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優等生くんはいじめられっ子の彼女と一緒に親に反撃しようとする

掲載日:2026/06/01




「北條ォ、お前なにチョーシのってんだよ」

 昼休みは、大方の生徒が学食へ行く。久留島(くるしま)(かける)は屋上で弁当を食べ、教室へ戻った……のだが、扉の前でかたまった。

 なかから、いやな感じの声が聴こえたからだ。掛は扉を少しだけ滑らせ、左目だけで教室内を覗く。

 女子三人が、ひとつの机を囲んでいた。クラスのなかでも目立つほう、というか、幅をきかせているグループのやつらだった。三人とも髪を染めていて、耳に穴を開けているし、派手な色のヘアゴムやピンをつかっている。ひとりは、腰にジャージの上をまいていた。

 クラスの女子のヒエラルキーは単純だ。おしゃれで目立つ、雑誌のモデルをしている女子がトップに君臨し、そのまわりを派手な女子達がとりまいている。家が裕福な女子も、その辺りに居た。それが上位。

 スポーツで全国まで行っていたり、成績がよかったりする女子が中くらい。特に、バレーで全国大会ベスト16まで行ったバレー部の女子数人は、相当に幅をきかせていた。

 それ以外は下の位である。目立たず、大人しくしていれば、上の連中の不興を買うことはない。

 ぱっとしない見た目で、スポーツをやっておらず、成績もよくはない生徒は、ヒエラルキー底辺だった。それに関しては女子も男子も関係ない。

 とにかくなにかしら、()()()部分がなければ、クラスでの人権はないに等しい。からかいやいじめの対象になるし、いやな役まわりをおしつけられる。


 女子達が囲んでいる机についているのは、その、ヒエラルキー底辺の女子だった。北條(ほうじょう)……北條、なんだったか。




 北條は項垂れ、声を出さない。

 華奢な肩が、まるまっている。首にはわずかに、汗疹のようなものができていた。色白で、つやのある肌なのに、手入れに気を配ってはいないらしい。

 重ったるい前髪で、額も目許もほとんど隠れていた。染めていない黒髪は、背中に届くくらいには長い。結んでおらず、背中側に流しただけだ。色気のないことに、耳にかけている。髪の量が多すぎて重たすぎる。おまけに、癖毛だ。少しくらいすけばいいのにと、掛はうっすら思った。

 金髪にした女子が、机に手を置いた。

「お前さア、スカート丈最近短くね?」

「立てよ」

 アイメイクが濃い女子が北條の肩辺りを掴み、強引に立たせる。勝ち誇ったみたいに金髪がいう。「ほら!」

「膝見えてんじゃんよ」

「ブスが、チョーシのんなっての」

 きついパーマをかけた髪をふたつにくくったのが、北條の肩を小突いた。「お前、あたしらのこと舐めてる?」

「……だから」

 北條が初めて、受け答えした。女子達は一斉に、それを睨む。「あ?」

「なに、口答え?」

 パーマが北條の胸ぐらを掴んだ。北條は少しだけ顔を上げたが、表情はない。目許は見えないし、口許は怯えも、恐怖も、嘲りも、怒りも、なにもない。

「……背、伸びただけ、だから」

 北條はそういって、パーマの女子の手を振り解いた。三人は気色ばんだが、北條が腰に手を遣ったので黙る。

 北條はスカートを、少し下げた。また、項垂れる。「……ひざ、かくれたよ」

「うっせえな!」

 金髪が、北條の机を叩いた。

「次、チョーシこいてたら、ただじゃすまさないよ」

「お前みたいなのが膝出してんじゃねえよブス」

「大人しくしとけっての」

「ブス!」

「臭えんだよお前」

 三人はいうだけいって、こちらへ向かってきた。掛は苦笑いで、扉を開ける。


 びくっとして、三人は掛を見詰めた。掛は澄まし顔で、教室へはいっていく。からの弁当箱がはいった袋を、机の横のフックへひっかけて、座った。教科書をとりだし、ひろげる。

 女子達はしばらく、扉の傍でぐずぐずしていたけれど、掛がなにもいわないからか、いらついたような顔で出て行った。

 足音が遠ざかると、掛は席を立つ。北條はまだ、ぼーっとつったっていた。重ったるい前髪越しに、どうやら掛を見ているらしい。先程よりは、顔の角度が上向いている。

 掛は北條へ近付いていって、自分より随分小柄な彼女を見下ろしながら、ポケットから出した飴をその机へ置いた。「どうぞ」

 北條はそれを見て、掛を見る。前髪越しに見える目は、意外にも綺麗な形をしていた。こういう目をしていたら、女子は普通、前髪を上げるんじゃないかと、掛はそう思う。口のまわりに、赤い発疹が幾らか。白くて綺麗な肌なのに、勿体ない。かさついた唇と、荒れて赤くなった鼻。ぼさぼさの黒髪。近付いてみるとよくわかるけれど、北條の手はかなり荒れていた。

