03-32 チャンスが欲しい
「あれはカウントしないの」
「あれはなかった。そうですよね、凪さまっ!」
修練場では授業が始まっている。
生徒達の、持ち合わせた人具のぶつかり合う音が修練場に響き渡っている。
時折飛び散る血飛沫や人具の割れる音、様々な音が鳴り響く修練場の中、何より五月蠅い二人が俺の傍で叫び続ける。
「何をだよ……」
そう言ったものの、虚勢だ。
俺が誰よりも狼狽している。
左右で五月蠅い二人よりもだ。
俺は姫とキスをした後、観客席へと逃げるように撤退した。
撤退はしたのだが、撤退した先になぜここを選んだのだろうと後悔する。
なぜ、この二人の間に撤退したのだろうかと。
先程までの一部始終を二人も見ていることをすっかり忘れてしまっていた。
「ご馳走様でございます。御主人様」
逃げても結局は俺の傍にいる鎖姫こと姫も、追いかけてきて俺の背後に控えている。
心なしか嬉しそうな表情にも見えるが、無表情は変わらない。
先ほどの笑顔は一体何だったのだろうか。
「あぁぁ……カウントしちゃダメ……」
「カウントしないのっ!」
俺もカウントしたくはないが、そう言うと姫は恐らく傷つくだろう。
とはいえ、別に初めてなわけでもない。どこ目線かは分からないが心を広く持つべきだと思って忘れることにする。
「お兄たんのチューは……ナオのものなの」
「いえ、ナオちゃんの、ではなく、私のですのっ!」
「いや、俺の唇をなんだと……」
二人が叫ぶ度に周囲の視線が痛い。
ギアを元に戻す原理を解明した天才で天使な、黒猫ちみっこナオ。
財閥の一人娘な綺麗と可愛いの二面性のはんなり白犬お嬢様。
そして、背後で佇む、ギアでありながらメイドな美女。
そんなのが、ぎゃーぎゃーと人の初めてがどうとか結構な声量で騒いでたら、その中心の俺としては居たたまれない。
もう、周りのギャラリーは修練場で戦う俺等の同級生なんて見ずに、こちらの会話に耳を傾け始めている始末だ。
心なしか、修練場の同級生の戦いも、少し適当になってきている感もある。
「おかしいですね」
そんなメイド姫が、争う二人を見てから、巫女を見た。
意味深な行動に、二人の動きも止まる。
「……え?」
俺を挟んで謎の争いをするその光景を見て、相変わらずのトリップで別の世界に飛んでいた巫女が、急にじろりと姫に睨まれ一瞬で我に返ってたじろいだ。
「御主人様の初めては、巫女様ですか?」
「「「「……は?」」」」
思わず四人揃って、姫の言葉に同じ言葉を返してしまう。
「いえ、ナオ様も朱様も違うとなると……巫女様しかいないかと」
「な……なにが?」
もう、この話の流れからして一つしかない。
巫女もそれに至っているのか、だらだらと汗をかいて、隣の弥生にぎゅっと抱き着く。
「御主人様の初キスです」
こいつは何を言うのかと。
俺が誰とキスしたかなんて、この際暴露する必要もないだろうに。
「ああ、安心しろ。巫女ってのは、ない」
弥生から驚きの表情が出てたので、勘違いされないようにしっかりと説明しておく。
他の凪がどうだったのかは……どうだったか云々より、まあ……致してるわけだが、断じて、俺はないと自信を持って言える。
「つまりは、誰かとの経験がある、と。……御主人様? まさか如何わしいお店にいかれてはおりませんよね?」
「姫。それはないの。お兄たんの行動は逐一、ナオが管理してるの」
ナオさんや。それはそれで怖いのだが。
そんなことを思いながら、俺は観戦用に買ってきたジュースに口をつける。
さっきから妙に喉が渇くのは、いつの間にか俺の初キスが誰となのかと尋問されているからなのだろうか。
「そう言えば……凪君。あの時に、何か言ってなかった?」
弥生が少しだけヒクつきながら話に参加してくる。
ああ、これは多分……怒ってるな。
しっかりと俺と巫女が何もないことを伝えないと、二人の関係性にもヒビが入りそうで怖い。
弥生の言うあの時とは、間違いなくナギによって蘇生された時であろう。
とはいえ、俺にはあの時の記憶はまったくない。
ナギが、何かを言ったのだろうが、何を言ったのかさっぱり分からない。
「確か……巫女を凪に寝取られないようにね。とか……」
そんな言葉に、俺は思わず口の中に含んでいたジュースを盛大に吹き出してしまった。
