事故
松宮高校に入学したばかりの詩織が起こした事故。
それでも巻き込んだ淳一は優しかった。
――ガチャン。
県立松宮高校の駐輪場で自転車をロックしてから工藤詩織は前籠から鞄を取り出した。
「おはようー!」
其処へ勢い良く中野直美が横付けしてきた。
「姿見つけたから追い掛けたのに……、詩織速ぎるわよ」
急いで走って来たからなのか? 直美は肩で息をしていた。
「えっ、もしかしたら同じ方向だったりして……」
「当ったりー。ねえ詩織、何で鍛えているの? こんなに息が上がったら、私きっと授業に付いていけないよ」
「別に何もしていないわよ」
「その体力じゃ、きっと野球部以外でも引っ張り凧ね」
「引っ張り蛸って……私そんなに足ないよ」
「えっ、引っ張りダコって蛸のことなの?」
「あっ、でも凧は糸で操るでしょう? それも間違いではないみたいよ」
「その通りだよ。元々の意味は蛸を干す時に張り付けにされることからなんだけどね」
後ろから声が掛かって振り向いたら、工藤淳一がいた。
「あっ、確か工藤先生って国語でしたね」
「その通り。君達お喋りもいいけど、授業に遅れないようにね」
淳一はそう言うと校舎に消えて行った。
「ねえ、良く知っていたわね」
「何が?」
「名前よ。それと受け持ち。工藤先生までは許すけど、担当教科まで把握しているってことは?」
直美はにんまりと笑った。
「あっそれは、私と同じ苗字だから興味を持ったんだ」
「あ、そうか……ところで詩織って、元々工藤だったっけ?」
「ん!? それどう言うこと? それと何故呼び捨てなの?」
「ねえ、詩織。私のこと覚えてない? ほら、同じ保育園にいた……」
「えっ、もしかしたら中野さんって……」
「多分正解ね。でも詩織、そろそろ行かないと授業遅れるよ」
「えっ、しまった!!」
二人はお互いの手を取り合って、校舎に向かって走り出した。
県立松宮高校体育館。
二人は昨日、其処で執り行われた入学式の会場で出会っていた。
本当は詩織に興味を抱いた直美が近付いて来たからなのだ。
その時詩織は壁に貼り出されたクラス分け表を確認していたところだった。
直美が詩織の指を見ていると、工藤と記された上で止まった。
(えっ、工藤? 名前は詩織で合っているんだけど……)
直美は本当は声を掛けて良いものか戸惑った。それでも敢えて近付いたのだった。
直美は下の名前と、傍にいた父親の顔で松宮保育園時代に仲良しだった詩織を思い出していたのだ。
でも、記憶していた苗字が違っていたのだ。
『部活は何処に決めてるの?』
それでも直美は近付いて行ってのだ。
『野球部です。私、マネージャーを志願してます』
突然の直美の行動を不振に思いながらもそう断言した詩織だった。
『私も男だったら入りたいんだけどね。何しろ此処は野球部強化のために凄腕のコーチを雇ったそうだからね』
直美の発言に詩織は驚きを隠せなかった。
コーチを変えたのは知っていた。
でも凄腕とは聞いていなかったからだ。
それを知っていた直美。
自分と話を合わせただけだとも思ったけど、もしかしたら同じ目的かも知れないと考えてしまったのだった。本当は『手芸部があったら入りたい』と直美は言っていたのだけど……
「引っ張り蛸か? 私そんなに体力ありそうに見えるのかな?」
教室で帰り支度をしながら、独り言を言っていた詩織だった。
放課後の校庭は多種多様の部活を円滑に進めようと皆張り切っているように見える。
当然のこと、マネージャー志望の詩織の目は野球部へと注がれていた。
二人の通っている高校は、県内では名が通ったスポーツ校だった。
数年前には甲子園まで後少しってトコまで行ったようで、それ以降野球部に力を入れているそうだ。
だから詩織はこの高校を目指したのだった。
(『体に負担のかからない投げ方は、力のロスをなくし、無駄のないフォームを作る事』って確かコーチは言ってけど、あの子相当無理してる)
