、なのね」
「えぇ、もう少し男らしいところを見せるかと思ったのですが。本当に、あの頃はやきもきしていましたね」
それはきっと、私がリスター家に馴染み始めた頃のことだと思う。
使用人たちが私のことを受け入れてくれて、旦那様とくっつけようとしていたとき。今思えば、本当に懐かしい。
……まだ、一年と少ししか経っていないはずなのに。
「私は、本当に奥様に感謝しております」
不意に真剣な声音で、サイラスがそう伝えてくる。私は彼の目を見た。真剣な色をした目だった。
「あのままでは、旦那様は過去のトラウマを乗り越えられず、ご両親との仲もこじれたままだったと思います。それに……その。クレアやマリンも、ここまで楽しく働けていないと思うのです」
「……サイラスは、二人の養父だものね」
「えぇ、僭越ながら。……可愛い娘たちですよ」
サイラスは若い頃に捨て子だった二人を拾って、自身の娘として育て始めたらしい。
彼はリスター家の使用人の助けがあったからこそできたことだと言っていた。……でも、クレアとマリンを見ているとわかるのだ。
彼女たちはサイラスを本当に慕っているのだと。
「目に入れても痛くないとは、このことなのでしょうね」
「……そうなんだ」
「はい。きっと奥様もお子が出来ればわかりますよ」
……その言葉が、嬉しかった。だって、彼はさも当然のように私が戻ってくると言ってくれている。
私がリスター家に戻ってきて、一緒に暮らしている未来を口にしてくれている。
「……旦那様は、きっと子供には甘いわ」
「さようでございましょうね。特に娘なんて生まれれば、デレデレになる気がします」
「ふふっ、目に見えるようにわかるわ」
もちろん、貴族に生まれた以上、一番に望まれるのは跡継ぎの誕生。つまり、男の子が生まれることだと思う。
けど、どっちが生まれても可愛いだろう。元気に育ってくれれば、私はそれ以上望まない。
「常々クレアやマリンと言っているのですが、娘の場合旦那様要素は必要ありませんね。奥様にそっくりなのが、望まれます」
「……私は、そうは思わないけれど」
「いえいえ! 旦那様の要素なんてもうこれっぽっちもいりませんからね」
そんな風に話していると、少しずつだけれど心が軽くなる。
サイラスはそれがわかっているんだと思う。わざとこんなお話をして、私の気を逸らしてくれている。
「……ありがとう」
ぽつりと口から零れたお礼に、サイラスが目を細めてくれた。
「私のことを、受け入れてくれて」
初めはどうなるかと思ったけれど、私はここに来れて間違いなく幸せだ。
それだけは、断言できる。