 掛は微笑みで、小さくいう。

「飴。きらい?」

 北條はそれには答えず、席についた。がたがたした爪の手で飴を掴み、上着のポケットへいれる。「ありがとう」

 掛は頷いた。さっと、ドアを振り返り、また、北條を見る。

「ねえ、ああいうのは、先生にいいつけなよ」

 北條は頭を振った。

 それから意外につめたい声で、いう。「めんどいから、いい。……あいつら、あたしの人生に関係ないもん」






 北條は成績が悪い。古文だけは得意で、ほかの文系科目もまあまあだが、理系は壊滅状態だった。よく補習を受けている。家は裕福らしく、たまに高級車が迎えに来ることがある。

 ただ、髪はいつもぼさぼさだし、身成に気を遣っている様子がない。クラスのなかで一番「ぱっとしない」。メイクをせず髪も染めていない女子はほかにも居るが、髪型にこだわりがあったり、少なくとも、成る丈身綺麗にしようとしている。北條にはそういう気配がなかった。だからか、おしゃれな女子に捕まって、汚えんだよ、などと難癖をつけられる。男子の幾らかもそれにのって、北條を黴菌扱いしていた。

 体育は得意らしいが、何故か理系ばかりのパソコン部にはいっている。だから、スポーツに打ちこんでいる女子達からも標的にされていた。できるのにやらないのは罪である、という思想だ。入学当初、スカウトに来たソフトボール部の顧問をにべもなく追い返したのが、体育会系の生徒達の癇に障ったのも大きい。折角の誘いを断った癖に、と。ガリ勉でもないのに、と。


 掛は学年トップの成績に、体育もトップクラスでマラソン大会では三位、ついでに外見もいいので、クラスのヒエラルキーでは上位に居た。父親は演出家で、家の経済状況はかなりいい。祖父が白人で、少しだけバタ臭い顔立ちなのもあって、率直にいって()()()。ピアスを沢山つけているのも、クラスのなかでは点数が高い理由だった。

 掛は乗馬部の幽霊部員で、ジャズダンスとバレエという習い事に打ちこんでいる。有名なバレエのコンクールに出て入賞したことがあり、成績もいいのにスポーツでも実績があるということで、学校内では有名人だった。部活をやれという圧力はない。掛にとやかくいう者はないし、言葉にされない圧力もない、ということだ。

 だから、クラスの最底辺でじっとしているような北條とは、接点はなかった。あの昼休みまでは。






 女子達に絡まれ、それをつめたく評価した北條に、掛は興味を持った。といっても、ヒエラルキーが違いすぎる。おまけにこちらは男であちらは女だ。その為、教室内や学校で喋る機会はほとんどない。

 なにより、自分が近付くことで、北條の立場が悪くなるのを、掛はおそれた。

 掛は()()()。北條は女子からは蔑まれているし、いじめられている。男子の一部も加担していた。直接いじめに加担していない同級生からも、小馬鹿にされている。掛が北條に興味本位で近付いたら、北條に対するいじめが酷くなるかもしれない。それに、自分だって立場が悪くなるかもしれない。


 でも興味はあった。ただの変わり者、成績の悪い冴えない見た目の女子、いじめられているのに反抗もしない変な子、というイメージだったのに、あんなふうに、いじめっ子達を切って捨てたから。




「これは、君の口に合う?」

 図書室の、古典が並んでいるひとけのない場所で北條を見付けたから、そういって振り向かせた。北條は掛の手のなかにある、ミルクキャンディーを見て、目を逸らす。

 掛は微笑んで、北條の上着のポケットに、それをいれた。近付くと、北條の匂いがする。ハーブの香りだった。掛はよく料理をするから、知っている。これは、ローズマリーだ。

 北條は本棚へ、近付く。まるで、掛から逃げるみたいに。「……あたし、子どもじゃないんだけど」

「女の子は甘いもの、好きじゃないの?」

「じゃあ、男はみんなアル中だね」

 また、予想外にきつい言葉が返ってくる。掛はくすっとして、北條の隣に立つ。「それは、経験から来る言葉?」

「……六十六だよ」

 北條は漢詩の本を、大切そうに抱えていた。北條がめずらしく、古文で追試をくらっているのを思い出して、掛は首を傾げる。北條の顔を覗きこむようにした。「六十六?」

「……いつの時代も、男は酒が好きでしょ」

 北條は後退る。本棚に、背中がぶつかる。掛はもう一歩、彼女へ近付く。

 相変わらず、前髪が重ったるい。前髪を上げるか、分けるかして、ピンで留めれば、だいぶ印象がかるだろう。分厚い前髪越しでも、北條の目が綺麗なアーモンドがたをしているのはわかる。少し上斜視気味だけれど、決して不美人ではない。眉毛も、いい形だ。

