黒バラ姫にご執心の跡継ぎから熱烈な視線を注がれる少女
中天から注ぐ、ぽかぽかとした柔らかな陽が背に温かい。
川辺に蹲っているセーラの首筋を涼やかな風が撫でた。
平均的な成人男性より頭一個分余計に育ったご主人さまが、縦に寝ても横に寝てもはみ出さずに収まるサイズのベッド用寝具一式。それを一人で洗っていれば寒さが身に沁みるのは朝一番に水に触れる時くらい。洗濯を始めてしまえば、日々の家事労働によって培った――うら若き乙女にしてはたくましい――筋肉が熱を持つ四肢には、冷えた川の水もむしろ心地よく感じる。
それでももう秋の終わり。
筆頭パトロンの意向により、物心ついた頃から育った孤児院を追い出されて路頭に迷ったのが春だった。夏にかけての穏やかな気候のおかげで宿無しでも無事に済んだし、育ての親であるシスターがこっそり持たせてくれた路銀と腰まで伸びた自慢の黒髪を売ったお金で食いつなげた。
夏の最中、領主である上級貴族、クランクフォード伯爵家の下働きとして雇ってもらえたのは身に余る幸運で、スカートを穿いていなければ男の子と見間違われるくらい短くなっていたセーラの髪が、肩に届くほどに伸びたこの頃には、何とか新しい環境にも慣れてきた。
とりあえず、この冬は衣食住の心配はなさそうだ。
……次の春までに追い出されなければ、だけど。
そして追い出されそうな気はひしひしとするけれど。
ぱんっ――、
水気と共にマイナス思考を振り払おうと、両手で勢いよく広げたのは絞ったばかりの無地の枕カバー。ゴシゴシ擦っても問題ない素材だったのと、発見次第専用の汚れ落しにつけ置きしたのが幸いし、コーヒーを零したのでしょう茶色いシミもきれいさっぱり消えている。
なのにやっぱりセーラの気分は晴れない。
「は、あぁぁぁ……」
「これはまた、盛大な溜息だね」
心配そうでありながら、どこか笑いを噛み締めている声をかけられたセーラは、枕カバーを掲げたまま首だけで振り向いた。
視線の先ではさらさらの銀髪が陽に輝く。
優しげで細身な風貌のせいか、透けるような光を纏う青年にはどこかまだ幼さが残る。
「あ、ご主人さま」
「その呼び方止めてって言ったのに」
伯爵家に仕える者がご主人さまと呼ぶべきはご当主ただ一人。だけど彼個人に雇われているセーラにとっては違う。何を隠そうセーラを拾ってくれたのは彼で、人手に困っていなかった伯爵家でセーラが手持無沙汰にならないよう一日の仕事をくれるのも彼だ。この人をご主人さまと呼ぶ以外にあるだろうか。
「ご主人さまはご主人さまですから」
この言い合いも何度目だろう。にっこりと笑うセーラが頑として譲らなければ、顔に穴が開きそうなほどじーっと見つめ返してくる強情なご主人さまだって飽きもせずに毎回訂正を入れてくる。
結局はいつものように寂しそうにしつつもご主人さまが諦めてくれる形に。
「……それで、どうしたの?」
溜息について訊いているのだろうけれど、原因を愚痴ってもしょうがない。立ち上がったセーラは話を逸らそうと、生乾きの枕カバーをマイナスイオンでも出ていそうな色と造りの顔に突きつけた。
「ベッドで横になったままの飲食はお控えください、ってお伝えしたのはお忘れでしたか?」
「だってセーラが何度誘っても来てくれないから。今夜こそ来るかもって期待してたら眠気に反して夜食が無意識の内に進んでしまってね」
「それ、完璧に寝ぼけてるじゃないですか。ベッドに入るのはもう寝る時間ってことなんです」
「だから遊びにじゃなくて寝においでって言ってるじゃない」
「いやいや、おとなしく素直にお独りで寝て下さいって話ですよ」
「え? セーラが来てくれたら少なくとも茶色いシミは付かなくなるよって話でしょ。――まぁ、跡形もなく消えてしまったシミがさっきの溜息の原因じゃないよね?」
セーラの意図は見事に失敗した。話を逸らせなかった上に、またしてもいたいけな乙女心を女タラシな冗談で弄ばれた。
これはもう多少愚痴ったところで慰謝料がお釣りでもらえるでしょうと、役目を終えた枕カバーを脚元の洗濯籠に入れた彼女は開き直る。
