プロローグ
ナナ・ポルックの1日は日の出とともに始まる。
彼女が孤児院で暮らしていた2年前までは考えられなかった部屋。ナナの上司が用意してくれた高価な調度品に囲まれてはいるが、いまだに恐れ多くて使用したことはない。精々このベッドくらいか。
化粧台の鏡で寝癖がピンピン跳ねている髪を整え、仕事着―――メイド服に袖を通す。孤児院の経営を助ける為、いろいろな仕事をしてきたが、今回の仕事ほど恵まれた仕事はない。何せ給料は桁違いに良く、住込みの部屋も豪華。
ただし、ここまで好待遇なのには裏がある。この仕事、雇い主の機嫌を損ねてしまえば最悪、首が飛ぶ。本当の意味で。
髪の毛を整え、メイド服にも皺がないことを確認。そして自分の顔を覗き込んでみる。
あいも変わらず平凡な顔。この大陸では珍しい黒髪と黒目が特徴と言えば特徴か。今年で17才になる少女の顔がそこにはあった。
「さて、今日もお仕事がんばりますか!」
グッと握った両の拳に気合を込め、1日の最初の仕事に取り掛かった。
「おお。おはようナナ」
「コック長、おはようございます!」
ナナが朝一番に訪れたのは、すでに戦場と化している厨房。クマのように体格の良いコック長と挨拶を交わし、ナナは自分の為に空けられた調理スペースに足を運ぶ。
「おはようナナ!今日の『閣下』の朝食はなんなの?」
「おはようアリサ!今日はね・・・『おにぎり』にしようと思って」
この職場に勤めてから仲良くなった厨房で働く同い年の少女、アリサ・リリアノに応えながら、白米を3画の形に握る。中に様々な具材を入れるのを忘れない。
「ああ、あんたの故郷の食べ物よね?『閣下』も結構お気に入りなんじゃなかったっけ?」
「うん。中からいろいろな具が出てくるのが面白いんだって」
ナナは手早い手つきで5つほどのおにぎりを握り終えると、食事を運ぶワゴンにそれと飲み物を入れたポットとカップを載せて歩き出す。ワゴンを押しながら歩く彼女に次々と常勤の騎士たちや文官、メイドたちが挨拶をしてくる。それらにいちいち応えながら、彼女は目指すべき場所に進む。
「あ・・・」
ナナが目指す最奥の間。その直前に現れた巨大な2つの肖像画。彼女はその2つに向かってぺこりとお辞儀をする。
「おはようございます。ガイア様、ティアヘイム様」
並んで飾られた2つの肖像画、そこには対極的な2人の人間が描かれていた。
向かって右側の肖像画は軍服姿の筋骨隆々な老人であった。こちらを見つめる眼光は鋭く、引き締まった口元からは今にも大喝が飛び出しそうな厳格な老人の姿があった。
向かって左側、こちらは軍服姿なのは同じだが、優しく微笑んでいるなよやかな青年の姿があった。貴公子然とした雰囲気を纏っており武骨な軍服とは無縁そうな人物ではあったが、なぜか妙に似合っていた。
老人の名はガイア・ベルティオン。
青年の名はティアヘイム・ベルティオン。
ナナが仕える雇い主の祖父と父であった。2人ともすでにこの世にいないが、彼らを知る人たちからちょっとだけ話を聞いた事はあった。
厳格な祖父のガイアと温和で慈愛の心溢れる父のティアヘイム。水と油のような性格の親子だが、親子仲はとても良かったという。
2人の肖像画に挨拶を済ませ、さらにナナは奥へと進む。
ナナが住み込みで働くこの建物はとてつもなく大きい。彼女が住むこのラス市で一番大きな建物である。この『北域将軍府』は。
「おはようございます。お勤めご苦労様です」
「おはようございます、ポルック殿。将軍閣下は未だにお休みであられます」
「もう・・・起床の時間はとっくに過ぎているのに」
両開きの戸の横で直立不動の重装備の騎士が、ナナの挨拶に応える。
大陸一の版図を誇るジュノサイド神聖帝国、その北側を守る唯一にして最大の要。強力な騎馬民族を率いるバッティーノ連合王国及び、連合王国に従う反帝国の中小国家、それらと戦う北域方面軍の最大兵力は20万騎。
「シュナ、入るよ?」
百戦錬磨の将兵は神聖帝国4方面軍の中でも最強の呼び声高いが、将軍府に従って有事の際は精強な兵を率いて従軍するはずの配下の軍事貴族たちは独立心が強く、度々その地位を奪わんと反乱を企てた。
「むー・・・誰だ、余の寝室に入って来るのはぁ・・・打ち首にするぞー」
「寝ぼけたこと言ってないで、早く起きなさい!」
北域将軍府最大の危機が起きたのははつい4年前の事。先代将軍ティアヘイム、そしてその父である先々代将軍ガイアが相次いで病死すると、その後継に収まった人物に不満を持った将軍家一族の者と不平軍事貴族が手を結んで反乱を起こした。その数は10万。神聖帝国本国は由々しき事態とみて、他の方面軍に反乱軍鎮圧のための出兵を命じた。
―――しかし、当代の将軍は援軍出兵を知らせる本国からの使者に毅然として告げたという。
―――えんぐんはふよう。りょうないのことはりょうないでかたずけますと、へいかにおつたえください。
舌足らずな口調で、しかし冷静な様子で使者を追い返した将軍率いる鎮定軍は、瞬く間に反乱軍を叩きのめし、わずか1年で帝国北域将軍領の平定を果たした。
「ほら、顔を洗ってらっしゃい。朝ご飯と服を用意しておくから」
「うん・・・」
その勲功を以て将軍職就任に懐疑的だった諸侯を納得させ、その後も北の大敵バッティーノ連合王国の侵攻を退け、逆に彼の国に与する国々を帝国の軍門に降らせてきた、当代の北域将軍は、あまりにも若い―――いや、幼い将軍であった。
ジュノサイド神聖帝国北域将軍府の長・北域将軍シュナ・ベルティオン神聖帝国軍大将。
これはひょんなことから御年12才の将軍閣下の養育係に任命された少女の、将軍閣下育成物語である。