 本を抱きしめるようにした北條の手は、白くなっている。掛はにこっと笑った。

「ねえ、勉強、教えてあげよっか。俺、成績いいよ」

 北條は掛を仰ぐ。前髪が邪魔だ。とても。

 北條は唇を歪めるみたいにして、いった。

「……可哀相な女の子に優しくするの、楽しい?」

「可哀相には見えないけれど」

 掛はそう返す。実際のところ、北條に対してそんな気持ちは持っていない。興味がある。おそらく、クラスのなかでは上位にくいこめるくらいの顔をしているらしい北條が、何故身成に気を配らないのか。いじめられても反抗しないのに、あんなふうにつめたく女子達を切って捨てたのは何故か。

 北條はうっすら、口許に笑みをうかべた。ぞっとするくらい、綺麗な口許だと、掛はその時思い至った。クラスのなかでは、じゃない。多分、北條は、かなり美人だ。

「久留島って変な奴だね」

 今までで一番、はっきりした発声だった。舌足らずだった。女の子っぽい、甘い声だった。

 掛は唾を飲む。

「北條さんもそうだよ」

 北條は本棚に本を置いて、もう少しだけ顔を上げた。色白の、荒れてしまっている手が、掛の肩へ触れる。

 北條は爪先立って、掛の唇へ、掠めるように口付けた。

 ローズマリーの匂い。

 とん、と、北條の踵が床へ触れる。北條は手をおろし、本を再び抱えた。掛は黙ってそれを見ている。混乱して。

「飴のお礼」

 北條はそういって、すたすたと歩いていった。

 掛はしばらくじっとしていた。心臓が、どきどきしていた。











 北條は口付けてきたけれど、掛に話しかけてくることもなければ、そもそも眼差しをくれることさえ稀だった。どちらかというと、掛を避けている。掛を、ないものとして扱っている。

 北條は授業中、あの重ったるい前髪をすかして黒板や先生を見て、かりかりとノートをとっている。真面目にとりくんでいるみたいなのに、成績は振るわない。ただ、字はとても綺麗だった。

 休み時間にはひとりでじっとしているか、トイレへ行く。女子達や男子達の残酷なからかいの対象になっていることもある。はやしたてられたり、北條が触ったものを汚いといって手洗い場へ持っていったり。北條が水浸しで廊下を歩いていて、保健室で体操着をかりて戻ってくるなんてこともあった。

 昼休みには持ってきたパンを食べるらしい。ロールパンか、マヨネーズとコーンのパンか、ホットドッグがほとんどだった。放課後はパソコン部へ行くことなく、帰る。

 この学校には、生徒全員がなんらかの部に所属する決まりがあるのだが、所属していれば活動していなくてもいい。掛はそれで、安く上がる乗馬部を選んだ。おそらく北條も、パソコン部にしたのはそれでだろう。あちらは文系の部活のなかで、一番部費が安い。どちらの部も幽霊部員ばかりなので、部長からなにかいわれるということもない。

 現状、掛と北條に、接点はなかった。同じ学校の同じクラスに所属している、という以外では。


 北條に話しかけたかったが、できなかった。以前は、確実にふたりきりだとわかったら、話しかけることがあった。いつも、掛は飴を彼女へ渡して、彼女は小さく礼をいい、なにかしら皮肉なようなことをいって、掛から逃げる。そういうやりとりを、何度かしていた。

 でも今は、それもできない。北條とふたりきりになって、冷静でいられる自信がない。

 口付けられたのが、ショックだった。そういう目的で近付いたと誤解された、と思ったし、でも北條にそうされて、掛はたしかにときめいた。どきどきしたのだ。

 それもいやだった。端から、北條に対してそういう感情があって、その為に近付いたみたいではないか。そんなのじゃない。ただ、北條が、ただの弱々しい女子だと思っていた北條が、そうではない顔を見せたのが、なんだか気になっただけなのに。


 でも、とも、思う。やっぱり自分は、()()()()目的で、北條と接触しようとしたのではないか、と。

 実際のところ掛は、北條を見て、案外綺麗だなとか、そんなことを考えていた。

 北條の目。あれを見てから、興味がわいた。あれを、もっと間近で、もっとしっかり見たかった。

 それは、つまり、恋愛的な興味、ということでは。




 自分の気持ちがよくわからず、掛は悶々としていた。北條に喋りかけるのをためらっていた。ふたりきりになっても、掛は黙ってしまっていたし、北條はそもそも掛など眼中にないらしく、こちらを見もしない。

 日曜日の、バレエレッスンの帰りだった。汗でびちゃびちゃになったレッスン着やなにかを詰めた鞄を肩にかけて、掛は駅へと向かっていた。戻ったら、冷凍のビザをチンして食べよう。それになにか、スープでもつくって。

