1-2 この町に来るは絶望
クーラーボックスと言うのは結構浮くもので、夏に一人バーベキューをしようと近くの河原に行くボッチは結構流れるものだ。
この一文をチャチャっと読み解くと僕の情けない死因が分かる。
噛み砕いてに言えば、一人で伸び伸びとキャンプ気分を味わっていたらクーラーボックスを川に蹴り落としてしまい、大慌てで飛び込めば意外と流れが早くてそのまま、である。
本当に情けない話だけど、今も井戸を覗くとあの時の息苦しさを思い出して脚が竦む。
井戸に宙吊りになるのと一日中あの地下の個室に入るのと、どちらがいいかと問われれば一昼夜悩むくらいの心の傷だった。
「あーそう思うと、ここの気味悪さとトラウマレベルの恐怖、殆ど同じレベルなんだなあ」
新たな朝に滑車を軋ませつつ呟いて、しばらく考えて、考えなくてもいいくらい当たり前のである事に気付いて納得した。
それもそうだ。ご神体がウジ虫ウミウシでそれを目に入れても痛くないくらい可愛がる集団だもの。
気持ち悪くないわけがない。
だからそんな教会を出られる仕事は好きなものの一つだし、孤児の間でも人気だった。
そんな引っ張りだこな仕事として買い出しがある。といっても食料品や衣料品の買い出しじゃなくて教会の儀式に使われるものだ。
あの教会の儀式と言う事で、当然だけど商店街で売られているものじゃない。少し危険な香りのする場所で求めるしかない。
朝の水汲みが終わればその仕事が待っている。金銭は既に預かっているのでさっさと妙な神の元から抜け出そう。
コツ、コツ、と乾いた石畳を踵で叩けばその音は何処までも響き渡る。そんな静寂がひび割れた町に横たわっていた。
静寂はいつもの事だ。この狭苦しい石の町はいつも人が居ないように冷たく静かで、乾いている。
人が居ないわけではない。しかし誰も家から出ようとはしない。
皆習ったように鉄で補強された門戸を固く閉ざし、何かに聞き取られることを恐れて静寂を保っている。
鈍色の空を見上げるのは僕一人……いや、もう一人居たか。
立ち止まった僕を追い抜く、身体を重そうに引きずる血濡れの男。
顔も見えない深いフードと膝までの外套から血を滴らせて、石畳に跡を残しながら道を行き去る。
通り過ぎた際、立ち上る濃厚で生臭い死の匂いに一瞬酔いそうになった。
血は人を狂わせる。この町ではそう信じられている。
でなければ自身の死に様を覗き込むような仕事は出来ない。そう語られているのだ。
「『契約者』は、いつも怖いな」
でもここでは彼等こそが治安を守る存在だ。怖ければ怖い程、逆に頼りがいがある。
何せ敵は強大で膨大で恐ろしい。この世界の全ての悪夢を凝縮したような存在だ。
例え門戸を閉ざそうが城壁に囲まれていようとも、闇が忍び込むように気付けばそこまで迫っている。
そしてまるで親友があいさつ代わりに抱擁するように、あいつらは僕達を死の淵へと誘う。
いや、もしかしたら僕達が彼等に引き寄せられているのかも知れない。
数週間前に気が触れた人が言っていた。『恐怖は避けようとするから怖いのだ。受け入れれば喜びに変るのだ』と。
そう言ってケタケタ笑いながら武器を放り出し、敵がうろつく門の外に出ようとした彼がどうなったか、僕はまだ知らない。
隙間なく並ぶ建物を幾つも通り過ぎ、ある一区画の閉ざされた門戸を叩く。するとガチャリと鍵が開いて、男の顔が覗いた。
扉の隙間から出てきたのは片耳しかない、白いひげを蓄えた偉丈夫だ。風格はあるものの、実は雇われているらしい。
「ああ、お前か」
「神官長のお使いで来ました」
「入りな」
招き入れられて中に入る。すると清涼感のある香りとアルコールの匂いが混ざった空気が僕を包む。
酒場だ。と言っても壁にビンが並ぶような場所ではない。安酒が樽単位で置かれているだけのチープな店だった。
そこでは悪夢を忘れたい人が日夜こっそり入り込み、そして今日もうめき声が響いていた。小さい声だがこの世を恨みが詰まった、響くような声音だ。
その出所は酒場の片隅だ。グラスを握る痩せ気味の青年で、その気弱そうな顔には面識があるので挨拶をしておく。
「お久しぶり」
「……穴を掘ってください。埋まりたいんです」
