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怪物妻

作者: てんこ
掲載日:2026/10/07

「お金だけじゃダメって気付いたの」

 一年ぶりに聞いた元妻の声は、驚くほど明るかった。

 俺はスマホを耳に当てたまま、しばらく何も言えなかった。

「……は?」

「だからね、私、やっと分かったの。お金があって、好きな人と一緒にいられれば幸せだと思ってた。でも、それだけじゃダメなんだなって」

 まるで久しぶりの友人に近況報告でもするような口調だった。

一年。

 こいつが俺以外の男と一緒に消えてから、もう一年になる。

 そして元妻は、何でもないことのように言った。

「だから、これから戻るね!」

 一年前の俺なら、この一言を待っていたのかもしれない。

 でも今は、思わず笑いそうになった。

「どーぞ、ご自由に」

「うん! じゃあ――」

「ただし」

 俺は部屋を見回した。

一人用のテーブル。安いソファ。小さな本棚。

 ここには、元妻のものは何一つない。

「帰る家なんて、もうないけどな」

 少し意地の悪い言い方だったかもしれない。

 でも、これくらいは許されるだろう。

 俺はてっきり、

「えっ?」

とか、

「どういうこと!?」

とか。

 そんな言葉が返ってくると思っていた。

ところが――

「知ってるよ?」

「……は?」

 今度は俺がそう言う番だった。


◆


一年前。

 元妻は、俺の知らない男を選んだ。

 発覚した時には、もう全部決めた後だった。

「ごめん。でも私、一度しかない人生を後悔したくないの」

 相手は俺より若く、金にも余裕があるらしかった。

旅行に連れていってくれる。

欲しいものも買ってくれる。

俺といる時にはできなかった経験をさせてくれる。

 俺は怒った。

当然だ。

 でも怒鳴った後に残ったのは、

「俺の何がダメだったんだ?」

という答えの出ない疑問だった。

 元妻が出ていった後も、家の中をなかなか変えられなかった。

洗面所には、あいつが使っていた小物。

クローゼットには何着かの服。

食器棚には二人分の茶碗。

 捨てようと思えば捨てられた。

 なのに、できなかった。

もしかしたら。

あいつは後悔するかもしれない。

戻ってくるかもしれない。

 そんなことを考えていた。

 ある日、友人が家に来た。

 食器棚を見て、そいつが言った。

「まだ二つあるんだな」

「何が?」

「茶碗」

 俺は何も答えなかった。

 友人もそれ以上は言わなかった。

 ただ帰り際、

「無理して捨てることもないけどさ」

少しだけ間を置いて、

「お前がここで待ってることを、あいつは知ってるのか?」

と言った。

 その言葉だけが残った。

 考えてみれば、元妻から「待っていてくれ」なんて一度も言われていない。

 それなのに俺だけが、勝手に時間を止めていた。

 だからといって、翌日から急に吹っ切れたわけじゃない。

 最初に片付けたのは、洗面所の小物だった。

 次に、使っていない契約を一つ解約した。

 それから、元妻の服を箱に詰めた。

 一つ片付けるたびに、

もし戻ってきたら。

 そう思った。

 それでも、一つずつ片付けた。

 ある夜、仕事から帰って、コンビニ弁当を食べていた。

 何となく食器棚を開けた。

 茶碗はまだ二つあった。

 片方を手に取る。

 捨てようと思った。

 でも、できなかった。

 結局その日は棚へ戻した。

数日後。

 もう一度、茶碗を手に取った。

 今度は箱へ入れた。

 捨てることはできなかったけど、食器棚からはなくなった。

 それだけだった。

 でも翌朝、一人分だけになった食器棚を見ても、前ほど苦しくなかった。

数か月後。

 俺は友人に言った。

「家、売ろうと思う」

 友人は少し驚いた。

「本当にいいのか?」

「ああ」

「もし奥さんが戻ってきたら?」

 俺はすぐには答えられなかった。

 それから、

「……だから売るんだ」

と言った。

 友人は、

「そっか」

とだけ答えた。

 家を売った。

 引っ越した。

 別に人生が劇的に変わったわけじゃない。

 仕事へ行って、帰りにスーパーへ寄る。

 飯を作るのが面倒なら惣菜を買う。

 休みの日には洗濯をして、気が向けば友人と飲みに行く。

 最初の頃は、新しい部屋に帰るたび妙な感じがした。

 玄関を開けても、元妻の靴はない。

 洗面所にも、あいつのものはない。

 当然なのに、そのたびに確認してしまった。

 それも、いつの間にかしなくなった。

 そんな生活だった。

ある日の仕事帰り。

 スーパーで夕飯を選びながら、

「明日は何食うかな」

と考えている自分に気づいた。

 少し笑った。

 以前の俺なら、

「あいつが戻ってきたらどうしよう」

と考えていた時間だった。


◆


そして一年後。

 元妻から電話が来た。

「家を売ったの、知ってたのか?」

「うん」

「誰から聞いた?」

「知り合いとか。それよりさ、会って話さない?」

 断ろうかと思った。でも、ここまで来ると逆に気になった。

こいつは何をしに戻ってくるつもりなんだ?

