何がしたいんだご主人さま
ご主人さま不在の部屋でご主人さまにせがまれたレースを編むセーラの耳に、いつになく慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。
編んでいたレースをテーブルに置いたものの、足音はすぐに部屋を通過してしまう勢いだ。遅ればせながら廊下を覗こうかソファに座ったまま決めあぐねている内に、扉が怒涛のごとく押し開けられる。
二度驚いたことに、騒音の犯人は優雅な立ち居振る舞いが骨身に沁みて、粗野なこととは無縁と思われたご主人さまだった。
「セーラっ、最近まことしやかに流れてる噂のことで話があるんだっ!!」
「わっ……」
正体に気づくなり出迎えのため立ち上がりかけたセーラだったが、慌てた様子で雪崩れ込んできたご主人さまに肩を両手でつかまれ押し戻されたソファに背を固定され、徒労に終わった。
間近に覗くご主人さまの瞳には、まるで『落ち着け、心臓麻痺なんて起こすなよ』という意思が見て取れる。
最近の噂といえば、苦戦を強いられている国境沿いに救援部隊を送り出すか、前線を一時後退させてより強靭な防衛線にて体勢を立て直すかの判断が重要な鍵を握る局面になったのどうのということだろうか。しかし、状況がはっきりしない内に伯爵家の人間に白羽の矢が立つことはないはずだ。
と、くれば――、
「ふふふ、子爵さまの結婚話ですね。おめでとうございます。長年の想いが実られたとか、子爵さまがあくどい手を使って相手の女性を囲っているとか、黒バラ姫が子爵さまの行いに報いて命をかけたことで伯爵さままで今ではお二人の結婚を応援しているとか。ちょっとちぐはぐしているのは噂話の常ですが、どれも突き詰めればロマンティックなものばかり――本当におめでとうございます」
「……えーと、それは怒ってるの? 怒ってないの?」
「? なんで私が怒るんです?」
「それは――『勝手なことをっ、冗談じゃないっ』て。恋人同士になる前に結婚話を聞く羽目になって」
「私が傷ついてないか、傷ついて乱心しないか心配だったってことですか? 確かに私の居た孤児院に並々ならぬ援助をして下さった子爵さまには憧れてました。でもいずれ伯爵位を継ぐ、雲の上の方に本気で恋なんてしません。それに私別の人が好きです、し、って……」
思わず想い人本人に向かって告白一歩手前まで言ってしまったところで、我に返った。
冷静になったが故に火照った頬の熱で顔が真っ赤になっているのがわかる。いたたまれなくなったセーラは目一杯首を捻ってそっぽを向いた。
そのせいで覆いかぶさる格好のご主人さまが、重力と輪郭に従い垂れ下がる銀髪の影で泣きそうな顔をして目尻を吊り上げているのには気づかない。
「せ、セーラの浮気者っ――、家族だからと別の男の世話を焼くのも好みを調べるのも大目に見てたのが間違いだった……しばらく前線に出て来る!」
「はィ?」
立ち上がりざまの勢いに任せ歩き出そうとしていたご主人さまの足がセーラの素っ頓狂な声によって止まった。いろんな意味で耳を疑ったセーラの上半身も、反射的にがばりと起きていた。
しかし彼女の頭は脈の絡みも筋の道もない言葉を無意味に反芻するまま、ぶすっとして不機嫌極まりない顔半分を見上げるだけ。
肩越しに拗ねたように口を尖らせるご主人さまはもう少し意味のあるセーラの反応を期待しているようだが、何からツッコんでよいのやら。呆けた顔のセーラには頭の中で自問自答を繰り返すのが精いっぱい。
「何か言うことは?」
「…………いつ頃お戻りですか?」
「気が済んだら――って、そうじゃなくて、戦場に向かう男に女が言う事と言えば!?」
急に声を荒げたご主人さまはくるりと踵を返し、背もたれとシートに置いた両腕でセーラを囲うとソファに片膝まで付いた。勢い余ったご主人さまとぶつかるのを避けるため、仰け反ったセーラはまたも押し倒される――直前のように、背と後ろ手についた肘がソファに対し二等辺三角形を作る――格好に。
