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ナチュラル

作者: コメタニ

 放課後の音楽準備室は穏やかな空気とゆったりとした時の流れで満ちていて、まるで完全予約制の歯医者の待合い室のような雰囲気だ。僕は窓辺に立って、トランペットのマウスピースを唇に当て勢いよく息を吹き込んでいた。マウスピースはビィービィーと、産まれたばかりの子豚の鳴き声のような、あるいは不気味な鳥の鳴き声のような甲高い音を響かせる。

 野球部の応援と学園祭という2大イベントを無事にやり過ごした吹奏楽部は緩和の時期にあり、部員たちはそれぞれの楽器を手にするとそれぞれ校内のお好みの場所へと散っていき、そこでそれぞれ思うがままの個人練習を行うのが日課となっていた。音楽準備室には僕のほかにはホルンパートの女子部員三名が椅子を三角形に向かい合わせるように並べ、楽器を膝の上に載せたまま演奏をするでもなくずっとおしゃべりに興じていた。僕はマウスピースをビィービィーと鳴らしながら窓の外を眺めていた。校庭の隅のテニスコートでは、まっ白なウェアに身を包んだ女子テニス部員たちが横一列に並んでラケットを振っていて、ラケットが上下する度にスカートの裾がひらひらと揺れ、秋の夕暮れ前の柔らかい日差しがそれを幻想的に浮かび上がらせていた。

「永山ぁ」

 とつぜん背後から名前を呼ばれ、ふわふわと夢想の中を漂うように浮かんでいた意識をぐいっと襟首をつかまれて引き戻された僕はビクンと身を強張らせた。振り返ると2年生の黒川さんだった。左手に持ったクラリネットをぶらぶらとさせている。

「なに? 校庭に何かいるの?」

 彼女は窓の外を見ようと身を乗り出してきた。僕は別にやましいところなどなかったけれど、なんだか慌ててしまい少しうわずった声で答えた。

「な、なにもありませんよ。なんですか、なにか用事ですか?」

 僕の鼻先に黒川さんの頭があって、てっぺんのつむじが見えた。シャンプーだろうか、甘い香りが微かに鼻腔をくすぐる。黒川さんはつやつやと輝く黒髪を肩まで伸ばしていたけれど、学園祭が終わった数日後にばっさりと短く切ったショートヘアーで部活に現れ部員のみんなを驚かせた。みんなは理由を色々と噂していたが、本当の理由は僕の耳には入って来なかった。

「用事というか、シャープなんだけど」

「シャープ……ですか」

「うん。シャープ」

 僕は傍らに置いた譜面立てに練習曲の楽曲集を開いて載せていた。黒川さんはその楽譜の端っこを指さした。

「これ、この記号のシャープ」

『なにをいまさら。また何か言い出すのかな』訝しい気持ちが芽吹いてくるのを感じる。

「はい、シャープですね」

「これって『尖った』とか『鋭い』って意味だよね」

「そうですね」

「フラットは『平ら』」

 彼女は開いた右手を手のひらを下にして胸の前で水平に動かした。僕は手の動きを目で追いながら答える。

「はい。平ら」

「じゃあナチュラルは?」

「『自然』……ですか」

 そこで黒川さんはクラリネットをぱくりと咥えると、息を吹き込まずにカタカタとキーを鳴らした。ときおりチラリチラリと上目遣いで見てくる。先の見えない話に不安な気持ちといらだちが湧き上がってくる。

 すると、彼女はクラリネットから口を離していった。

「ナチュラルって、自然ってどのくらい?」

「はあ?」

「フラット」彼女はまた手のひらを水平に動かす。

「シャープ」今度は目の前の高い山をなぞるかのように動かした。僕はジェットコースターを連想する。

「じゃあナチュラルは?」

「えー。フラットとシャープの間くらいじゃないんですか」

「どれくらいよ」

「んと、これくらい……かな」

 僕は黒川さんのように目の前の山を手のひらでなぞった。彼女のよりは少しなだらかな山だ。

「ふうん。永山にとって自然なのってそれくらいなんだ。それくらいのが好きなんだ」

 そのとき無意識に彼女の胸元を見てしまい、次の瞬間『しまった』と思う。黒川さんは僕の視線を見逃してはいなかった。目は妖しく輝き、口元がわずかに微笑む。

 彼女は唇をペロリと舐めると「じゃあね」とひと言残し、クラリネットをまたパクリと咥えてキーをカタカタと鳴らしながら準備室を出ていった。僕はその後姿を黙って見送る。ふと視線を感じるとホルン女子たちが好奇心に目を輝かせながらこちらを見ていて、僕と目が合うとニヤリとゲスな笑みを浮かべた。僕はどぎまぎとしながら再び窓ガラスと向き合いマウスピースをビィービィーと鳴らす。校庭にはもう女子テニス部員たちの姿はなく、代わりに秋の風に巻き上げられた落ち葉がかさかさと踊っていた。

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