怪物妻
「お金だけじゃダメって気付いたの」
一年ぶりに聞いた元妻の声は、驚くほど明るかった。
俺はスマホを耳に当てたまま、しばらく何も言えなかった。
「……は?」
「だからね、私、やっと分かったの。お金があって、好きな人と一緒にいられれば幸せだと思ってた。でも、それだけじゃダメなんだなって」
まるで久しぶりの友人に近況報告でもするような口調だった。
一年。
こいつが俺以外の男と一緒に消えてから、もう一年になる。
そして元妻は、何でもないことのように言った。
「だから、これから戻るね!」
一年前の俺なら、この一言を待っていたのかもしれない。
でも今は、思わず笑いそうになった。
「どーぞ、ご自由に」
「うん! じゃあ――」
「ただし」
俺は部屋を見回した。
一人用のテーブル。安いソファ。小さな本棚。
ここには、元妻のものは何一つない。
「帰る家なんて、もうないけどな」
少し意地の悪い言い方だったかもしれない。
でも、これくらいは許されるだろう。
俺はてっきり、
「えっ?」
とか、
「どういうこと!?」
とか。
そんな言葉が返ってくると思っていた。
ところが――
「知ってるよ?」
「……は?」
今度は俺がそう言う番だった。
◆
一年前。
元妻は、俺の知らない男を選んだ。
発覚した時には、もう全部決めた後だった。
「ごめん。でも私、一度しかない人生を後悔したくないの」
相手は俺より若く、金にも余裕があるらしかった。
旅行に連れていってくれる。
欲しいものも買ってくれる。
俺といる時にはできなかった経験をさせてくれる。
俺は怒った。
当然だ。
でも怒鳴った後に残ったのは、
「俺の何がダメだったんだ?」
という答えの出ない疑問だった。
元妻が出ていった後も、家の中をなかなか変えられなかった。
洗面所には、あいつが使っていた小物。
クローゼットには何着かの服。
食器棚には二人分の茶碗。
捨てようと思えば捨てられた。
なのに、できなかった。
もしかしたら。
あいつは後悔するかもしれない。
戻ってくるかもしれない。
そんなことを考えていた。
ある日、友人が家に来た。
食器棚を見て、そいつが言った。
「まだ二つあるんだな」
「何が?」
「茶碗」
俺は何も答えなかった。
友人もそれ以上は言わなかった。
ただ帰り際、
「無理して捨てることもないけどさ」
少しだけ間を置いて、
「お前がここで待ってることを、あいつは知ってるのか?」
と言った。
その言葉だけが残った。
考えてみれば、元妻から「待っていてくれ」なんて一度も言われていない。
それなのに俺だけが、勝手に時間を止めていた。
だからといって、翌日から急に吹っ切れたわけじゃない。
最初に片付けたのは、洗面所の小物だった。
次に、使っていない契約を一つ解約した。
それから、元妻の服を箱に詰めた。
一つ片付けるたびに、
もし戻ってきたら。
そう思った。
それでも、一つずつ片付けた。
ある夜、仕事から帰って、コンビニ弁当を食べていた。
何となく食器棚を開けた。
茶碗はまだ二つあった。
片方を手に取る。
捨てようと思った。
でも、できなかった。
結局その日は棚へ戻した。
数日後。
もう一度、茶碗を手に取った。
今度は箱へ入れた。
捨てることはできなかったけど、食器棚からはなくなった。
それだけだった。
でも翌朝、一人分だけになった食器棚を見ても、前ほど苦しくなかった。
数か月後。
俺は友人に言った。
「家、売ろうと思う」
友人は少し驚いた。
「本当にいいのか?」
「ああ」
「もし奥さんが戻ってきたら?」
俺はすぐには答えられなかった。
それから、
「……だから売るんだ」
と言った。
友人は、
「そっか」
とだけ答えた。
家を売った。
引っ越した。
別に人生が劇的に変わったわけじゃない。
仕事へ行って、帰りにスーパーへ寄る。
飯を作るのが面倒なら惣菜を買う。
休みの日には洗濯をして、気が向けば友人と飲みに行く。
最初の頃は、新しい部屋に帰るたび妙な感じがした。
玄関を開けても、元妻の靴はない。
洗面所にも、あいつのものはない。
当然なのに、そのたびに確認してしまった。
それも、いつの間にかしなくなった。
そんな生活だった。
ある日の仕事帰り。
スーパーで夕飯を選びながら、
「明日は何食うかな」
と考えている自分に気づいた。
少し笑った。
以前の俺なら、
「あいつが戻ってきたらどうしよう」
と考えていた時間だった。
◆
そして一年後。
元妻から電話が来た。
「家を売ったの、知ってたのか?」
「うん」
「誰から聞いた?」
「知り合いとか。それよりさ、会って話さない?」
断ろうかと思った。でも、ここまで来ると逆に気になった。
こいつは何をしに戻ってくるつもりなんだ?
