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9 電話を切って、手を振って



 岬から相談があると呼び出されたのは、クリスマスの約束をした数日後だった。僕は呼び出し当日に楓に相談し、岬に悲惨な告白をすることになる。僕は岬に好きだと言った。岬は楓が好きだと言った。すべては僕の誤解による惨劇であり、何もかもが悪手だった。呼び出しの事を楓に話した事も、思い上がって岬の相談の真意を確かめようとしなかった事も、岬が楓を好きになってしまった戸惑いや悩みを汲んでやれなかった事も。


 河川敷は夕闇に飲まれつつある。僕は岬が爪を立てた手首の痛みが完全に引いても、動き出せずに俯いていた。土手に強い山おろしが吹き付け、納屋のある野球グラウンド裏まで吹き下ろしてきた。岬は去った。どこにも見えない。体は徐々に冷えていった。冷え切ってしまえばいいと思った。

 完全に夕闇に辺りがつつまれると、自責の念が和らぐのを感じた。景色が見えなくなるにつれ、心がぼやけて焦点を失っていく。おぞましい自惚れを自覚せずに済んだ。もし僕の顔が酷く醜かったら、鏡を遠ざけるに違いない。今はあらゆる光や風景が鏡であり、自らの醜さを見ないで済む闇に身を置きたかった。


 駐輪場で自転車の鍵を降ろした時、おい、と肩を叩かれた。楓だった。駐輪場の切れかかっている蛍光灯に照らされて、楓はわずかな笑みを浮かべ、無言の間を空けてから大きくため息を吐いた。僕を駐輪場で待っていたのだ。

「どうだった」楓は言う。口調には期待する響きはない。僕の素振りを見て、勘づいているようだ。

「最悪だよ」僕はそれだけ言った。どこをどう話すべきか、見当もつかない。

「相談事、告白じゃなかったんだな」

 僕は何も言えない。告白だったが、それは楓に対しての気持ちだった。そんなこと岬のいない場所で伝えられるわけがない。

 僕が黙っていると、楓はそれ以上詮索してこなかった。僕らは自転車には乗らず、ハンドルを押して土手の道を歩いて行った。僕は楓に伝えるべきことを整理し続けた。楓は何も言わず、寒い山おろしが吹きすさぶ中を僕と並んで歩いた。

 

 土手の道のりを半分ほど過ぎた頃、僕のスマートフォンが鳴った。電話の着信だ。岬からだった。僕は酷く動揺して、手の中で震えるスマートフォンを握った。楓は力強く微笑んで、僕の右肩を手のひらで叩いた。そのまま自転車を押して僕から離れていく。僕は意を決して着信に応じた。

「もしもし」僕は言う。

「もしもし」岬が言う。

 そのまま互いに黙り込んでしまう。本題はあるけれど、とっかかりとして話すべき言葉が見つからないのだ。「さっきはごめん」でもない。「ありがとう」ではもちろんない。僕は自転車のスタンドを立て、慎重に言葉を選ぶ。

「楓と一緒に帰っていたところだよ。いま少し離れたところにいる」

 岬は何も言わない。僕は大事な事を言い忘れた事に気づき、付け加える。

「あのあと、楓には何も言っていない。僕が思いを伝えたことも、岬が誰を好きかって事も」

「じゃあどうして二人でいるの」

 岬の声は静かだった。

「楓が僕を待っていてくれた」

「それなら、何も話さないのはおかしいよ」

「何も話していない。土手を二人並んで、自転車を押している」

「パンクしたの?」

「別に何も」僕は言う。

 しばらく間があった。このまま通話を切られないか不安だった。ほどなく、岬が少しだけ吹き出すのが聞こえた。僕はそれでいくらか安心する事が出来た。

「変なの。何も語らずに、寒い土手の上を、二人で自転車を押しているのね」

「かっこいいだろ」

「ばか」岬は震えながら笑った。声は涙で潤んでいた。泣きたいのは僕も同じだった。

 電話の向こうで岬は大きなため息をした。鯨の深呼吸のような長いため息だった。

「私、よく考えたんだけど、今日の内に決めておかなくちゃいけないと思うの。私たち、たぶんこのままじゃ一緒に居られないでしょう。私は楓くんが好きだし、智生くんは私の事を。楓くんは私が智生くんに告白したんだと思ってる」

「そうなると思う」僕は言う。改めて聞くと滅茶苦茶だった。

「だから、こうしようよ」岬が一息置いて、申し訳なさそうに言った。

「私と智生くんは、告白しあって付き合う事になった。楓くんの前では二人は恋人同士」

 僕は酷く混乱した。右耳に当てていたスマートフォンを左耳に当て直した。

「楓くんの前では、今回の相談事はお互いの告白だったという事にするの。智生くんが事前に楓くんに相談したのなら、私の相談事を別の何かでごまかすのは難しいでしょう?もし告白じゃなかったとしたら、じゃあ何の相談だったのってなるし」