「ご、ご武運を?」
「そうじゃないっ、普通なら正しいけど違う!」
必死なご主人さまは迫っているくせに後にも先にも逃げ場がなくなったというように、よく見れば上半身が前後に微かに震えている。
何故だろう、重石を背負った腕立て伏せ中に抜身の太刀を喉元に突きつけられ、崩れ落ちるか耐え続けるかという瀬戸際の攻防を見ているような錯覚が……。
「期待とは違うんだけどっ、……セーラにそう言われては仕方ない。王が援軍を出したくなるよう前線に行ってくる。僕らが帰って来るまでに、いかに僕がいい男か考え、セーラもよおぅく己を見つめ直すように」
額に人差し指をつきつけられての念押しまでもらってしまった。
「は、はぁ」
ぎこちなくとも頷いたことに満足したのか、ご主人さまはセーラの前髪を梳きながら立ち上がった。
そのまま何事もなかったかのように颯爽と去っていったため、呆気にとられたままのセーラが独り部屋にぽつんと残される。
雇い主が戦に駆り出されるかもしれないと不安になるセーラを心配していたのなら好き好んで参戦しないだろうし、黒バラ姫と子爵さまの結婚式が本当に間近に迫っていればなおのこと、王をせっついてまで危ない橋は渡らないだろう。
「結局、何を言いに来たわけ?」
セーラがその答えを得る間もなく、クランクフォード伯爵家の兄弟は仲良く連れ立って最前線へと加勢に行ってしまった。
その後の二人の活躍は探る気にならずとも、屋敷の中で働いていても街をぶらりと歩いていても、自然とセーラの耳に入って来る。
他の領地、否、王の膝元でさえ連日の話題になっていても不思議はないほどの内容。
聞けば劣勢時の援軍、しかも援軍本体が到着するまでの中継ぎ要員――と言われているが、ご主人様たちが勝手に前線に向かったのに王が乗っかった――とあって、随時クランクフォード子爵に続けという命が出ても貴族子息たちのほとんどがさまざまな理由であえなく出陣を辞退した。
そんな中で招集がかかるかかからないかの頃に率先して前線へ赴いた――と好意的に解釈される――クランクフォード伯爵家の息子たちの活躍はどちらも凄まじいと、二人の評判は鰻登りだ。特に長男である子爵は、この世の男全てを憎んでいるかのように嬉々として戦場を駆けまわり、親の敵とばかりに目についた者を血祭りに上げていて、味方でも弟以外はおいそれと近づけない鬼神の如き雰囲気だという。
「子爵さまにとっては弟を傷つけかねない者は全て剣の錆びコースでしょうからね。爵位はなくとも騎士の称号を持つ方にいつまでも過保護じゃないかしら」
ちょっと呆れてしまうセーラだが、それでも月光が人の形をしたようなたおやかなご主人さまが無事なのは何よりだ。
あまり心配せずに済むおかげと、決まった仕事がなくとも屋敷を追い出されずにいるせいで、セーラは今までにないほど平穏で手持無沙汰な毎日を送っていた。
本気で毛細血管くらいなら近い内に斬られそうだと感じていた視線から、思いがけずも解放されたセーラは遠目に見慣れた送り主を思い出す。
武人を体現する短い黒髪、がっしりとしつつも引き締まった体格と男らしい顔つきは、どこか中性的で線の細いご主人さまとは――異母兄弟だからでは収まらず――種族が違って見える。
二人を武器に例えるなら、鍛えられながらも武骨な刃をぎらりと剥く大太刀と、芸術的な一閃をもって煌めく研ぎ澄まされたレイピアだろうか。
どちらにしても、騎士の肩書きは飾りではないのだから戦場での手助けなど要らないように思う。けれど二人がさっさと無事に戻って来てくれれば、過保護過ぎるが故のいわれなき敵意を向けられる的に戻ってもいいのにとセーラは思うようになっていた。
「ずっと前に援軍本体が届いたってのにぜんっぜん帰って来ないなんて、気が済むまでっていつよ!?」
サクサクと踏みつけるのは白い庭。震える指を擦り合わせるセーラは白い息を吐いて活気の薄い空を見上げた。




