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第五話 過去編 黒騎士がいる世界 (彼視点)

 ハッと目覚めた時、俺の視界はぼんやりしていて周りがよく見えなかった。体を動かそうとしても、うまく動けない。


 別世界に移動した?……なら、俺はまた零歳児か。


 アイビーのことが気がかりだったが、赤子では泣くしかない。俺はひとまず泣いた。


 すぐさま誰かがすっ飛んできて、俺を抱きしめる。


「お召し物が濡れたのですか? 今すぐ変えましょうね」


 敬語で言われたから、親ではないだろう。俺はひとまず泣き叫んだ。これは他の人はいないかの確認だ。ギャン泣きの赤子なんて一人じゃ手に負えないだろうし。計画通り、他の人も来たが、その中にアイビーはいない感じがした。


 〝誰か〟を探すときもそうだったが、違う世界へ移動したときは、動けるまで自由はない。ハイハイを覚えたら家のなかは探し回れるから、それで周辺の探索を開始する。それまでは、泣く。ひたすら泣いて、人を近くに呼ぶ。


 だから、俺の親になる人には手がかかる赤子だといつも思われていた。



 活発すぎて散々手を煩わした赤子の時期を経て、文字を学べるようになると本を読み漁って、ここの常識を叩き込む。世界の広さや文化を知らないと、実際に見た時に困るからだ。俺は自由に出歩けない幼少期は、本の虫となった。


 ここは魔法とかはないが、貴族文化があり、魔獣がいる世界らしい。そして、俺は伯爵家の次男に生まれた。次男でよかった。長男よりは、家の縛りも少なく自由に動ける。


 俺は外出が許される年齢になると、近くにアイビーがいないか探しだした。ただ、護衛が付いて自由にはさせてもらえない。


 だから、外に出るため、学校があれば行きたいといった。学校にいなかったら次はもっと世界を回れる職を探す。黒騎士という魔獣討伐の職があり、それなら各地へ派遣されて、世界を回りやすい。難関と言われたが、入隊した。十四才での入隊。最年少記録を更新したのは、俺の執念だ。


 自由を手にした俺は任務で各地を周り、行ける場所は足を運んだ。



 そうやって探し回ったが、俺が十六の年になっても、アイビーは見つからなかった。



 残り一年になり、そろそろ黒騎士を退団して、魔獣ハンターとなり、未踏の地に行こうかと考えていた。まだ世界は広い。俺に止まっている暇はなかった。


 ただでさえ、最近は副隊長になってしまい、次期隊長にとか言われている。


 どんな場所にも行き、さっさとアイビーを見つけたいから前に出て討伐をしていたら、気がつけば周りの信頼が厚くなっていた。出世なんかいらないから、自由がほしい。アイビーを探せる自由が。


 ため息しかでなかった俺に同じ黒騎士のマティアスが気さくに声をかけてきた。


「なんだ、辛気くさい顔してんな」


 俺はマティアスを一瞥して、眉根をひそめた。こいつは妙に俺に馴れ馴れしくしてくるやつなんだ。アイビーを探し回って脱走を繰り返す俺を見つけては、黒騎士に連れ戻す厄介なやつ。


 マティアスに返事をせず、そっけない態度をとっていると、飯でも行こうと誘われた。


「お前は食べるのを忘れるほど、すぐほっつき歩くからな。ちゃんと食べとけ」


「別に食べなくてもいい」


「またそんなこと言って、ほら行くぞー。うまい店があるんだ。なんでも、最近、黒髪の可愛い子が店員やってるってよ」


 その一言に俺は顔をあげた。マティアスは、にやりと口の端を持ち上げる。からかうような笑みだ。



「お前の愛しの〝運命の人〟だといいな」



 俺はいても立ってもいられず席を立つ。


「案内しろ」


「へいへい。……って、ちょっと、おーい。走っていくのかよ?」


 駆け出した俺にうんざりしながらもマティアスは付いてきた。


 マティアスにはアイビーの話をしたことはある。あまりにしつこく聞かれたから、たぶん黒髪で、たぶん左目が黒くて、たぶん性格は子供みたいで、そして、ものすごく可愛い人だ。という曖昧な情報を伝えていた。


 それは別の世界に移動したら、俺は外見も名前も変わっていたし、彼女もまた同じ容姿と名前をしていないだろうと思ったからだ。



 俺はマティアスを走らせ、店に来た。リリンと小さな鈴の音がなり、扉が開く。乱暴に開いてしまったから、店の中にいた人全員がこっちを見た。訝しげな視線が突き刺さったが、俺はそれどころではない。額に汗をかいて、目当ての人を探す。やや遅れてマティアスが息を切らせて店に入ってきた。


「はぁはぁ……全速力で走るなよ……ったく」


 文句が背中にささったが、俺は周囲を見渡すことをやめない。


 どこだ? アイビーはいるのか?


