家族
咲田志乃は、シングルマザー、平凡な会社員である。
派遣社員からの直接雇用で今の会社に落ち着いてからは、生活に余裕が出たが、それまでは割と苦労があった。
片親の理由は離婚であり、幼い頃のあどけないわがままのせいで母に養育の負担を背負わせたことを認識したのは小学校の中学年くらいだったか。
もともと家事はよく手伝っていたが、一層、友達と遊ぶより家のことをかって出るようになった。
カチャリ、とドアを開ける。本日2回目の帰宅だ。
母親はまだ帰っていない。
昨日していた作り置きは日持ちするものなので手をつけず、帰り道に買った材料を台所に広げて手早く調理する。
補足しておくと料理の腕も平凡である。もういい加減繰り返しで虚しくなるが。
立ち上るトマトソースの香りに、猫が鼻をすんすんさせる。
玄関のドアがガチャリと開いて、母の足音がした。
「ただいま……何作ってるの?」
「ナポリタン」
既製品に肉と野菜を足しただけだ。
「伶乃のおごり?ありがとー」
母はニコニコしながらシンクで手洗いしてスーツを部屋着に着替えに行った。
「ツナ」
猫がピシピシしっぽで背中を叩く。
「駄目だろ。せめてササミにしとけ」
この猫はスーパーでは鞄に入っていたが、餌売り場でやたらごそごそしていた。
曰く、既製品の餌は勘弁して欲しい、と。昼間に虫や小鳥を食べているので自分の分は嗜好品くらいでいいそうだ。
「本当に懐いてるのね、かわいい…」
母が手を伸ばすと、猫はその目に警戒の色を宿らせながらも、大人しく撫でられた。
「名前、決めたの?」
「ハリ」
みい、と猫が鳴いた。
「母さん、ビール飲む?」
「今日はいい……ってこら、未成年」
「もう成長期も終わったって」
「その自由なところは誰に似たのか…」
母はいつものように笑いながらぼやいた。
しかし強くは止めない。そのおおらかなところが似たんじゃなかろうか。
「ところで、進路の話なんだけど」
「なに、突然ね。そんな時期か」
配膳しながら、話を続ける。猫はレノの椅子の下に皿を引っ張って潜り込んだ。
「警備会社から正社員登用の勧誘されてるから受けるつもりなんだ」
「薄給の世界じゃないの」
「生きるには困らないさ」
「稼がない男はモテないわよ?」
「なら、BGって道があるだろ」
適当に答えると、母は苦笑した。
「似合わない……あんたキム○クじゃないんだから。だいたい柔道も剣道もやってないのに」
「入社教育もあるし大丈夫だよ。体育じゃ黒帯の連中といい勝負だし」
だから少々スカしていても手を出されることがない。
筋力はあまりないが、動きに関して勘がいいとよく評される。警備の仕事では、周囲の状況に細かく気を配る方なので、不審者を取り押さえてお手柄と褒められることもしばしば。平凡な自分のささやかな取り柄ではないかと思うくらいだ。
「まあトレーダーの方で配当増えたら引退して切り替えるし、そこまでやることはないだろうけど」
「年利5%目指すんだっけ」
「もう超えてる。元手が少ないから今は微々たるもんだけど」
「何なんだろうね。ネットの記事見るだけでそんなに儲かるもんなの?」
「だけじゃない。情報収集に余念がないんだ、これでも」
得意げに笑うと、母も嬉しそうに微笑んだ。
「…驚きんした」
「なにが」
また一悶着しながら風呂で丸洗いされた猫は幸せそうに布団に潜り込みながらぽつりと呟いた。
「主殿に、あのように心を許す存在があるとは」
「へえ、お前の言う竜ってやつは孤独なのな」
「…ただ一人、主殿が伴侶と認めた方がおわしんす。わちきもよう知りんせんが」
「伴侶ぉ?」
猫は髭をもしゃもしゃさせて笑った。
「今日のあの様子では、まともに女子を愛せるようには見えんせんね」
「いやそもそも、別人の話だろう、それは」
「しかし、ぬしはいずれ思い出しんす。最初はわちきも別人と思いんしたが、ぬしはやはり主殿自身……」
猫は言葉を途中で切り、耳を立てた。
豆電球をつけた四畳半が静まり返る。
「……?」
「始まりんした」
「何が…?っ!?」
急に頭痛がして思わず頭を抑える。
「…そのうち世界が歪み、ぬしは再び異界に放り出されんす」
「ーーは」
「あと1日、猶予はありんしょう。残念でありんすが、明日にでも、お母上に別れの挨拶をされてくんなまし」
「……何を」
何を言っているのだろう。頭がぐらぐらする。
「歪みが始まれば、魂の奥底に押し込められた記憶の扉が開きんす。鍵はもうお渡ししんした。わちきの言葉の意味も自ずと理解できんしょう」
(ーーー……どういう)
意味が分からないまま、急速に意識が遠のいていく。
抗えないまま、真っ暗闇に落ちていった。
はっとして飛び起きる。
時刻は8時20分。
「あーあ。遅刻だな…」
呟くと、丸くなっていた猫が頭をもたげた。
「何か、思い出しんしたか?」
「何も」
ただ気を失うように眠りに落ちて、今の今まで目覚ましも聞こえないほど深く眠っていた。
何か夢を見た気もするが、思い出せない。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、マグに注いで電子レンジで温める。母親はとうに仕事に出てしまっていた。
「落ち着いていんすね…」
「そう言われてもな」
小皿に牛乳を注ぐと、猫も口をつける。
「今日、異世界に放り出される…だっけ」
「信じていないんでありんすか?」
「……」
この猫の存在を肯定しておいて、その言葉を否定するのはナンセンスだ。
しかし、それが正しいとして……誰に何を告げよというのか。
時間が経って硬くなった食パンを食みながら、レノはため息をついた。
そもそも二度と会えない、という状況を望まない。別れの挨拶というのは、別れることを受け入れてこそできるものではないだろうか。
進路調査の提出期限はまだ少し先だ。昨日のうちに記入してしまっていて、あとは保護者印を押すだけ。
食卓に用紙を置き、食器棚の上の写真立てで押さえる。
猫は心配げな表情をしていた。
写真立てには、母と、5歳くらいの自分が写っている。離婚してすぐくらいだったろうか。
シャツに腕を通し、学ランを羽織る。
学校に着く頃には9時半なので、2限目には間に合うだろう。
自転車に乗ると、前かごに猫が飛び乗った。
猫に言った通り、何か別人の記憶が蘇ってきた訳ではないが、昨日との違いが全くない訳ではない。
(昨日の昼間に感じた違和感を、より強く感じる…)
もうすぐ何かが起ころうとしている、という疑念を否定できないほどに。
学校の前で自転車を止めると猫はさっと降りた。
「ん?尻尾が減ってる…」
「世界が歪めば幻術が使えんす」
猫は口を動かさず答えて、すっと脇の茂みに飛び込んだ。
まろい声だけが耳に届く。
「日没、前に」
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