数日後、駅前の喫茶店で会った。一年ぶりに見た元妻は、拍子抜けするほど変わっていなかった。
「久しぶり」
「……ああ」
元妻は俺の向かいに座ると、コーヒーを注文した。
気まずそうにする様子もない。
「元気そうでよかった」
「そっちもな」
「うん。私も元気」
俺は一番聞きたかったことを聞いた。
「向こうでうまくいかなかったのか?」
「ううん?」
「金に困ったとか」
「全然」
「じゃあ、あの男とは別れたのか?」
元妻は顔を上げた。
「別れてないよ?」
「…………」
本気で言葉を失った。
「え? なんでそんな顔するの?」
「待て。お前、俺に戻るって言ったよな?」
「言ったよ」
「でも、あいつとは別れてない?」
「うん」
「意味が分からない」
元妻は困ったように笑った。
「だから、それを説明したかったの」
そして、コーヒーにミルクを入れながら話し始めた。
「私ね、あっちで暮らして分かったの。あなたって、いろんなことしてくれてたんだなって」
「……今さらか」
「そう。今さら」
元妻は笑った。
「家のこととか、手続きとか、親戚のこととか。何かあった時も、私、まずあなたに相談してたでしょ?」
「まあな」
「この前もさ、保険の手続きで分からないことがあって。ああ、こういう時、前はあなたに聞いてたなって思ったの」
「それで俺に戻るのか?」
「戻るっていうか……」
元妻は首をかしげた。
「また普通に連絡取ればいいと思うんだ」
「……普通に?」
「うん。たまに話したり、何かあったら相談したり。困った時は助け合ったり」
「お前は今の男と暮らすんだろ?」
「うん」
「俺はここで暮らす」
「それでいいじゃん」
「何がいいんだ?」
「別に一緒に住もうって言ってないよ?」
俺は黙った。
「籍だって戻さなくていいし。あなたに彼女ができても別にいいし」
「ちょっと待て」
「毎週会おうって話でもないよ? たまに連絡取るくらいなら何も困らないでしょ?」
「じゃあ俺は何なんだ?」
「え?」
「元夫だぞ」
「知ってるよ」
「お前は俺と離婚して、別の男と暮らしてる」
「うん」
「その俺に、また困ったら相談したいって?」
「相談くらいよくない?」
元妻は、本当に不思議そうだった。
「友達だって相談するでしょ?」
「俺たちは友達じゃない」
「じゃあ、友達みたいになればいいじゃん」
一瞬、言葉に詰まった。
俺が扉を閉めるたび、こいつは別の扉を作る。
「俺はお前の家族でもない」
「籍は戻さなくていいって言ったじゃん」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ何?」
「……俺にも分からなくなってきた」
元妻が笑った。
「難しく考えすぎなんだよ」
どうやら本気らしい。
金をせびろうとしているわけでもない。今の男と別れて、俺に戻ろうとしているわけでもない。
本人なりに、俺へ配慮しているつもりなのだ。
「家はもうないぞ」
「知ってるって。別々に住めばいいじゃん」
「俺には俺の生活がある」
「変えなくていいよ」
「お前はあいつと付き合ってる」
「それも今まで通り」
「俺に別の相手ができても?」
「いいって言ってるじゃん」
元妻は笑った。
「ほら。何も問題ないでしょ?」
俺は返事ができなかった。
家がない。
別々に住めばいい。
今の生活がある。
変えなくていい。
男と別れていない。
そのままでいい。
俺に別の相手ができるかもしれない。
それも構わない。
「じゃあ仮に」
俺は言った。
「俺に彼女ができて、その人がお前と連絡を取るのは嫌だと言ったら?」
元妻は少し考えた。
「その時に話し合えばいいんじゃない?」
「話し合って、嫌だって言われたら?」
「連絡の回数を減らすとか」
「それでも嫌だって言われたら?」
「じゃあ、その人が安心できる方法を考えればいいじゃん」
まただ。
「俺が、お前と連絡を取りたくないって言ったら?」
「……なんで?」
そこで初めて、元妻の答えが止まった。
俺はしばらく、その顔を見ていた。
「……なあ」
「何?」
「その話のどこに、俺がそうしたいかどうかって入ってるんだ?」
元妻が瞬きをした。
「え?」
「俺が、お前とそういう関係になりたいかどうかだよ」
「だから、無理しなくていいって言ってるじゃん」
「違う」
「何が?」
「俺は嫌なんだよ」
元妻の表情が止まった。
ほんの数秒。
そして、
「ああ、まだ怒ってるんだ」
「そうじゃない」
「じゃあ少し時間置こうか?」
「だから――」