グラウンドではエースの呼び声の高い長尾秀樹が投げていた。
「無理のないフォームをマスターしないと真のエースにはなれないよ」
グランドまで届くはずがないと思っていた。
それでも詩織は秀樹にエールを送った。
野球が好きだった。
小学生の頃は、女子も出場が可能だった少年野球団の一員として活躍した時期もあったのだ。
でも詩織がやりたいのは女子野球ではない。
本当は男子野球部に入って一緒に甲子園を目指したかったのだ。
高校野球が女子禁制なのは解っていた。
それでも……
だから尚更一緒にプレーをしたかったのだ。
その夢が捨てきれない詩織。
一緒に出来る道を探して、マネージャーに辿り着いたのだった。
詩織は自転車置き場に向かう途中、野球のグランドがすぐ近くにあることを知った。
思わずフェンスに駆け寄る詩織。
そして秀樹のピッチングに釘付けになった。
いい意味ではない。あの癖のせいで、最悪なフォームだったのだ。
「あの子何か無理してない?」
思わず其処にいた人に声を掛ける。
「あの子の投げるボールは外に向かって曲がるの。だから、その方向に手首をひねってしまうみたいね。本当は危険なのよ」
そう、それがあの癖だったのだ。
「えっ、そうなの?」
「あのままじゃ真のエースにはなれないな。野球部の男子なら必ずなりたいはずだから……、ね?」
強引に誘うかのような詩織の言葉に吊られてその人は頷いていた。
「ありがとう。兄に伝えておきます」
「えっ!?」
其処にいたのは長尾秀樹の三つ子の兄妹の長尾美紀だったのだ。
「長尾美紀と言います。私達三つ子なの。兄はバッテリーの長尾秀樹と直樹。私はここから良く見ていたけど気付かなかった……」
美紀は感慨深そうだった。
(何故気付かなかったんだろう?)
美紀は意気消沈していた。
「あっ、お兄様に伝えておいてください。私マネージャー志願なんです」
「お名前は?」
「はい。工藤詩織って言います」
「クドウシオリさんね。素晴らしいマネージャーが入るって伝えておくわね」
「えっー、冗談は止めてください」
「冗談は顔だけにしておけってことね」
美紀は笑っていた。
「えっー!? 顔だけにって、私そんなこと思ってもいません。ナガオミキさんお綺麗だし」
「うふふありがとう。でも固っ苦しいから美紀で良いわよ。美紀のみは美しい紀は世紀の紀長尾は長い尾と書くの、クドウさんは?」
「工藤の工は工夫の工です。藤は藤で、詩織は作詞じゃない方の詩です」
詩織はてんぱっていた。
長尾美紀の名前を思い出していたからだった。
「あのー、失礼ですけど長尾さんはあの長尾さんですか? この学校に超高校生クラスのソフトテニスの選手が居るって聞きましたが……」
「超高校生クラス……ってまでは行ってないと思うけどね」
美紀は笑っていた。
その時、二人の傍を工藤淳一が通りかかった。
「工藤先生。今から帰りですか?」
詩織は気軽に声を掛けていた。
「工藤さんも帰るとこね。私は練習があるから」
美紀はそう言いながら校庭に向かって歩いて行った。
工藤淳一のことは昨日から気になっていた。
でも詩織は同じ苗字だからだと思っていた。
実は詩織の母親は、仕事先の海外で知人男性と廻り合って再婚したのだ。
それで名前が工藤に変ったのだ。
実は母親の相手の男性は元カレだった。
焼けボックイに火が着いた。
それが正解なのかも知れない。
再婚相手には大学生の息子がいて、まだ会ってもいなかったのだ。
だから自然と工藤と言う名前に反応してしまったのだった。
入学式に来ていた父親は最後の役割を果たしてくれたのだった。
両親は離婚をし、詩織の親権を争っていた。
本当は母親が勝ったのだけど、急に海外転勤を命じられて一時父親に預けられていたのだった。
その母親が帰って来る。
詩織はウキウキしていた。
「一緒に帰ろう」
詩織の姿を見つけて、直美が声を掛けてきた。
「うんいいよ。私の知ってる中野さんだったら、きっと太鼓橋の近くだと思うから」