「首だけ出して、『こいつは怖すぎてパニックになって町中を走り回った人です』って看板立てていいなら、喜んで汗流すぜ」
「……うぁぁ」
うん。数週間前に気が触れた彼は立派に黒歴史を増やして酒場に入り浸っていた。
彼はバジル。目の前で人が『モザイク必須』になるまでの過程を目撃して、気が触れてしまっていた新人契約者だ。
線の細い優男で、戦うのが大嫌いなのに契約者にならざるを得なかった可哀そうな人でもある。
「何だよ。また気が狂ったのか。また僕にタコ殴りにあいたいのか?」
「……何で君はそこまで強いんですか?」
「そりゃ見ての通り、教会の人間だからな。毎日のお勤めで体も心も鍛えられるんだよ」
面白い事にこの世界では身体能力の発達は異常なまでに速い。素早く動けば身軽になるし、重いものを持てばみるみる力持ちになる。
まるで生物が幾世代も経て環境に適応するのを、たった一世代で実現して見せているようだ。
教会もそれを知っている為に率先して雑事を子供に押し付けている節もある。
つまり教会が保護する孤児達は大体の奴が野犬とタメを張れるくらいには強いのだ。
「ああ、教会の『リトルバレット』の話は聞いたことがありますよ。でも、走る男に追いついて脚を引っ掛けて、挙句に馬乗りになってボコるくらい強いとは思わないですからね」
「はっ。応えたろ?」
「いや、やり過ぎだと思うんだけど」
「良いんだよ。あのままだとバッドエンドだったからな」
全く誰かが不幸になるような話は大嫌いだって言うのに、目の前であんな風になるから悪いんだ。ただでさえこの世界は悲劇が多いのに。
と、話して居たいのは山々だけどまだ仕事が山積みだった。
「じゃあ僕は仕事が残っているから」
「ああ、気を付けて。俺はもう少し、飲んでますので。せめてあの記憶が飛ぶまでは」
バジルと別れて二階へ。行く。
すると酒場と言うのはただの表の顔、いや暇のついでに経営しているだけだと知れた。
薄暗い二階、居抜いて広げられた大きな部屋を飾るのは、棚に収まる殺す為だけに発展し続けた道具達。
研ぎ澄まされた刃は触れただけで切れそうなほどの鋭さだ。それが入口から見たでも分かる。それだけの殺意を込めて作ったんだろう。
殺意の展覧会、復讐の具現化。そんな言葉が似合う空間だった。
「子供が武器屋に何の用……ああ、教会のガキか」
カウンターの中、作業台でナイフを研いでいた人間に見とがめられ、溜息を着かれる。
髪を剃り上げた大男だ。が、趣味は飴細工で酒精よりもコーヒーが好きと言う、怖い見た目とは裏腹の男だった。
ただ彼の全身に刻み込まれた傷と、大きく無骨な脚の義足を見るにかなりの激戦を生き抜いた猛者なのは確実だった。
彼がこの武器だらけの空間を支配する、店主だ。
「店主、今日も神官長の用事だ」
「分かっている。しかし教会の考えてる事は分からないな。ガキ、こんなのを使って何になると思う?」
「知らないよ。ダシでも取るんじゃないか?」
「それは上等な食事だな」
と言って渡された袋の中身をあらためる。
「本当に、頭蓋骨なんて本当にどうするんだろうな」
布袋の底で獣の牙が生えた人の様な骨が見上げて来た。それ以外は何もなく、問題がない事を確認して袋の口を閉じる。
これが神官長のお使いであり、第一書架教に不気味さを醸す理由の一つだ。あの骸骨が何に使われているか、僕は本当に知らない。
そしてきっとこの先も知ることはないだろう。
「それじゃ」
「待て。そろそろ『来る』って話だった。今日は泊まっていけ行け」
「冗談。この後も掃除とか飯の支度とか残ってるんだよ」
『来る』と言われれば来るんだろう。監視塔があるのだからその情報に間違いはない。ただそんなものは日常茶飯事であり、もっと言えば直ぐに収束する。
ここが果てに作られた町である以上それが当然だ。そんな事象に慣れ切ってしまった僕はさっさと帰ろうと扉を開ける。
「いや、実は契約者の方が結構立て込んでて」
という彼の声を聴きながら、止まる。
彼の制止を聞き入れた訳じゃない。音を聞いたからだった。
彼の声を遮って、鳴り響く、鐘の音。
低く鈍く、延々と鳴らされる。それは長く響いて音と音が重なり歪んで、不協和音になっていく。
町中に不協和音が満たされて人々がなりを潜める。
陰気な街に、陰惨な香りが漂い出した