172話 御陵と星紋(1)
──高辻樹──
「すまないな樹君。急な話で」
「いえ、気にしてません。むしろ呼んでいただいて助かりました」
自動四輪のエンジンを掛けながら座席越しに謝ってくる海人さんに、俺はそう返答する。
こんな心理状態のまま家にいても、モヤモヤするだけだからな。
それに父親である郡司さんの執務室へと乗り込みをかけるなら、俺もあの人に聞きたい事が山ほどある。
それに海人さんから聞いた理玖の様子だと、恐らくエストラルドへと逃げ込んだと推測できる。
俺も今の精神状態のまま向こうに行って、ばったり鉢合わせするのは避けたい。
再び前を向いた海人さんの横顔を見ても、普段の彼との差は特段感じられない。が、内心は穏やかじゃないだろう。
海人さん自身も弟の将来を初めて聞かされたからだ。他ならぬ俺の口から。
俺は海人さんは知っていたものと判断して相談したんだが、彼はエストラルドが別の世界だという事を実体験で知っていたものの、弟が次期当主になるという事は完全に寝耳に水だったようだ。
海人さんとて、姉の美空さんがいずれ当主になる事を疑ってもいなかったらしいしな。
更に聞けば、昨夜海人さんは杠葉姉さんの事で郡司さんと大喧嘩したそうだ。
俺達の姉であり海人さんの恋人でもある杠葉姉さんが、昏睡した状態のまま目を覚まさない事への治療の一環として、あのASに繋がれているのは俺達も知っている。
聞かされた当時は、当然普通のゲームの認識しかなかった上、衰弱した精神と意識レベルを復調させる為、つまり治療とリハビリの一環として繋いでいたという認識しかなかった。
最初からアレが姉さんの魂を別世界へと飛ばす装置であったなどと知っていたら、俺も海人さんも首を縦に振らなかったに違いない。
当然その事実を郡司さんは初期から知っていた。
その喧嘩は秘密にされていた事に対する反発でもあったらしいのだが、そのASへの接続によって杠葉姉さんの目を覚まさせる手段が見えてきた事もまた確かである。
喧嘩ばかりしていても何の意味もないと、先の展望を考える為に杠葉姉さんの体調や状態を聞き出そうとした海人さんが理玖から無視された事で何かがあったと察し、そして俺に連絡してきた。
で、紬姫さんから聞かされた事を話したのがつい先程の事。
その結果、こうして第二ラウンド開始とばかりに再び郡司さんの所に乗り込もうとしている海人さんに、俺と結依も便乗する形でついていく事にしたのだった。
流れ始める景色から目を外し、隣に座る結衣の様子をチラ見する。
俯き加減に身動ぎ一つしない結衣。
帰り道理玖と繋いでいた右の手のひらに視線を落としたままぼんやりとしている。
理玖と別れてからずっとこうだ。
声を掛けても俺の後をのろのろと着いてくるだけで。
話しかけても、それが理玖に関わる事以外だと殆ど反応しなくなってしまった。
その姿は……理玖が怪我をして意識が戻らず、集中治療室の窓からアイツを眺めていた頃の姿とそっくりで。
あまりに痛々しくてすぐに目を逸らす。
こうなった結依を救えるのは理玖だけだろう。
そう、理玖だけが結依の笑顔を取り戻せる。
そして理玖に現れた祝福の証である星紋の秘密を解き明かし、この負の因果を断ち切る。
だから俺は。
少しでも自分を納得させる為に。
結衣と理玖の二人の未来の為に。
この後の対策と、身の振り方を考えていく。
タイミングは最悪だった。
昨夜父から俺達『高辻』の名が持つ意味と在り方、宗主となる『御陵』との関係。そして御陵家の当主が持つ役割とその宿命の話を聞いたばかりだった。
御陵の当主は十二家の宗主となって自らの家系を護らせ、その特異な血筋を維持していく見返りに、十二家に対してその繁栄を約束する。
そんな古の契約に縛られた家系。
こんな神から祝福されたような契約がいつから存在しているのかすら不明だが、俺達の祖先は『御陵』との契約を粛々と守り続けてきた。
俺達十二家を含め、御陵はそれだけ異質な家系であると聞かされた。
──そして。
そんな御陵の次の当主として選ばれるのは、他の誰でもない俺の親友の理玖だと説明を受けた。
ここで疑問が出る。
御陵家の歴史を振り返ると、当主の座には必ずといって最初に産まれた女性が就いているのだ。
言うまでもなく理玖は男だ。
それも末っ子であり、上に姉と兄がいる。本来なら姉を差し置いて当主に選ばれる筈がないのだ。
しかしこの当主の選考は現当主の意思は全く反映されないという。
身体のどこかに『星紋』が現れなければ、当主としての資格がないそうなのだ。
そうして御陵家の女性は過去より今まで大いなる『星の意思』に選ばれ、身体のどこかに星紋を発現させた者が当主となり、必ず十二家の男から婿を得て自らの娘へと引き継いできた。
だが、本来なら唯一の跡取りとして選ばれる筈の美空さんに星紋は発現しなかった。
思春期になっても、高校を卒業しても……大学を出て就職しても、だ。
この事実は、当時の十二家当主達を大きく混乱させた。あらぬ憶測からいらぬ噂が飛び交って、収拾がつかなくなったそうだ。
それを押さえる為に有栖川家、しいては慎吾さんが大きく関わったとは聞いた。
そしてその騒動の最中、もう一つの爆弾が投下された。
現宗主の紬姫さんによる「次期当主は既に決まっている」という発言。