 額から流れる汗を拭うこともせずに、店内をズカズカはいる。すると、店の奥から誰かがやってきた。


「……いらっしゃいませ」


 黒髪の女性だった。長い黒髪をまとめられ、左目は同じような黒い瞳。右目は眼帯に覆われて見えなかった。訝しげに俺を見ている。俺は彼女を見た瞬間、心臓が止まるかという衝動を受けた。


「アイビー!」


 彼女に間違いない。似た容姿もそうだが、何より俺の何かが彼女がアイビーだと告げていた。


 全身が歓喜に包まれ、目の奥が痛い。俺は名前を叫んで、彼女をおもいっきり抱きしめた。


 見つけた。――やっと……


 その喜びで眉尻に涙が溜まる。



 ――――だけど。



「いやっ! 離してっ……!」


 彼女は小さく悲鳴を上げて、俺から離れようともがいた。俺は驚き、腕の力を緩める。彼女が俺を突き飛ばし、怯えた目で自分の体を抱きしめた。


 俺は訳がわからず呆然と彼女を見つめていた。


「アイラ!? どうしたんだい!」


 アイラとは……彼女の名前だろうか。その名前を叫んで、かっぷくのよい女性が彼女に近づく。彼女は震えて、すがるような目で女性を見た。女性は彼女を抱きしめて、キッと俺を睨む。


「なんだい、あんた! 黒騎士様がこの子にいったい何の用だって言うんだい!」


 ハッキリとした拒絶。俺は言葉を失い、ただ立ち尽くすのみだった。


 そんな俺の肩を抱いてマティアスが呑気な声をだす。


「いやぁ、すみません! こいつちょっと寝不足でおかしくて! 失礼いたしましたー!」


 妙に明るい声で叫んで、俺の肩を掴み、店から退散させた。



 ***


 呆然と歩き続け、マティアスは黒騎士の宿舎に俺を連れて帰った。抜け殻になった俺を座らせ、部屋を出て行ってしまう。俺はただ項垂れ、足元を見つめていた。昨日までは茶色く見えていた床が今は灰色に見える。


 何もかもが色のない世界に見えた。




「ほらっ!」


 頬に何かを押し付けられ、俺はのろのろと顔をあげた。マティアスが湯気のたったカップを俺の頬に押し付けていた。熱さは感じなかった。マティアスは眉根をひそめて、呟くように言う。