 ぼんやり考えていたら、なにかが目にはいった。

 そちらに意識をやって、北條だと気付いた。北條が居る。サラリーマンふうの男が一緒だった。

 掛は眉を寄せ、そちらへ行く。


「北條さん」

 北條が肩越しに、こちらを見た。サラリーマンふうの男も、掛を見た。

 北條は、前髪をわけていた。目も眉も、あらわになっている。綺麗なアーモンド型の目に、くっきりと、意志の強そうな眉。

 口許の発疹は、もうなくなっている。掛は北條のその、前髪越しではない強い眼差しに、気圧された。だから、彼女の口許を見た。

 北條は体ごと、掛へ向く。掛はおずおずと、彼女の顔を見る。やはり、綺麗な顔立ちだった。ただ、表情がなく、覇気もない。元気には見えない。

 掛は笑みをうかべて、いった。

「こんにちは。学校以外で会うの、初めてだね」

「……こんにちは」

 北條は上着のポケットに手をつっこむ。くたびれたウィンドブレーカに、毛玉の目立つ濃い赤のワンビース、靴下とスニーカ、という格好だった。

 サラリーマンふうの男が顔を背け、すたすたと歩いていく。掛は笑みのまま、北條の口許を見る。

 でも、手が震えていた。その震える手で、北條の手首を掴んだ。

「北條さん。……ねえ、今の、家族じゃないでしょ」

「うん」

 北條はあっさり認め、ちらっと、男が去って行ったほうを見た。つめたいような目が、掛へ向けられる。

「ナプキン代、逃げられた。……久留島、かわりに買ってくれる? あんた、お坊ちゃんでしょ。一回、五千円でいいよ」






 手首を掴んで、ひっぱって、駅のなかにあるレストランへつれていった。ボックス席で向かい合って座って、掛は頭痛をこらえている。前髪をおろした北條は、お冷やのグラスを両手で持ち上げ、少しずつ飲む。

 北條は焼き魚定食を頼んだ。掛はハンバーグと骨付きソーセージのプレートの、停職にした。北條は、掛も注文したのを見て、意外そうにいった。「家で、待ってるんじゃないの。お母さん」

「いい」

 それ以上なにもいわない掛に、北條もなにもいわない。

 食糧はすぐに運ばれてきて、ふたりとも無言で、半分くらい食べた。北條はたくあんが好きみたいで、それをおいしそうに噛みしめていた。


「なんで、あんなことしてるの」

「お金がないから」

「どうして」

 声が尖った。北條の家は裕福な筈だ。月に二回くらい、北條の親が高級車で迎えに来る。北條とは違い、身綺麗にして、高級ブランドの腕時計をきらきらさせた母親が、娘を後部座席へ詰め込む。

 北條は前髪越しに、掛を見ている。「ナプキン、買ってくれないから。お父さんも、お母さんも」

「……は」

「お小遣い、月に一万円なの。それで、ご飯も、ノートとかも買わないといけないから、足りなくなる。今、タオルつかってて」

「どうしてそんなことになってるの」

「しらない」

 北條は味噌汁をすすり、お椀を置いた。ふうっと息を吐く。「交通費と学費は出してあげてるから、ありがたく思いなさいって」

「じゃあ、普通にバイトしろよ」

 北條は肩をすくめる。「みっともないから駄目っていわれた」

「はあ?」

「バイトとか、しちゃいけないんだって」

 北條はからになったお茶碗を見て、最後に残していたたくあんを口へいれると、かりかりと噛んだ。

「ご飯、ありがと。……ねえ、どこでする?」

 掛は一万円札をテーブルへ置いて、レストランを出た。




「ただいま」

 まっくらなへや。

 灯をつける。

 掛は奥の、寝室へ向かって、するべきことをした。それから、洗面所で手をよく洗って、針を持ってきた。絎針だ。

 鏡を見ながら、耳朶へ突き刺す。痛みはあったけれど、さほどではない。左によっつ、右にふたつだったけれど、右にみっつになった、ピアス穴。

 大丈夫だ、と思う。多分。











「久留島」

 びくりと、掛は声のほうを見る。

 北條だ。図書室の、あの、ひとけのない古典が置かれた区画である。掛は史記列伝の、後ろのほうの巻を読もうとしていた。

 北條は近付いてくると、掛の腕に触れた。「昨日、ごちそうさま」

「……ああ」

「これ、おつり」

 ヴィニル袋にはいった、六千円と少し。

 はたき落とすと、かすかに、ちゃりちゃりと音がする。北條はヴィニル袋を拾い上げる。「久留島?」

 掛は史記列伝を、本棚へ戻す。北條を睨んでいる。

「つかって」

「……え?」

「ナプキン代」

 北條はぎゅっと、口をひき結ぶ。

「いいよ」

「気持ちだから」

「要らない」

「じゃあ」

 掛はしゃっくりを飲みこむ。「……放課後、デートしてよ」

 北條は少し考えて、頷き、ヴィニル袋を折りたたんで、ポケットへ戻した。

「図書館で待ち合わせね」北條は平然としていた。「制服だとまずいし。あんた、みんなに見られたくないでしょ」


 酷い気分で午後の授業をうけ、掛は鞄を手に、校舎を出る。家へ戻って、荷物を置いて、片付けをして、洗濯乾燥機の中身を出した。それから服をかえた。必要なものだけ持って、家を出た。