「……今朝もあの方に悪鬼のごとき顔で睨まれまして。今もあちらの窓から一層鋭い眼で見つめて下さってます」
揃えたセーラの指先が差す方向、額に当てた手で日差しを作ったご主人さまが、それでも目を細めて屋敷の二階を睨む。
「すごいね、こんなに離れてて陰になってるのに誰の視線かわかるなんて、ちょっと妬けるよ」
「あれだけあからさまにロックオンされると、どれだけ遠くとも、例え常闇の中でも、爛々と敵意の燃える眼光が見えます。最初は下賤の身の私が伯爵家でお世話になるのが気にいらないのだろうと思いましたけど、いつまでたっても信用していただけなくて……。それはもう家宝を狙う泥棒猫を射殺さんとするかのような、日に日に強まるあの視線を感じると、つい」
「その解釈は当たらずとも遠からずだね。でもセーラは気になるんだっけ。ならもっと笑顔を振りまいて優しくしろって言っとくよ。みんな次男には甘いからたまには上からせっ――」
「いや、えと、あの、一介の雑用係に優しくしろって意味じゃなくてですね」
本気で上から目線の態度でおねだりに行きそうだと焦ったセーラはご主人さまが言い終えるのも待たずに訂正を加えた。
変わり者と名高いクランクフォード伯爵さまと、婚姻関係のない平民女性との間に生まれた次男はいわゆる妾の子となる。けれど長男である子爵さまの母親は出産直後に早逝しており、子爵さまの育ての親は実は競い合うように生まれた次男の母親でもある。伯爵さまが未だに彼女と結婚していないのも亡き奥方に取って代わるわけにはいかないという理由で次男の母親本人が突っぱねているかららしく、意外と家庭内の人間関係は良好とのことで喜ばしい。しかも次男は家族全員どころか屋敷中の人間に可愛がられすぎているという。
そんな次男を一番新米の下働き風情が手玉にとったとあれば、例え突き刺さる視線がなくなり表面的な待遇が穏やかになったとしても、セーラへの風当たりは間接的に数と威力を増すだろう。もしかしたらそれこそ「伯爵家の掌中の珠を唆すな」と問答無用で寒空の下へ追い出されかねない。
なんとかして最悪の状況を回避しなければ。
「仕方ないのでしょうが、あんなに立派な方に眼の敵にされるのが悲しいと言いますか。失礼をした覚えはないんですけど、これはもう生理的に受け付けてもらえないのかと。思い当たる節がないのに嫌われてしまうなんて……子爵さまに嫌われたら、いつここを追い出されてもおかしくないでしょう? ただそれが心配なんです」
「なんだそんなこと。子爵がセーラを嫌うなんてありえないよ。嫌っていないからこそ、否、好きだからこそ彼もあんな態度になるのさ」
「ははは、好きな子ほど苛めちゃうっていう複雑な男心ですか? 兄弟そろって初陣でたいそうな武勲を上げて、女性にモテモテで流す浮名の尽きなかった方々に限ってそんな馬鹿な」
「そ、それに関しては忘れてやってもらいたい……。なんにしても、クランクフォード伯爵家の者は誰もセーラを追い出したりはしないよ。なんてったって僕が君を大好きだからね」
「あ、りがと、ございます……」
それはそうでしょう。ご主人さまに疎まれない限り、ここでの衣食住は安泰ですから。
しかし勘違いしそうながらも本気にできない呪文を事もなげに、且つ腹の虫を鳴かせながら吐くのは私の精神衛生上の都合によりやめていただきたい。
別の意味でもう一度溜息を吐きたくなったセーラとは裏腹に、自身の欲求に従順なご主人さまは洗濯道具と洗いたての寝具一式が入った籠をひょいっと肩に担ぎ、
「さぁっ、さっさとこれ干してそのまま屋上でご飯にしよう」
と、もう片方の手で掴んだセーラの手を引き鼻歌混じりで歩き出す。
「ちょっ――、私の首の安全上、私の仕事を横どるのはやめてくださいってばぁー……」
「セーラがクビにならないよう少しでも早く仕事を終わらせてあげてるんじゃないか」
そんなこんなで、クランクフォード伯爵家では――ある一部を除き――和やかな空気と穏やかな時間が今日も流れている。