「なんて顔してんだよ……」


 手の動かしかたも忘れた俺に、マティアスはカップを握らせた。ただよう湯気だけが俺の視界に入る。


 視界の端でマティアスが対面に座ったのを見えた。


「……何があったんだよ。彼女が〝運命の人〟だったのか? 言えよ。話してくれなきゃ、お前の力になれない」


 気遣いに苦笑する。


「言ったところで、信じるわけない……」


 俺のこれまでのことは複雑すぎて常識から外れている。マティアスはいい奴だが、信じないだろう。


 すると、マティアスは俺の胸ぐらを掴み、顔をあげさせる。怒りで片方の眉はつり上がっていた。


「信じるかどうかは俺が決める。だから、言え。……そんな顔して、放っておけるわけないだろ!」


 強い口調で言われて、俺は眉根をひそませた。


 やっとアイビーを見つけたと思ったのに、彼女に拒否された。心の置き場を失くした俺は、マティアスにすがってしまったんだ。



 滑稽無糖な話でも、マティアスは口を挟むことなく聞いてくれた。


 全てを話終えた後、しばらくの間、マティアスは黙っていた。当然だろう。あまりに突飛な話だ。頭が狂ったと思われても仕方ない。


 重たい沈黙がマティアスの深いため息で遮られる。彼は俺を真摯な瞳で見た。


「確かに信じられない話だけどな……俺はお前の話を全部、信じる」


 迷いのない声に目を見開いた。マティアスはまた一つ息を吐き出すと、俺の返事を待たずに話し出す。


「確認だけど、〝運命の人〟は、お前を見てもお前を思い出さなかった……で、いいんだよな?」


 動揺しながらも、俺は相槌をうつ。マティアスは気にせず頭を乱暴にかいて眉根をひそませた。


「うーん……お前が見間違えって可能性もあるけど、それは置いといてだ。……彼女が思い出さないなら、それはもうさ……」


 マティアスは言葉を切り、顔をしかめた。言いづらそうに黙り込んでいたから、なんだよと言って、続きを促す。


 マティアスは、また乱暴に頭をかいて、意を決したように俺を真っ直ぐ見つめた。


「彼女が思い出さないのは、いいきっかけなのかもしれないぞ」

「きっかけ?」


「あぁ……彼女を忘れるための」


 ――――忘れる。


 予期しない言葉に俺は大きく目を見開いた。


「お前には酷な話だと思うけどさ……このまま彼女がお前を思い出さない方が幸せなんじゃないのか? ……これは想像でしかないが、彼女はその……別の世界とかに行ったせいで、長く一人だった人生に終止符をうててる。それは、お前が連れ出したからできたことだ。……それで充分なんじゃないか?」


「……お前の最初の願いは〝彼女が笑顔になる〟ことだろ? なら……もう叶ってるんじゃないか?」


 マティアスの言葉は、納得できる。納得ができたのに……なぜだ。胸の中が空になる。


 呆然とする俺にマティアスは呟やいた。


「……何言っても慰めにならないから言わないが……お前も彼女を忘れた方がいい……短い人生しか生きられないなら、もっと自分のために使った方がいいと俺は思う。……恋をしろとか言わないから……もっと……自分の人生を生きろよ」