「楓の前で、恋人を演じる」僕は言った。

「そう、演じるだけ」岬は言う。

 僕は言葉の意味を考え、それから楓の前で恋人を演じる僕と岬を想像した。

「岬はそれでいいのか」僕は言った。声は戸惑いで揺れた。

 僕はそれでもいい。何をしたっていい。けれどこの提案は、岬の悩みをさらに深刻にするだろう。目の前に好きな人がいる。けれど、別の人を好きなふりをしなくてはいけない。ただでさえ同性を好きになって悩んでいるのに、こんなややこしい事を抱えさせていいのだろうか。

 岬はしばらく何も言わなかった。悲しいんだろうと思う。当たり前だ。

「智生くん、分かって」岬は言う。「私は今の関係を失いたくないの。それに、演じていたって私の気持ちは楓くんにしか向いてない。我慢するのは、私だけじゃないと思う」

 僕は唇を噛んで、その通りだ、と念じた。負担が岬だけでなく、自分にもあると分かると、もはやこの提案は受けずにはいられないように思えた。

「その提案を受けるのは、本当に構わないよ。でも、さっき楓と会った時、すごく暗い顔をしてしまったんだ。楓は告白が失敗したと勘付いてる」

 岬は言葉にならない声を出した。母親と死別した子犬のような呻きだった。

 僕らはまた黙り込んでしまう。僕は受話器に風が吹き込まないように、両手で電話を抱えていた。

「もう手遅れなの?」岬がか細い声で言う。

「やってみないと分からないけど」僕は言う。

「私、本当に三人で居るのが好きだったの。こんなに自分をオープンにできた事なんて、生まれて初めてだったのに。もう一緒にお昼食べたりできない?クリスマスも遊びに行けない?お願いだから」

 岬は今にも泣き崩れそうだった。僕は強く、心を叱った。今挽回しないでどうする、考えろ。電話を持つ左手の手首を右手で握り、思いっきり爪を立てた。先ほど岬が僕に爪を立てた場所だ。

「俺、岬に謝ろうと思っていたんだ。と言うか、自分をものすごく嫌った。さっき自分の気持ちを優先してしまったけれど、岬の悩みってすごく深刻なものだったんだよな。本当はちゃんと悩み事を聞いてから、判断すべきだったんだ」

「いいよ、もうそれは」岬は声を震わせる。

「違うんだ。岬、僕は岬の願いなら何でも叶えるつもりだ。駅にテントを張ろうが、リトマス試験紙を箱買いしようが、何だってやってあげられる」

「もう、それ私がやってって言ってない」岬が少し声を緩ませて言う。

「いいか、僕はさっき岬に告白したけれど、岬は断った。岬の相談事は別にあり、僕が勘違いした。振られた僕はしょんぼりして駐輪場に行き、楓に励まされる。告白の失敗を悟った楓は僕と寒い土手を歩く。これが今までの出来事だ。で、ここからが僕の案だ、こうしよう。岬は僕に電話を掛けてきた。さっきは驚いて断ったけれど、考えてみなくもない。悩み事はまたいつか相談する。つまり、さっきは振ったけど、この電話で改めてOKしたという体にするんだ。そうすれば楓の前で僕が暗い顔をしたことも説明が付く」

 電話の向こうで、岬は鼻をすすりながら黙って聞いていた。僕も話し終えて黙っていた。ほんの一秒が酷く長く感じる。胃袋がせり上がる。

「いいかも」岬は声を弾ませた。「それでいこうよ」

 僕は短く、強く息を吐いた。しぼんでいた顔の細胞が一つずつ開いていくような気がした。

「よかった。黙ってるから、傷つけたかと思った」

「そんな事ないよ。感心してただけ。私の秘密も別の嘘でごまかさなくても済むんだって。さすが国語が得意なだけあって、お話が上手なんだ」

 僕と岬は緊張を解いてちいさく笑い合った。大雨が止んだ後、初めて差した日光を眺める気分だった。僕はもう一度スマートフォンを持ちかえて言った。

「楓は今声の届かない場所で、僕を待っててくれてる。今から大げさに楓に手を振るよ。岬は僕にOKした。でも僕は岬が楓を好きだと知っている。岬は秘密を抱える。それで僕らは仲良くやれる」

「クリスマスも出かけられる?」

「もちろん。三人でジングルベル歌おう」

「よかった、本当に」岬は言う。声の震え方が変わっている。「もう二度と話せなくなるかと思った。すごく楽しみにしていたのに」

「俺だってそうさ、毎日帰るときに、ジングルベルを歌って土手を走ってたんだ」

「えっ楓くんとふたりで?」

「いやひとりで」

「何やってんのよ、もう」岬がまた呆れて笑った。


 電話を切って、僕は楓に手を振った。楓は顔を上げて、すぐに自転車に乗ってこちらへ走ってきた。まだ声の届かない位置にいる楓に向けて大げさに喜びを表現していると、涙が唐突に溢れてきた。

 闇の向こうには山がそびえ、冷気を帯びた山おろしが土手に吹き続ける。僕はこれから友達に嘘をつく。楓は僕の涙に戸惑うだろう。いくらなんでも喜び過ぎじゃないかと。悟られてはいけない。これは失恋の涙なのだから。




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