「実は、彼処から引っ越したの。今はアパートの反対側にある集会所の裏に住んでいるんだ」
「確か彼処は通学区域が違うんだよね? あっ、だから小学校で会わなかったのか?」
「うん、そうよ。ところで詩織、今何処に住んでるの?」
「あの太鼓橋をずっと行った場所にあるマンションよ。春休み中に引っ越したの」
「えっ、……そうなの? あっ、だからあの道を通った訳か?」
「そうよ。ねえ中野さん。足が速い訳じゃなくて、この自転車のせいかも?」
「そうかも知れないな。だって私のは三段ギアのママチャリだものね。でも詩織。その中野さんってやめて、昔みたいに直美って言ってよ」
そんな会話をしながら二人は自転車のロックを外した。
昨日出会ったばかりの生徒が意気投合した。
その二人は幼馴染みだったが、お互いがすぐ近くに住んでいることを知らなかったのだ。
「実はまだ決めていないけど、野球部のマネージャーに興味沸いてきた」
直美の言葉は詩織を上気させていた。
直美は本当は趣味の手芸をやりたかったのだ。
でも松宮高校には文化部自体があまりなく、まして自ら立ち上げるなんて言い出せなかったのだ。
詩織は遠目でカーブミラーを見て、何も走っていないことを確認して一気に校門から脱出した。
その時、急ブレーキの音が聞こえた。
その音に二人は慌ててしまっていた。
何をどうしたらいいのか咄嗟に判断出来ずにいたのだ。
その結果。
お互いの自転車のハンドルが噛み合ってしまったのだった。
「全て私のせいです。二人が校庭にいるのを確認しました。配慮不足でした」
病院の待合室で、警察官の事情徴収に答える淳一を見ていた。
詩織は淳一に『責任は俺が取るから』と、経緯を話すことを止められていたのだった。
(あれっ? 先生勘違いしている。あの時一緒にいたのは直美じゃなかったはずなのに……)
詩織は知らなかった。淳一は詩織が気になって、暫く様子を眺めていたことを……
だから淳一の発言はまんざら嘘ではなかったのだ。
事故を引き起こした当事者は詩織だった。
それなのに、淳一は優しかった。
(ごめんなさい先生。私がちゃんと確認さえすればこんなことにならなかったのに……)
詩織は意気消沈したまま俯いた。
(私はあの時先生に声を掛けた。先生が帰ることを知っていたはずなのに……)
やはり責任は自分にあると詩織は思った。
(長尾美紀さんといた時、確かに工藤先生は私の近くを通った。きっとあれは駐車場へ行く途中だったんだ)
本当は泣きたい。泣いてでも警察の人に聞いてもらいたい。
詩織は心の中で地団駄を踏んでいた。
実は詩織は母から、自転車の並列走行中に起こった事故を聞いていたのだ。
ハンドルが噛み合った時、詩織は倒れた。
幸い足を強打しただけで済んだけど、詩織の母は友人を亡くしていたのだった。
診察の結果、骨折していた。日帰り手術でボルトを埋め込むことになった。
その方が治りが早いようだ。
詩織は看護師より必要な品物のリストを渡された。
その中に大人用の紙オムツも入っていた。
「準備が整い次第手術しますので、其処に書いてある物を支度なされてお待ちください」
整形外科の先生はいとも簡単に言った。
骨折の日帰り手術には全身麻酔が必要で、体の中の水分が抜けるのだ。
と言えば聞こえはいいけど、言い換えれば尿だったのだ。
入院患者のように尿道に管を入れる訳にいかない。
だから紙オムツが必要なのだ。
詩織は薬局でオムツを購入してくるように工藤淳一に頼んだ。
自分で買いにいけない以上仕方ない。
そう思うことにした。
本当は恥ずかしい。
それでも淳一に頼むしかなかったのだった。
(こんな時に母がいてくれたら……)
そう思いながらも頭を振った。
あんなに何時も注意されていたに、守れなかったからだった。
詩織の母はテレビ局に努めていて、取材でカルフォルニアに出張させられていたのだった。
ボルトを埋め込む日帰り手術。
詩織は夢だったマネージャーを諦めざるを得なかった。