 走って図書館へ行くと、北條はもう居た。あのウィンドブレーカで、花柄のださいワンピースで、白い靴下と、エナメルの靴だ。髪は一応、ブラッシングしたらしいけれど、前髪はおろしている。

 掛は北條の手首を掴んで、ひっぱっていく。北條は綺麗な、澄んだ声を出す。「ねえ、ゴム持ってきた?」

「その話はしたくない」

「は。やるんじゃないの」

「デートしてっていった」

 北條は足を停めようとしたけれど、掛はひっぱり続けた。北條はたたらを踏んでついてくる。「久留島?」

 その声に初めて、戸惑いみたいなものがあった。初めて、北條が感情を見せた。それが嬉しくて、掛は笑った。




 クレープを買った。

 おしゃれしたひと達が沢山、うろうろしている。カラフルなお菓子を売っているお店がいっぱいある。

 掛は甘いのを、北條はツナマヨのクレープをかじっている。いきかうひと達を眺めている。

「久留島、ほんとに変な奴だね」

「……どこが」

「どうして、あたしとデートしたいの」

「好きだからだよ」

 口に出すと、すっきりした。多分、本当に、そうだ。

 自分の気持ちなんて、はっきりしない。なにが好きで、なにがきらいかなんて、わからない。どうしたいかもわからないのに。


 黙り込んだ北條へ、目を向ける。

 北條は微笑んでいた。「優しいね、久留島」

「優しくない」

 顔を背ける。

 沢山のひとが居るのに、誰もふたりを見ていない。誰ひとり、ふたりを気にしていない。




 北條はあの六千円と少しで、ナプキンを買った。ドラッグストアで、幾つかの包みを買っていた。それと、一番安いローズマリーの香りのシャンプーの、詰め替えのパックも。余ったお金は、お昼のパン代にするといっていた。「うち、朝ご飯だけなんだよね」

 北條はまた、なんでもないみたいにいった。

「夜はでないの。お父さんもお母さんも、下の子達も、外で食べるんだ。あたしはつれてってもらえないから」

「うちに食べに来なよ」

 北條は掛を見て、微笑んで、掛の頬を撫でた。

 優しく。











 掛は事務員さんと知り合いだった。学校以外で知り合ったのだ。相談したら、事務室をお昼休みの二十分だけかしてくれることになった。掛はそこで、弁当を食べることにした。

 隣には、北條も居る。北條の分、おにぎりを持ってきた。いりたまごと、鶏の唐揚げがはいったものだ。

「ありがとう。こっち、晩ご飯にできる」

 持ってきたロールパンを示して、北條はそういう。掛は頭を振る。「うちに来なって」

 北條は答えない。掛もそれ以上いわない。




 火曜日と、水曜日。掛はその曜日、なんのレッスンもない。だから、放課後は北條を誘って、図書館で勉強をして、それからなにかを食べに行った。家には来てくれなかった。

 北條は服も、ろくなものを持っていないらしい。幾つかのワンピースを、着回していた。靴も、エナメルのと、スニーカと、学校指定の靴だけ。髪も自分で切っている。

 たまに迎えに来る母親は、ブランドもののスーツを着ていて、高級な腕時計をしている。あれはなにかと訊いたら、お食事会、といっていた。

「おじいちゃん達とね。ご飯いっぱい食べられるんだ」

 北條の家庭は歪な状態になっているらしいが、掛はそれ以上なにも訊けなかった。


「ほんとにやんなくていいの」

 何度目かの「デート」のあと、駅まで歩いていると、北條はそういった。

 掛は駅舎を見詰めている。遠くでも、はっきりわかる、巨大な構造物を。

「北條を買うのって、幾らかかるの」

「だから、一回五千円」

「……幾ら出したら、結婚してくれる?」

 北條の手が、優しく、掛の手を握った。

「ねえ、駄目だよ。優しいこと、いわないで」

 ふたりは黙って、歩いていく。






「北條ォ、これなーんだ」

 ヒエラルキートップの女子が、にやにやしている。このところ、昼休みに姿を消してしまう北條をいじめられなくて、いらいらしていたらしい。二時間目が終わると、北條の机まで近付いていって、ケータイをつきつける。