 数日後、駅前の喫茶店で会った。一年ぶりに見た元妻は、拍子抜けするほど変わっていなかった。

「久しぶり」

「……ああ」

 元妻は俺の向かいに座ると、コーヒーを注文した。

 気まずそうにする様子もない。

「元気そうでよかった」

「そっちもな」

「うん。私も元気」

 俺は一番聞きたかったことを聞いた。

「向こうでうまくいかなかったのか?」

「ううん?」

「金に困ったとか」

「全然」

「じゃあ、あの男とは別れたのか?」

 元妻は顔を上げた。

「別れてないよ?」

「…………」

 本気で言葉を失った。

「え? なんでそんな顔するの?」

「待て。お前、俺に戻るって言ったよな?」

「言ったよ」

「でも、あいつとは別れてない?」

「うん」

「意味が分からない」

 元妻は困ったように笑った。

「だから、それを説明したかったの」

 そして、コーヒーにミルクを入れながら話し始めた。

「私ね、あっちで暮らして分かったの。あなたって、いろんなことしてくれてたんだなって」

「……今さらか」

「そう。今さら」

 元妻は笑った。

「家のこととか、手続きとか、親戚のこととか。何かあった時も、私、まずあなたに相談してたでしょ?」

「まあな」

「この前もさ、保険の手続きで分からないことがあって。ああ、こういう時、前はあなたに聞いてたなって思ったの」

「それで俺に戻るのか?」

「戻るっていうか……」

 元妻は首をかしげた。

「また普通に連絡取ればいいと思うんだ」

「……普通に?」

「うん。たまに話したり、何かあったら相談したり。困った時は助け合ったり」

「お前は今の男と暮らすんだろ?」

「うん」

「俺はここで暮らす」

「それでいいじゃん」

「何がいいんだ?」

「別に一緒に住もうって言ってないよ?」

 俺は黙った。

「籍だって戻さなくていいし。あなたに彼女ができても別にいいし」

「ちょっと待て」

「毎週会おうって話でもないよ? たまに連絡取るくらいなら何も困らないでしょ?」

「じゃあ俺は何なんだ?」

「え?」

「元夫だぞ」

「知ってるよ」

「お前は俺と離婚して、別の男と暮らしてる」

「うん」

「その俺に、また困ったら相談したいって?」

「相談くらいよくない?」

 元妻は、本当に不思議そうだった。

「友達だって相談するでしょ?」

「俺たちは友達じゃない」

「じゃあ、友達みたいになればいいじゃん」

 一瞬、言葉に詰まった。

 俺が扉を閉めるたび、こいつは別の扉を作る。

「俺はお前の家族でもない」

「籍は戻さなくていいって言ったじゃん」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ何?」

「……俺にも分からなくなってきた」

 元妻が笑った。

「難しく考えすぎなんだよ」

 どうやら本気らしい。

 金をせびろうとしているわけでもない。今の男と別れて、俺に戻ろうとしているわけでもない。

 本人なりに、俺へ配慮しているつもりなのだ。

「家はもうないぞ」

「知ってるって。別々に住めばいいじゃん」

「俺には俺の生活がある」

「変えなくていいよ」

「お前はあいつと付き合ってる」

「それも今まで通り」

「俺に別の相手ができても?」

「いいって言ってるじゃん」

 元妻は笑った。

「ほら。何も問題ないでしょ?」

 俺は返事ができなかった。

家がない。

別々に住めばいい。

今の生活がある。

変えなくていい。

男と別れていない。

そのままでいい。

俺に別の相手ができるかもしれない。

それも構わない。

「じゃあ仮に」

 俺は言った。

「俺に彼女ができて、その人がお前と連絡を取るのは嫌だと言ったら?」

 元妻は少し考えた。

「その時に話し合えばいいんじゃない?」

「話し合って、嫌だって言われたら?」

「連絡の回数を減らすとか」

「それでも嫌だって言われたら?」

「じゃあ、その人が安心できる方法を考えればいいじゃん」

まただ。

「俺が、お前と連絡を取りたくないって言ったら?」

「……なんで?」

 そこで初めて、元妻の答えが止まった。

 俺はしばらく、その顔を見ていた。

「……なあ」

「何?」

「その話のどこに、俺がそうしたいかどうかって入ってるんだ?」

 元妻が瞬きをした。

「え?」

「俺が、お前とそういう関係になりたいかどうかだよ」

「だから、無理しなくていいって言ってるじゃん」

「違う」

「何が?」

「俺は嫌なんだよ」

 元妻の表情が止まった。

ほんの数秒。

そして、

「ああ、まだ怒ってるんだ」

「そうじゃない」

「じゃあ少し時間置こうか?」

「だから――」

「最初はたまに連絡するだけでもいいよ」

「俺が嫌だと言っても?」

「今は、でしょ?」