 マティアスが俺を思ってくれているのは分かった。分かったが……俺の人生なんて、アイビーを見つけること以外、何があるというんだろう。


 他のものが必要と思えない。

 ……何も、いらない。


 俺は虚ろな思考のまま、口元に歪な笑みを浮かべる。


「そんなの……無理だ」


 マティアスが小さく息を飲む気配がした。口元は笑っているというのに、視界は霞み、頬に熱いものが流れていく。


 次々と流れ落ちるそれを感じながら、俺はぽつりと呟いた。


「……アイビーが生きる意味なんだ……忘れることなんて、できない……」


 静かに告げた言葉にマティアスはそれ以上、何も言わなかった。



 ***


 空虚なものを抱えながら、俺は淡々とした日々を送っていた。そして、俺はアイビーの残像を求める亡霊のように、彼女の店に足を運んでいた。


 最初に行ったときは、警戒を剥き出しにされた。だけど、マティアスが共に行って、俺の初日の行動を説明してくれた。


「こいつ、ずっと探している人がいましてね。彼女が容姿が似ていて、取り乱してしまったんですよ! すいません! 思い込みの激しいやつなんです!」


 俺の肩をバシバシ叩きながら、明るく言い訳をする。睨み付けていた女性は、昏い俺の顔を見て同情したのか、納得してくれた。


「まぁ、いいよ。食べていくならさっさと座りな」


 料理をするのか、女性は店の奥に行ってしまう。恐る恐る彼女が近づいて、俺たちを席に案内した。


 席につくと、声も出さず頭を下げられ、彼女は小走りに去っていってしまう。戸惑いを全身で伝えられ、切なくて、ぼんやり彼女を目で追った。


 そんな俺をマティアスが小声でせっつく。


「そんな辛気くさい顔ばっかするな。少しは愛想よくしろ」


 睨まれたが、俺の心は晴れない。どうやって笑顔を作っていいかわからない。


 やがて、マティアスが注文してくれた食事がテーブルにおかれる。ゆげが立った、あたたかな料理。ふわりとよい匂いが鼻腔をくすぐった。


「ごゆっくり、どうぞ……」


 控え目に言われた声音にはっとする。


 ――この声……


 高すぎず低すぎず。竪琴のような心地よい声。


 前はひしゃげてしまっていた彼女の声が元に戻っていた。


 ふと視線を上げると、黒い瞳と目が合う。焼け爛れていない綺麗な顔。


 それを見て、心から安堵して、俺は自然と口元に笑みを浮かべていた。


「ありがとう……」


 その言葉はただの返事ではない。


 また会ってくれたことへの感謝。

 また声を聞かせてくれた感謝。


 そして、彼女がここにいてくれることへの感謝だった。



 ***



 俺は少しずつだったが、彼女の前で自然な笑みを浮かべられるようになっていった。


 それに、暇を見つけては……というか、食事はすっかり彼女がいる店でとるようになってしまった。


「いやぁ、ほんと、助かりますよ! こいつ死にたいのかっていうぐらい食べないやつなんで! こんななりして、子供かっていうぐらい偏食な野郎なんですよ。 ここだと食べてくれて、俺も安心なんです! はははは!」


 マティアスがまた俺の背中をバシバシ叩きながらここに通う理由を説明した。俺は特に好き嫌いはないが、マティアスが「話を合わせろよ、この野郎」と目で訴えてきたので、俺はその日から偏食野郎の設定になった。


 かっぷくのよい女性はここの女将さんで、色々と俺に対して思うことはあったみたいだが、しょうがないねと言ってくれた。


「そんなに偏食なのかい? いつも完食してるじゃないかい。 何が嫌いなんだい?」


 そう言われても、俺には嫌いな食べ物はないわけで。


 ふと、前にアイビーがトマトをかじって酸っぱくてビックリしていたことを思い出した。目をパチクリさせていた顔が可愛くて、ふっと笑みが漏れる。


「トマトが苦手で」


 そう言うと、女将さんにポカンとされる。女将さんだけではなく、マティアスにまで間抜けな顔をされた。なんだ?と、片方の眉を上げると、マティアスがぶはっと笑いだした。


「トマトっ……くくくっ……その面で……トマトかよっ……」


 腹を抱えて笑いだすマティアスに眉根をひそめる。失礼な奴だ。俺は目つきが悪い、無愛想とはよく言われるが、そんなに笑うことはないだろう。


 文句を言おうとしたが、女将さんまで口元に手をおいて、笑いを噛み殺していた。


「トマトっ……そりゃあ、大変だ。ここの料理はトマト料理が基本だからね。けど……トマトか。あんた、顔に似合わず可愛らしいところがあんだね」


 子供扱いされて俺は口をへの字にする。文句は女将さんには言えなくて、居心地が悪い。


 その時、くすりと笑う声がした。


 声の先に目をやると彼女が笑っていた。控えめだが、肩を震わせている。その顔を見て、すっとやり場のない怒りは消えた。


 彼女と目があうと、バツの悪そうな顔されて、「ごめんなさい」と言いたげに頭を下げられる。


 それにふっと笑みがこぼれた。俺が首を振ると、どこかほっとしたように、笑顔を見せてくれた。


 ――あ……また、笑ってくれた……


 たったそれだけのことなのに、俺は今までのことが報われたような気がした。


 彼女の笑顔を見れた。

 本当に、もうそれで充分、なのかもしれない。



 ***


 それからも彼女の元に通いつめる日々は続いた。活動的にお店に出てくる彼女を見ていたら、静かに心は満たされていった。口元は自然に笑みが出ていたし、このままでもいいか……とさえ、思えていた。