本人は収拾をつけたかったのかもしれないが、それが「いつから?」とか「誰が?」とかを言及しなかったから、むしろ余計に混乱したらしい。
当時何がどうなっていたのか俺には分からないが、あの人が適当に言う筈がないだろう。何らかの予兆があって、その時には理玖が次期当主に選ばれる事を確信していたのだろうな。
そもそもあの忌まわしき事件の後、俺達のどちらかは常に理玖の傍に居た。
もちろん自分の意思でもあったのだが、それもそれとなく紬姫さんに誘導されていたきらいがある。
俺は中等部では常に同じクラスだった。
どこかへ出かけるにしても、必ずといって俺か結衣のどちらかが同行していたし、俺達の都合がつかない時は美琴、もしくはアイツの家に従事している誰かが同行していた筈だ。
以前理玖の奴が「怪我してから『一人で出歩くのは危ない』って言われて禁止されちゃってね。自由に遊びにもいけないんだよ」と愚痴をこぼしていた事からも、俺の考えは当たっている筈だ。
未来の当主を護る為、紬姫さんが秘密裏に手を回していたんだろうと。
何度か妙な視線や追跡を受けた事もあるしな。
嫌な感じがなかったから放置はしたんだが、恐らくそれも俺を表の護衛に使いつつ、陰からの護衛も同時にしていたんだろう。
その時から理玖が当主になる事は既定路線だったに違いない。
そう、あの日の夜。
父から十二家の秘密と次期宗主が理玖になると聞かされた時点では、アイツが紬姫さんの後を継ぐ事になったのかと、その程度の感想しか湧いてこなかった。
紬姫さんの真意は何なのかを訊ねても、理玖はのらりくらりと誤魔化そうとした。
見ればすぐ解る。
アイツの誤魔化しのサイン。
何年アイツと共にいたと思っている?
あの車の中でも必要以上に問い詰める真似は避けたが、その時にしっかりと問い詰めておけば、この後の展開が少し変わったかもしれなかった。
いや結局後回しになるだけで、起こる事態は何も変わらなかったとは思うが。
あの理事長室で紬姫さんから聞いた話は、それほど衝撃的だったのだ。
学園の理事長室に押し掛けた際、御陵家の歴史を一通り語った紬姫さんはおもむろに左手の手袋を外した。
常日頃、左手にだけ手袋を嵌めている紬姫さん。
その手袋を脱いで見せた手の甲に淡く輝く紋様が浮かび上がっているのを見て、俺は目を見張った。
なんだそれはと思ったのもつかの間、以前同じものをどこかで見た事があったのを不意に思い出す。
そう、あれは……試練の時だ。
偶然にも理玖と風呂場で鉢合わせてしまい、しかも不運な出来事が積み重なって目にしてしまった親友の生まれたままの姿。
風呂くらい一緒に何度も入った事はあるが、この時ばかりは拙かった。精霊としての姿――つまり女性として固定化されていたからだ。
未成年コードの影響か、確かに肝心な部分は光によって隠されていたが、それはあまりにも限定的だった。ギリギリ隠れているレベルでしかなかった為に肌色の部分が多く、体型から乳房の大きさ、そして細く折れそうなウエストライン……何から何まで簡単に分かってしまったのだ。
しかし何よりも釘付けになってしまった部分がある。
左の乳房の右下半分、心臓寄りの部分に淡く光る不思議な痣に気付き、転んで床に座り込むアイツから目を離すのを忘れてしまった。
紬姫さんの手の甲にある痣。
理玖の左胸にある痣。
何故御陵家が家紋にしている紋様が身体に浮き出ている!?
混乱した頭に続く説明。
混乱は加速する。
その痣──星紋は他にない強力無比な力を紋章の所有者とその仲間達に与えるが、当然大きな代償を必要とする。
その代償とは所有者の生命力、つまり『命』そのもの。御陵家の長き歴史でその宿命から逃れた宗主はいない。
それを聞いた瞬間、結衣は脱兎の如く理事長室を飛び出した。そんな結衣を追いかける為なのか、理玖が慌てた表情で精霊へと変化し、溶けるようにその場から姿を消す。
俺も後を追おうとして立ち上がったが止められた。
止めたのは……美琴だ。責めるかのような俺の視線を受けても、彼女は小さく首を振った。
しばらく睨み合い……。
「知っていた、のか?」
誰が、何が、とは言わない。
自分でも驚くほど、乾いた声が出た。
「はい。お風呂とかで」
「……そうか」
幾分か冷静になった俺は、自分から静かに視線を外した。
確かに結衣と理玖を追いかけても、今の俺では何も言えず変わらない。しかもどこへ行ったかすら分からない。
それならば、と考え直す。
今後に向けて、少しでも情報をかき集めよう。
そう思って振り返れば、一瞬で老いたかのように疲れた顔をした紬姫さんと、静かに瞑目する春花さんがいた。
「──ままならないものね」
溜め息と共に吐き出す。
「……紬姫。やはり性急過ぎたのではなくて?」
その口調は話した事を責めるよりも、どうにもならない事態に愚痴りたくなるような言い方だった。
「でも叔母様。一番いい未来の為にはこうするしかなかったのです」
一番いい未来?
どういう事だ?
恐らく俺以外にも顔に出ていたのだろう。
二人は俺達の様子にしばらく顔を見合わせた後、俺達の方に向き直る。
「ひとまずこの場は解散しましょう。近いうちに説明の場を設けます。それに……」
少し悲しそうな表情を見せ、
「樹君。まずは理玖と結衣ちゃんを家までお願いね。あの子達は今屋上にいる筈だから」
と、寂しく笑ったのだった。