「違う」

「じゃあ、どうしたらいい?」

 その質問で、逆にはっきりした。

「何もしなくていい」

「え?」

「俺を説得しなくていい。条件も変えなくていい」

「でも、それじゃ――」

「お前は一年前、自分の人生を選んだだろ」

 元妻が黙った。

「あの時、俺は止めた。でも最後は、お前が選んだことだと思って離婚した」

「……うん」

「その後、俺にも一年あったんだよ」

二つの茶碗。

箱に詰めた服。

売却の書類。

友人の「本当にいいのか?」という声。

 全部、もう終わったことだ。

「お前は一年前に自分の人生を選んだ」

 一度息を吸った。

「俺も選んだんだ。お前がいない人生を」

 元妻は、しばらく俺を見ていた。

 怒るかと思った。

 泣くかもしれないとも思った。

 でも、返ってきたのは――

「……なんで?」

だった。

「私、あなたの生活を変えろなんて言ってないよ?」

「分かってる」

「一緒に住めとも言ってない」

「うん」

「じゃあ、何が嫌なの?」

「俺が嫌なんだよ」

「だから、何が?」

 そこで俺は諦めた。

「分からなくていいよ」

 俺は席を立った。


◆


数日後。

 元妻から電話が来た。出るつもりはなかった。だが何度も鳴るので、仕方なく応答した。

「何だよ」

『ちょっと、あの人まで怒り出したんだけど!』

「……何したんだよ」

『何もしてないよ。あなたと普通に付き合えるようにしたいって話しただけ』

「ちゃんと全部話したのか?」

 一瞬、間が空いた。

『……話したよ』

 元妻は不満そうに話し始めた。


――俺と会う前。

 元妻は男に、

「元夫とちゃんと話してくるね」

とだけ伝えていたらしい。

 男も、

「まあ、険悪なままよりはいいんじゃないか」

くらいに答えた。

ところが俺との話が終わった後。

「どうだった?」

と聞かれた元妻は、

「ダメだった。家族みたいに、何かあったら助け合える関係に戻ればみんな楽なのに」

と答えた。

 男の顔色が変わった。

「……待て。それ、どういう意味だ?」

「だから、困った時に助け合ったり、相談したり」

「俺と付き合ったまま?」

「そうだよ?」

「お前、元旦那とそういう関係になるつもりだったのか?」

「なるっていうか、前みたいに話せるようにするだけ」

「俺、そんな話聞いてないぞ」

「言ったじゃん。元夫とちゃんと話してくるって」

「そういう意味だと思うわけないだろ」

「でも、あなたの生活は何も変わらないよ?」

「変わるだろ」

「何が?」

「俺は、自分の彼女が元旦那と家族みたいな関係になるなんて聞いてない」

「だから家族になるわけじゃ――」

「言葉の問題じゃない」

 男はそこで、はっきり言った。

「俺はそんな関係、選んでない」

 元妻は黙った。

 そして少しして、

「でも、あなたには何も迷惑かけないよ?」

と答えた。

 男はしばらく元妻を見ていた。

「……マジで分からないのか?」

「だから説明してよ」

「俺が嫌なんだよ」

 俺は電話を耳に当てたまま、吹き出した。

「……だよな」

『何がおかしいの?』

「いや、別に」

 まさか、あの男と意見が一致する日が来るとは思わなかった。

 もちろん、だからといって好きになるわけじゃない。

 既婚者だった元妻と一緒に消えた男だ。

 でも、

『それで、どうなったんだ?』

と俺が聞くと、元妻はしばらく黙った。

『……距離を置きたいって』

「そっか」

『なんでそんな普通なの?』

「何が?」

『私、みんなが困らないように考えただけなのに』

 返す言葉はなかった。

『あなたも、あの人も、自分の生活は何も変わらないんだよ?』

「うん」

『だったら何が嫌なの?』

 一年前なら、分かるまで説明しようとしたかもしれない。

 でも今は、もう必要なかった。

「分からなくていいよ」

『またそれ?』

「ああ」

 俺は電話を切った。

 その後、二人が別れたと人づてに聞いた。

 それ以上は知らない。

 知ろうとも思わなかった。


◆


 その日の帰り、スーパーへ寄った。

 半額になっていた焼き魚と、明日の朝に食べるパンを買った。

 家に着く。

 鍵を開ける。

 電気をつける。

 昔の家よりずっと狭い。

 一人用のテーブルに買ってきたものを置き、冷蔵庫からビールを一本出した。

 スマホもテーブルに置く。

 明日は仕事だ。

 洗濯物も溜まっている。

 週末には友人と飲む約束もある。

特別な人生じゃない。

それでいい。

 俺はビールを一口飲んで、テレビをつけた。

今日も俺は、

ちゃんと自分の家に帰ってきた。

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