異世界転移というやつ(1)
「すげー堂々としてんなあ」
「遅刻して困るのは本人だけだろ。そんで俺は別に困らない。現国はサボるの初めてだから、出席日数的には大丈夫だしな」
この時間に関わる中間テストの出題も5点分とかだろうし、赤点さえ取らなければ成績はどうでもいい自分にとっては些細なことだ。
卒業できれば、高校にそれ以上の用はない。
榊原は相変わらず呆れた様子で笑った。
「お前、問題児認定されてるぞ。昨日先公の話聞いちゃったんだよな」
「おっと、ようやく昼に抜け出してるのが表沙汰になったか」
母親に連絡がいくレベルか、自分に対しての注意だけか。まあ、監視カメラの記録をせっせと遡ったりしないだろうから、初犯ということで後者だろう。
「違う違う。深夜徘徊」
「あー、そっちか」
「お前って普通に見えて実は不良なのか?」
「こんなに善良な一般市民に失礼な。ちょっと自分らしく羽目外してるだけだ。」
「『ちょっと』か?」
すぐに次の予鈴が鳴って、話はそこで打ち切られた。
(今日で日常が終わりなら、1日ここに大人しく座ってんのも馬鹿らしいけどな…)
必須科目の授業が一番退屈だ。幸い3限は体育、5,6限は技術家庭と、割と好きな教科の多い日である。
終わりかどうかはともかくとして、普通に学校生活をエンジョイすることを決め、レノはシャーペンを指先でくるくると回した。
体育のサッカーの練習試合が始まってまもなく、違和感を自分にも感じて、レノはふと立ち止まった。
「……?」
「おい、咲田、パス!」
「ーーあ、ああ」
周りの動きも、飛んでくるボールもすごく遅く感じる。ドリブルなんて別に得意じゃないが、これだけゆっくりなら適当にしてもうまくこなせそうだ。
(……待て待て)
これはあれだ。できそうだからといってやらないほうがいい。
できるだけいつも通りに、ただパスを回す。
「ナイスパス!」
「おう」
練習試合を続けながら、微妙な焦りを感じ始める。
(動態視力が上がり過ぎ……っていうか、匂いも?耳も?)
常に食欲が増す匂いの発生源は……自分自身?
猫の言葉を思い出す。
(竜って人間を食べたりするのか……?)
想像すると悍ましい。吐き気がして、頭からその考えを振り払った。
昼休み。
「あれ、今日はここでメシ?」
榊原が振り返った。
「茜は?」
「振られたよ、昨日」
「ーー……」
素っ気なく答えと、立ち上がりかけたまま向きを変えて、彼はストンとまた椅子に座った。
「何」
「…いや」
彼と昼食をよく食べている友人達も、そんな榊原に怪訝な顔で呼びかけた。
「悠馬?」
「なあ、今日は咲田のとこでくおーぜ?」
榊原は爽やかに笑った。そして、机をひっくり返してくっつけてくる。こっちの意思は確認しないつもりのようだ。
「んー、ああ」
友人達は別にレノと話す仲ではないが、嫌っているというほどでもないらしく、誘いに従って椅子を回した。
「こいつ、振られんぼだから、慰めの会」
「余計なお世話だ」
ふん、と笑いながら、購買のパンを口にする。
(味覚が変わってる…)
食べられないほどでないが、タンパク質系以外美味しいと感じない。
もう一つ食べる気力が出ず、ワイワイと盛り上がる榊原達を尻目にペットボトルのお茶を飲む。
(ミネラルがちょうどいいっ……てなんだそれ)
「それ、食わねーの?クリームパン」
「ああ、傷心で食欲落ちてるわ。食う?」
言葉と裏腹におどけて見せながら、考えにふける。
(朝は普通だったのに……参ったな)
自分の意思に反して、体に起きている変化に、戸惑いを禁じ得ない。
「お前じゃあるまいし、昼飯に甘いものは要らねーよ」
「…悪かったな、甘党で」
時間が進むにつれ、猫が世界の歪み、と表現した違和感が、ますます強くなっていくようだった。
「部長?顔色悪いっすよ?」
ドラム担当の下級生が心配そうにレノの顔色を伺ってくる。
「大丈夫。それより、最後一回合わせておこう」
バチイイィン!
言っている側から、弦が切れた。
「はっ!?」
跳ねた弦が腕に当たって血が滲む。
気のせいか、その血が黒に見えた。
「あ、あの……」
「……悪い。なんだろうな。」
これでは、弦を張り替えている間に下校時刻が来てしまう。
レノは虚しげに微笑んだ。
「最後、合わせられなくて、悪い」
「い…いいですって! 次の練習だけでも、来週の昼ライブはなんとかなるでしょうし!」
「そう…だな」
何か、諦めのような感情に支配されながら、楽器を片付けて、最後のミーティングまで部屋の隅で部員達の様子を眺めた。
バンドが面白そう、と思ったのはすでに引退した3年が入学式で心底楽しそうに演っていたからだ。
他人に深く関わるのが億劫な自分でも、譜面を通して息が合うと楽しいことを知って、地道に練習したりもした。そんな一面が自分にあったことも発見だった。
(……猫の言葉を、完全に信じてるな)
嘘だとあがけば、何か変わるのだろうか。
「部長、なんか連絡ある?」
「…いいや。副部長、いつもサンキューな」
「ん!?」
殊勝な発言に部員たちが何人か怪訝な顔をした。
小声で「珍しい、振られたから堪えてんのかな」とか聞こえてくるが無視だ。なんでそんなに広まってる。
夕暮れの校舎裏は、影になっていてだいぶと暗い。下駄箱から正門までの通り道の一つなので、前後に何人か生徒の姿がある。
楽しそうにふざけ合いながら下校していく様子は、まったくいつも通りの光景だ。
(…やばいな)
逢魔時という言葉があるが、何か起きそうな強烈な違和感に苛まれていた。ーーどうやら、自分だけが。
暗がりに猫の姿を見つけ、しゃがみ込むと、黒猫は2本の尾をくゆらせて、レノの膝に前脚を乗せた。
落ち着いた、まろやかな声音で猫が語りかけてくる。
「まだ、思い出せんせんか」
(思い出す…?)