「げほっ……お前、何言ってんだ!?」
「いや、言ったのは凪君だよ!?」
「俺がそんなこと言うかっ!」
「言ったじゃないか!」
「ああ~……もう、あの野郎……すげぇ置き土産置いていきやがって……」
口元を拭きながら、どう説明すればいいのか悩む。
ナギと話をしていた時に、警戒しなければならないと言っていた二人がここにいる。
その二人の前でナギの話をするのはどうなのかと思う。
それに、ナギはいまだ俺の呼びかけにも答えてくれない。
まるで俺の中にいないかのようだった。
「弥生、俺を信じろ。巫女に手を出す気はさらさらないっ!」
「それはそれで何か傷つくわよっ!」
「疑うわけじゃないけど……じゃああの一言はなんだったのかなって」
本当に疑っていないのかどうかが怪しい弥生ではあるが、俺があの時どうだったかなんて、この場では弥生しか知らない。
何か引っかかるものがあるのか、弥生も少し考え始める。
「うん……ちょっと頭冷やしてくるよ」
すくっと立ち上がって観客席から去っていく弥生に、慌てて巫女もついていく。
後は任せたと思いながら、弥生には今度しっかりと俺の置かれている状況を説明しなければならないと思った。
「では、ナオ様、あちらの修羅場を眺めにいきましょう」
「ナオはいかない」
「行きますよ。ナオ様。楽しそうですよ、巫女様のほう」
首根っこを掴まれ、まるで子猫を咥える母猫のような動きで姫に連れていかれるナオ。「にぎゃあ」という声がよく似合っていた。
そして、この場には俺と朱だけが残り、辺りには静かな空気が流れだす。
その空気が、何か浮気現場を目撃されたような印象があって、背中に妙な汗をかいてしまう。
まさか……姫はこれが狙いだったのかと思わなくもない。
「……凪様」
先ほどまでほとんど話に参加してこなかった朱が、沈黙を破ってくれる。
「……凪様が、私ではなく、他に好きな女性がいることは、なんとなくわかりますの」
「……えっ?」
いきなりの発言に、思わず聞き返すことしかできなかった。
そんな沈黙の破り方は流石に返す言葉がない。
「……凪様が行方不明だった間に何があったのかは分かりません。その間に、私以外の女性のことを好きになったのなら、それは凪様の自由ですから、構いません」
「……うん。ごめん」
気づかれていたことには驚いた。女性の勘というものがとにかく恐ろしいと思ったが、
だが、朱はいつからそのことに気づいていたのか。俺が誰が好きなんていうのは流石に分からないだろうが、俺の行動に思う所があったのだろうか。
俺は、この少女の婚約者ということや、それを利用して華名家の力さえも利用してしまっている。
この学園で、この少女の権力を、自分勝手に使っているのは俺だ。
それを知った上で、朱は俺のことを好きと言ってくれ、傍にいてくれる。
色々あった今日の俺の行動が、あのストーカーと何が違うのか、ただ単にこの少女を都合のいい駒としてしか見ていないのではないかと、罪悪感が浮き上がってきた。
「凪様の事を私はお慕いしております。私は凪様に尽くしたいので、もし使われるのであれば私の権力さえ自由に使っていいのです」
「ん……?」
「それに……凪様が結果的にその人の元へ行ってしまうのであればそれは仕方ないと思うのです。……ですが、せめて……」
俺にも譲れないものはある。
俺は、どうしても、碧のことが忘れられない。
なんとしても助けたい。俺の大事な女性だから。
だけど……俺は朱のことを本当はどう思っているのだろうか。
「私に、その人から凪様の心を取り戻すチャンスを、せめて……この学園にいる間だけでも……頂けないでしょうか」
朱の、ぎゅっと膝の上で握りしめた両手に、ほんの少しの震えが見えた。
周りに聞こえないよう、必死に、声も体の震えさえも抑え、俺にだけに聞こえるように。
そんな、朱の決意が籠った言葉に。
俺は、なんて答えればいいのか分からなかった。
「大丈夫ですの。答えが欲しいのではなく、私の気持ちですの」
そんな朱が修練場から俺のほうを向いて見せた笑顔が、ただただ眩しく、綺麗だった。
……俺は、この俺の婚約者に、何かしてやれることはあるのだろうか。
しっかりと、曖昧な答えでなく、明確な答えを出してあげないといけない。と、そう思ったところで、体育の授業は終わりを告げた。