 北條は重ったるい前髪越しに、それを見ている。ヒエラルキー上位の女子達が集まって、くすくす笑っている。

「これ、誰だよ」

「お前、彼氏居たの?」

 男子の数人も、そちらへ行った。掛は立ち上がり、そちらを見る。近場の席の、いじめには加担していないが停めようともしていない数人が、不審げに掛を仰いだ。

 「女王さま」の顔が、意地悪に歪んだ。

「それともお前さあ、パパ活してんの?」

 意地の悪い笑い声が、うずをまく。北條は項垂れているけれど、前髪越しに女子達を見ていた。

 掛は手にしたままだったノートを置いて、ゆっくり、そちらへ歩いていく。「お前みたいなブスでもさあ、売れるんだね」

「ブスだし、汚いのに」

 北條の机を二重三重にとりまいている、一番外側の男子を、掛は蹴った。


 ひとり、ふたり、蹴って、吃驚したみたいに振り返っている女子はおしのけた。あの、憎たらしいのと、あの日北條のスカート丈に難癖をつけていた三人は、つきとばした。

 北條の手首を掴んで、立たせる。「久留島」北條がかすかに、迷惑そうにいった。掛はそれを見詰める。

「浮気したの?」

 空気がかたまった。




 北條は項垂れて、答えない。掛は微笑んでいる。「ねえ、浮気したの?」

「久留島、やめて」

 北條はかすかな声でいう。掛はその、細い手首を、ひっぱる。荒れた手を見る。ナプキンがなくて、タオルをつかっている、といっていた。洗うのに、手が荒れるんだと。自分の服の洗濯もしないとだし、洗濯機つかわせてもらえないし、と。

「俺が居るのに、ほかの男とデートしたの?」

「ねえ……」

「答えて」

「くるしま?」

 あの、「女王さま」が、大口を開けていた。

「あんた、なにいってんの?」

 掛はそれには答えない。北條の手首をひっぱり、彼女が机にぶつかるのもおかまいなしで、自分へ近寄せる。微笑みのままそうする。

「久留島、ちょっと、なに」

「ゆるさないよ。そんなことしたら、ゆるさない」

 掛はちょっと、笑う。場違いな笑い声に、周囲が息をのむ。

「殺すよ?」

 がたがたっと、机にぶつかりながら、数人、逃げていった。

 北條は前髪越しに掛を見て、呆れたみたいに息を吐く。それから、渋々、という感じに、いった。

「浮気じゃない。……ほんとに、違うから。久留島、落ち着いて」

 掛は頭を振り、北條の手をひいて、教室を出る。




 電車にのった。家の最寄り駅で降りた。家へ向かった。北條は黙って、ついてきてくれた。高級住宅街の、なかでも一等地にある、二階建ての瀟洒な、メルヒェンチックな久留島家に、北條はちらりと目をくれただけで、感想はもらさない。

「ただいま」

 おかえり、と、かすかに、奥から、声がする。

 靴をぬぎちらして上がった。髪をひっつめた女性が、洗面所から顔を出す。「掛さん、お帰りなさい」

「ああ、いつもありがとうございます」

 掛は如才なく微笑んでお辞儀し、靴をぬいだ北條をつれて、奥へ向かった。


 奥の寝室には、母が居る。立派な介護用ベッドに、横になっている。「おかえり。はやかったね」

「さぼった」

 掛がそういうと、母はくすくす笑った。北條はじっと、母を見ている。

 掛は北條を示す。「彼女」

「ああ。……前、話してた子?」

「うん」

「そっか。……北條さん。うちのこのこと、宜しくね」




「今日は、いつもより随分、痛くないみたいです」

「ありがとうございます」

「いえ。それじゃあ、これで」

 通いの看護師さんは、そういって帰って行った。北條はなにもいわない。掛は北條をつれて、洗面所に行く。手を洗った。北條にも、そうさせた。うがいをした。北條にも、そうさせる。

「事故だったんだ」

「……え?」

「車にはねられた。でも、命に別状のあるような怪我じゃなかったし、はねたひともすぐに通報したから、それはよかったんだけど、手術に失敗して」

 北條が弾かれたように、掛を見る。

 掛はそれを見詰める。

 北條の首の、あの、汗疹みたいなのは、もう治っていた。それに気付いた。


「難しい手術じゃなかったんだって。でも、たまたま、救急の患者さんが多くて、お医者さんがミスをしてしまって、母さん、歩けなくなったんだ。賠償金は払ってもらったけど、それでもとに戻る訳じゃない。たまに、病院にもつれてく。その時、事務員さんとも知り合って」

 北條はしばらく黙っていたけれど、ゆっくり近付いてきて、掛を抱きしめた。掛は涙をこらえて、それへいう。「可哀相な男の子に優しくするの、楽しい?」

 北條は顔色ひとつかえないで、答える。

「いい気分だよ。だから、あんたの為じゃないし、あんたの気持ちもわかんない。あたしが勝手にしてるだけだから、ありがたがらないでいいし、借りだなんて思わなくていい。あんたにはなんにも、あたしに対して、負い目はない」