 たとえ、彼女が思い出さなくても、最後に笑顔を見続けられるなら……もういいか、とさえ。



 あまりにじっと見続けているせいか、彼女は目があうと、恥ずかしそうに頬を染めて、すぐに視線を逸らしてしまう。それがやや寂しくあるが、しょうがない。


 今日も夜ご飯を食べて、帰ろうと席をたつ。お代を払うために彼女に近づいた。


「ごちそうさま」


 声をかけると、彼女は小さく頭を下げて、お代を言う。俺は財布から銅貨を取り出して、彼女の手のひらにゆっくり落としていった。


 なにげにこの時間が好きだ。彼女との距離が近づけるのはこの瞬間だけだから。俺は初日に抱きしめるという暴挙をおかしているから、それ以来、距離感には気をつけている。


 お金を渡して、じゃあまた、と声をかけて、踵を返す。


 一歩踏み出したら、くいっと、服が引っ張られる感じがした。なんだろうと思って振り返ると、彼女が控えめに俺の服を掴んでいた。


 そのシチュエーションは二度目だな……と思い出して目を細める。


「あの……少しだけ、お話をしてもいいですか?」


 恐る恐るに言われた声にこくりと頷いた。



 ***


 店では話づらいことなのか、裏手にある路地裏まで会話もなく歩く。彼女が止まったので、同じように歩みを止めて、彼女と向き合った。


 彼女はなんと切り出してよいかわからないらしく、口ごもっていた。俺は声を出さずに、じっと彼女の言葉を待った。


「あの……そんなに似ているんですか……?」


 思いもよらない言葉に俺は間抜け面をした。彼女は困ったように眉尻を下げた。


「わたしがあなたの探している人に似ているってことは知っています……だから……その……」


 あぁ、これは俺の態度があからさますぎて、困っているということだろうか。


 彼女は思い出していない。

 彼女から見たら、俺はストーカーみたいな野郎だ。怖がらせているのかもしれない。


 どこか夢見心地だった気持ちが、急に現実に戻って冷えていく感じがした。


 俺は曖昧に笑って、彼女に謝罪した。


「ごめん……君を誰かと重ねるなんて……嫌な気持ちにさせた……」


 暗く沈む気持ちに彼女は困ったままだ。


 ここいらが潮時なのだろうか……

 なんだか、本当に夢から醒めた気分だ。


 俺はこれ以上、彼女に困った顔をしてほしくなくて、また曖昧に笑う。


「……明日から二週間ほど遠征に行くんだ……」

「え……?」

「だから……しばらく来ない……安心して」


 彼女がぐっと口を引き結ぶ。それにまた微笑んで、ごめんね、と呟いて、彼女の元を去った。


 歩きながらも背中で彼女を追っている自分がいて、嫌になる。困らせたくないのに、今すぐ踵を返してしまいそうだ。


 彼女を無理やりこの腕の中に閉じ込めて、連れ去りたい衝動が込み上げてくる。二度と俺しか見ないようにその唇を、その体を――――

 

 狂った思考に支配されそうになり、苦く笑う。


 最低だな……

 だから……アイビーは俺を拒否するんだろうな……



 ***


 二週間の遠征をのろのろとこなし、帰って来て一週間経っても、彼女の店に行けなかった。


 今度会ったら、願いのままに彼女を捕らえてしまいそうで恐ろしかった。


 暗澹(あんたん)とした気持ちでいると、マティアスが無理やり俺を引きずって、店に行かせた。


「いいからこい!」と、強く言われて、行ってしまう俺は、意志の弱いやつだ。


 結局、彼女の顔が見たくて足を進めてしまった。



 リリンと鈴を鳴らして、扉を開く。なかなか彼女が見られずうつむいたままでいると、床にお盆が落ちる音がした。


 視界の端にくるくる回って止まる銀のお盆が見える。俺は不思議に思って、顔を上げた。


 彼女が黒い瞳を大きく開いて呆然としていた。何か信じられないものでも見ているような態度に首をかしげてしまう。



「……ルティス…………?」



 ポツリと呟かれた言葉に、今度は俺が同じような顔をする。その名前は今の俺の名前じゃない。だから――


「アイビー……?」


 確かめるように名前を口にした。彼女は、はっと我に返って、静かに頷いた。



 その瞬間のことを俺はどう表現したらいいのかわからない。


 歓喜。幸福。いや……違う。もっと深いもの。


 たぶん、俺はただ君に――


 俺は唇を震わし、目尻から涙を溢れさせた。押さえようと思って口元に手を置いて、嗚咽を噛み殺す。でも、次々と溢れてきてしまって、俺は目をきつく結んだ。



 どんっ……と、胸に重たい衝動がくる。離れないと言いたげに、俺の背中に腕が回された。


「ごめん……ごめんね……ルティス……忘れてて……ごめんね……」


 彼女が謝ることなんてないのに、それすら言えず、俺は泣いて彼女を抱きしめることしかできなかった。




 やっと会えた。


 君に。


 君に。


 俺はただ、アイビーに、会いたかったんだ。


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