「最初はたまに連絡するだけでもいいよ」
「俺が嫌だと言っても?」
「今は、でしょ?」
「違う」
「じゃあ、どうしたらいい?」
その質問で、逆にはっきりした。
「何もしなくていい」
「え?」
「俺を説得しなくていい。条件も変えなくていい」
「でも、それじゃ――」
「お前は一年前、自分の人生を選んだだろ」
元妻が黙った。
「あの時、俺は止めた。でも最後は、お前が選んだことだと思って離婚した」
「……うん」
「その後、俺にも一年あったんだよ」
二つの茶碗。
箱に詰めた服。
売却の書類。
友人の「本当にいいのか?」という声。
全部、もう終わったことだ。
「お前は一年前に自分の人生を選んだ」
一度息を吸った。
「俺も選んだんだ。お前がいない人生を」
元妻は、しばらく俺を見ていた。
怒るかと思った。
泣くかもしれないとも思った。
でも、返ってきたのは――
「……なんで?」
だった。
「私、あなたの生活を変えろなんて言ってないよ?」
「分かってる」
「一緒に住めとも言ってない」
「うん」
「じゃあ、何が嫌なの?」
「俺が嫌なんだよ」
「だから、何が?」
そこで俺は諦めた。
「分からなくていいよ」
俺は席を立った。
◆
数日後。
元妻から電話が来た。出るつもりはなかった。だが何度も鳴るので、仕方なく応答した。
「何だよ」
『ちょっと、あの人まで怒り出したんだけど!』
「……何したんだよ」
『何もしてないよ。あなたと普通に付き合えるようにしたいって話しただけ』
「ちゃんと全部話したのか?」
一瞬、間が空いた。
『……話したよ』
元妻は不満そうに話し始めた。
――俺と会う前。
元妻は男に、
「元夫とちゃんと話してくるね」
とだけ伝えていたらしい。
男も、
「まあ、険悪なままよりはいいんじゃないか」
くらいに答えた。
ところが俺との話が終わった後。
「どうだった?」
と聞かれた元妻は、
「ダメだった。家族みたいに、何かあったら助け合える関係に戻ればみんな楽なのに」
と答えた。
男の顔色が変わった。
「……待て。それ、どういう意味だ?」
「だから、困った時に助け合ったり、相談したり」
「俺と付き合ったまま?」
「そうだよ?」
「お前、元旦那とそういう関係になるつもりだったのか?」
「なるっていうか、前みたいに話せるようにするだけ」
「俺、そんな話聞いてないぞ」
「言ったじゃん。元夫とちゃんと話してくるって」
「そういう意味だと思うわけないだろ」
「でも、あなたの生活は何も変わらないよ?」
「変わるだろ」
「何が?」
「俺は、自分の彼女が元旦那と家族みたいな関係になるなんて聞いてない」
「だから家族になるわけじゃ――」
「言葉の問題じゃない」
男はそこで、はっきり言った。
「俺はそんな関係、選んでない」
元妻は黙った。
そして少しして、
「でも、あなたには何も迷惑かけないよ?」
と答えた。
男はしばらく元妻を見ていた。
「……マジで分からないのか?」
「だから説明してよ」
「俺が嫌なんだよ」
俺は電話を耳に当てたまま、吹き出した。
「……だよな」
『何がおかしいの?』
「いや、別に」
まさか、あの男と意見が一致する日が来るとは思わなかった。
もちろん、だからといって好きになるわけじゃない。
既婚者だった元妻と一緒に消えた男だ。
でも、
『それで、どうなったんだ?』
と俺が聞くと、元妻はしばらく黙った。
『……距離を置きたいって』
「そっか」
『なんでそんな普通なの?』
「何が?」
『私、みんなが困らないように考えただけなのに』
返す言葉はなかった。
『あなたも、あの人も、自分の生活は何も変わらないんだよ?』
「うん」
『だったら何が嫌なの?』
一年前なら、分かるまで説明しようとしたかもしれない。
でも今は、もう必要なかった。
「分からなくていいよ」
『またそれ?』
「ああ」
俺は電話を切った。
その後、二人が別れたと人づてに聞いた。
それ以上は知らない。
知ろうとも思わなかった。
◆
その日の帰り、スーパーへ寄った。
半額になっていた焼き魚と、明日の朝に食べるパンを買った。
家に着く。
鍵を開ける。
電気をつける。
昔の家よりずっと狭い。
一人用のテーブルに買ってきたものを置き、冷蔵庫からビールを一本出した。
スマホもテーブルに置く。
明日は仕事だ。
洗濯物も溜まっている。
週末には友人と飲む約束もある。
特別な人生じゃない。
それでいい。
俺はビールを一口飲んで、テレビをつけた。
今日も俺は、
ちゃんと自分の家に帰ってきた。