 いつにない言葉数と、強い調子に、掛は泣き崩れる。






 フライパンにソーセージをひと袋分いれて、お水を少しかけ、蓋をする。炊飯器では、ご飯を炊いている。レトロな琺瑯引きのお鍋では、人参とじゃがいもとキャベツが、顆粒コンソメを溶かしたお湯のなかで煮えていた。

 北條は掃除機をかけて、ワックスシートでフローリングを掃除してくれた。「久留島、これ捨てるよ」

「うん」

「あんたんち、お金持ちなんでしょ。お手伝いさん雇いなよ」

 掛は頭を振る。「父さんがいやがる」

「どうして」

「……母さんのこと、噂になるかもって」

 掛はおたまで、スープをかきまぜた。塩をいれ、ローリエをいれて、蓋をする。「体が不自由になった妻を、隠したいんだよ。看護師さんやお医者さんは、口が裂けても患者のことを他人にいわないでしょ。お手伝いさんは信用できないんだって」

 業界ではそれなりに名の知れた演出家である父は、それをおそれていた。家族の病気や、障碍を、隠したがっている。母はなんの落ち度もなく事故に遭い、手術に失敗された、被害者なのに、それすらいやなようで隠している。

 いや、目を背けたいのかもしれない。ないことにしたいのかもしれない。だって、父はもう二年も、仕事を口実にまともに家へ戻らない。たまに帰ってきたと思ったら、汚れた服を置き、清潔な服を持って出ていく。それだけだった。

 自分だってそうだ。だから、習い事に打ちこんでいる。家からはなれる時間をつくりたくて。痛そうな母の顔を、見たくなくて。


「ばかじゃないの」

 北條は平然という。「じゃあ、あんたが話してやんなよ。いろんなひとに。それか、あたしが噂、流してあげるよ。ばれちゃったらあんたのお父さん、お手伝いさんでも雇うでしょ。どうして、あんたが料理つくってんの。ばからしい」

「……北條」

「あんたも、どうして隠してたの? あたしにはぺらぺら喋らせといて」

「それは、君が勝手に喋ったんだろ」

「そうだけど、変だよあんた」

 北條は掃除道具をもとの場所へ戻すと、いらだったような歩みで洗面所へ向かった。手を洗っているらしい。戻ってきて、いう。「あんた、自分がこんなに大変なのに、どうしてあたしにかまうの」

「いったでしょ? 好きだからだよ」

「は……」

 北條は唇を噛み、椅子をひいて、座った。「ばか。ばかばっかり」






 ソーセージには酢醤油と粒マスタードを添えた。ポトフはうまくいった。ご飯は炊飯器のおかげでおいしく炊けた。

 デザートに、いちじくのコンポートを持っていくと、北條は項垂れたままいった。「いいよ。あたし、甘いの得意じゃないから」

「じゃあ、俺、ふたり分食べる」

「そうしな」

 コンポートには、アイスもつけた。甘くておいしい。

 北條はお水を飲んでいる。

「あれ、ほんとに、ちがうから」

「ん?」

「さっきの写真」

 顔を向ける。

 北條はむっとしているらしい。

「ほんとに、道訊かれて答えただけ。……あんたがご飯、おごってくれるようになってからは、やってない。ナプキンと、ご飯の為だったから」

「……疑ってないよ」

 掛は頭を振る。

 北條は息を吐いて、ならいいけど、といった。安心したみたいに。




 掛の部屋は、教室くらいの大きさがある。北條は呆れたような声でいった。「こんなお城みたいな家、お手伝いさん居なくてどうやって掃除すんの。あんたのお父さん、オカしいんじゃないの」

「まあね」

「わかってんならいいなよ」

 いらだった声だ。北條に睨まれ、掛はそれを、微笑みで見詰め返す。

「じゃあ、北條も、いいなよ。月に一万円で、ご飯とナプキンまかなうなんて、無理だって」

 北條が口をぱくつかせた。

 掛は北條を抱き寄せた。口付けても、北條は逃げない。











「あたし、自分のこと変だと思ってなかった」

 翌朝、キッチンに立つ掛に、北條はテーブルやなにかを拭きながら、そういう。掛は味噌汁をよそっている。

「中学の時に、金もってこいって先輩達にいわれて、無理ですっていったら、じゃあ稼いでこいっていわれたんだ。だから、ナプキン買うのに丁度いいって思ってた。お金、ないし」

「おかしいのは北條の親だよ」

 端的に返して、お膳を運んでいった。北條は味噌汁と、たっぷりあるたくあんに、目をかがやかせる。

 向かいに座って、食事をはじめた。母にはもう、運んである。味噌汁と、ご飯と、骨をぬいてある鯖の塩焼きと、たくあんに、サラダ。

 何度か、母の様子を見に、席を立った。北條はその間に食べ終えていた。まだ少し残ったご飯を片付けている掛に、彼女はいう。

「ねえ、久留島」

「うん」

「あたし、あんたのおとうさん、ぶっとばしてあげようか」

 なんだか、らしくない言葉だった。

 顔を上げる。

 初めて、北條がにっこりしたのを見た。











 一緒に学校へ行った。同級生達は、おそれるみたいに掛を見た。北條をからかう人間も居なかった。北條は前髪を分けて、掛の母が見繕ったピンで留めていた。やっぱり綺麗だなあと、掛は暢気にそんなことを思った。