異界の竜であった、という話が身体に起きた変化と関係しているだろう、ということは直感としてあった。
「……引っかかりはする」
猫は大きな金の目を眇め、レノの顔を覗き込む。
「ぬしは、わちきの恩人であり主君……。排斥の歪みから奥方様と世界を助ける為に、1人でそれに巻き込まれ、記憶を失い、転がり落ちたこの世界で、人の子として成長なんしんした」
何を突拍子もないことを。
(……なのに、知っている……?)
猫はりん、と鈴を鳴らし、周囲に灯火を生み出す。
薄闇の中、ゆらゆらと灯火が怪しく踊った。
「わちきは……未来の主殿より、ぬしを呼び起こすように頼まれて来んしたんでありんす」
「……は」
レノは頭に手を当てた。思考がぐちゃぐちゃだ。
(……しっかりしろ)
めまいを振り払うように、頭をゆっくり振る。
「ぬしは、主殿…白銀の竜ーーラズレイド・レノでありんす」
「……!!」
レノは目を見開く。
何度となく呼ばれた、自分を現す名ーーとても懐かしい響きだった。
二の句を継げないまま、何度か瞬きをして黒猫を見つめる。
この猫の見覚えはやはりない。そもそも、さっき猫は自分で『未来から来た』と言ったではないか。
「それにしても、わちきが知る主殿は常に丁寧な言葉を使う方でありんしたが」
「……はあ」
「そうそう、奥方様のお名前は…」
「ーーいや、いい。後は自分で探す」
猫の言葉をレノは慌てて遮った。
全部言わせてはいけない気がしたからだ。
名前をきっかけに、少しずつ浮かんだイメージに色がついていく。
さっきまで怖かった身体の変化が、自然なもののように感じられる。
(ーーそうだ、譲れない、大事な約束があった)
それだけ思い出したら、前に進める気がした。
レノの表情が穏やかに緩んだのを見て、猫も嬉しそうに目を細めた。
「それは良うごさりんすーーでは、わちきは、奥方様を探すお手伝いの方に向かうことにしんす」
灯火が一際大きく揺らめいて、次に瞬きしたときには猫の姿はもうどこにもなかった。
ーー行ってしまった。
にわかに寂しいが、…きっとまた、会えるだろう。
世界の歪み……違和感はさらに大きくなっている。
自分が何もしなくても、レノ自身を巻き込んでしまうだろう、そんな気がしていた。
「ーー咲田?」
(……榊原!?)
声にはっとして振り向く。
すぐ近くにクラスメートの姿があった。
ーードクン
世界が波打つ音が聞こえる。
きょとんとした榊原が映りこんだ視界ごと歪み、脳を揺さぶられるような感覚に陥った。
(これが、異界に放り出されるってことか……?)
身体の感覚がない。ぼんやりとした意識だけの中で、己は何者なのか問われた気がした。
(俺は……咲田伶乃…そして、たぶん、ラズレイド……白銀の竜)
それがどんな竜かまで、自分のこととして表現できそうだ。
見下ろす手や、身体の感覚。でもそれより、元々備えていた擬態能力によって人の姿をしていたことの方が長い気もする。なぜだろうか。それはどんな姿だったのか。
(分からない……)
どのような竜であったのか、どうやって人の姿をとっていたのかはすうっと附に落ちたのだが。
「……!」
どさっ
再び身体の感覚を取り戻すと同時に、全身に鈍い衝撃を感じた。
(ーーーどうなった)
ゆっくりと視界が回復していく。
少し寒い。周囲に人がたくさんいるのが分かるのは、嗅覚のせいか。
自分の身体がどうなっているかは不思議と理解できた。
(今の俺は、竜が伶乃の姿に擬態している状態かな)
その気になれば、竜の姿にもなれそうな気がするが、試してみないと分からない。
白銀の竜がもつ擬態能力というのは、身体を組成レベルで変化させるので、気が抜けば元に戻るとかそういうものではない。完全な、不可逆変化のようだ。元の姿を細部まで理解していなければ、その姿になることはできないだろう。
それより、ここはどこだろうか。
(石造りの……西洋風の謁見の間?)
すぐ側で、自分ではない声がした。
「いてて…」
「?」
振り向く。ぼやけたままの視界でも、それが誰だかレノには分かった。
「榊原?」
(まさか、巻き込んだ?)
レノの戸惑いを、さらに別の声が中断させた。
「よく来てくれた、異界の者よ」