 北條はその日、家からバックパックひとつ分だけの荷物を持って、掛の家へ来て、泊まった。その次の日も。その次の日も。その次の日も。

 一週間目のことだ。校門前にあの高級車が来ていて、掛は北條と手をつないで、その前を素通りした。北條の母が北條を車にのせようとしたが、掛が阻止した。ふたりは走って、逃げた。




 掛の行動は問題視され、すぐに、親が学校へ呼ばれた。父は母を余程隠したいか、まともに帰ってこないくせに、そういう時だけはやってくる。

 北條の親も来ていた。ブランドものの服を着た母親と、対照的に地味な父親。北條はどちらかというと、父親似だ。

 掛は北條と手をつないで、親達を見ていた。担任と、教頭が、深刻そうな顔をしている。

「お宅の息子さんが、うちの娘を誘拐したんです」北條の母は口角泡を飛ばしている。「なんてことですか」

「掛、説明しなさい」

 父は辟易したようで、そういう。掛は肩をすくめる。

「付き合ってるだけだよ」

「まあ! あなた達、まだ高校生でしょう。付き合うなんて」

 掛は北條の母を見て、眉を寄せた。「娘が高校生だってことはわかってるんですね?」

「はあ?」

「彼女、ナプキンを買ってもらえないっていっていたので。娘がまだ小さな子どもだと思ってるのかと」

 北條の両親が口を開けたが、声は出ない。

「それかもしかしたら、凄くお金がないのかと思ってたんですよ。下の子達と違って、ご飯は朝しかもらえないっていうから。でも、大丈夫みたいですね」

 北條の母の服装を示し、笑う。北條の母は血の気を失っている。掛は北條を見る。「ごめん、父さん全然家に居着かないから、君のことを話してなかった」

「いいよ」

 北條は平然と頷く。「かわりに、久留島のお母さんとはなかよくなってるから。この間は、お風呂にいれるの手伝ったし。車椅子のお散歩も、一緒に行く約束してるし」

 北條はあの綺麗な目で、掛の父を見た。低声(こごえ)で掛へいう。「高校生の息子に、歩けなくなった奥さんの世話、全部させてるって、ほんとに久留島のお父さんなの? 久留島と違って、優しくないけど」

 ふたりの親はそれぞれ、椅子から立ったり、なにか弁明しようとしたみたいだったが、顔をまっかにした担任がまず、いった。

「どういうことか、説明してください、久留島さんも、北條さんご夫妻も」











 児童相談所からひとが来て、話を聴かれた。

 ふたりは解放されて、家へ戻った。掛の父はお手伝いさんを雇うと決め、北條の両親は警察へつれていかれた。




 北條の両親を見て、父親似だと思ったのは、変ではなかった。北條はあのブランドもの女とは血のつながりがない。実母は逃げてしまったという。北條の父はアルコール依存症だそうだ。

 北條はあれから、掛の家に住んでいた。北條の母方の祖父母がひきとると申し出たそうだが、北條が断った。


「久留島、あんたばかじゃないの」

 また、あの調子で北條がいっている。掛はそれに、くすくす笑う。北條はぎこちなく包丁を握り、食事をつくろうとしていたのだが、掛が横から手を出して、材料のトマトをとったのだ。

「それないと、つくれないんだけど」

「だって、トマト食べたかったから」

「あんたねえ……」

 北條は包丁を置き、頭を振って、野菜室からトマトをとりだして洗う。カプレーゼをつくるつもりらしい。

 北條のピンで留めた前髪を、掛は見ている。

 もうそろそろ、バレエのコンクールの為に、掛はスイスへ行く。もしかしたら、どこかのバレエ団からお声がかかるかもしれない。

 北條は掛との勉強がよかったか、成績が上向き、大学進学を決めていた。建築学科を目指すという。

 しばらく、はなれることになるかもしれない。でも、あまり心配していなかった。ふたりはもう、結婚しているから。


 掛はトマトを切り始めた北條……旧姓・北條、の顔を覗きこんで、いう。「ねえ、そろそろ名前で呼んでよ」

「あんたがあたしを名前で呼んだらね」

 ぴしゃりと返され、掛は笑う。

「なに、笑ってんの。あんた、賢いくせに、変だよ」

「うん。……じゃあ、いうね」

「は?」

「大好きだよ、(しき)

 呆れたみたいに妻は唸って、ありがとうね掛、といった。




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