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夜の端の巨人

夜の端の巨人

第一章:夜の淵の巨人

俺は、自分の体が嫌いだ。

鏡を見るたびに、そこに映る186センチ、90キロの肉体に辟易する。

満員電車に乗れば周囲を圧迫し、オフィスで立っていれば後輩から「威圧感がある」と距離を置かれる。

「剛はデカいんだから、我慢しろ」

「剛は強いんだから、泣くんじゃない」

幼い頃から呪文のように聞かされてきたその言葉は、俺の心に一枚、また一枚と硬い「鱗うろこ」を張り付けていった。いつしか俺は、感情を殺し、ただ誰かの盾として生きることに慣れてしまっていた。

そんな俺の平穏を、土足で踏み荒らす男がいる。

「剛つよしー!まだ残業してんのかよ。もう切り上げろって!」

隣のデスクで、佐藤が能天気な声を上げた。同期の佐藤は、俺のこの巨躯を「最高の盾」だと勘違いして、公私ともに俺を振り回す唯一の男だ。

断る間もなく腕を引かれ、辿り着いたのは新宿の片隅。湿った階段を下りた先、重い扉の向こうにおかまバー『夜天よてん』はあった。

扉を開けた瞬間、むせ返るような化粧の香りと煙草の煙が鼻をついた。

「いらっしゃい。……あら、佐藤ちゃん。また随分と規格外なのを連れてきたわね」

カウンターの奥、紫色の煙を吐き出しながらこちらを睨んだのは、艶やかな着物を纏った人物――セリママこと、芹沢さんだ。

「だろ? こいつ、一ノ瀬剛。俺の同期で、心まで筋肉でできてる堅物なんだわ」

佐藤が紹介すると、セリママは鋭い目で俺を舐めるように見た。

「ふーん。あんた、随分と立派な額縁からだを背負ってるわね。中身が空っぽなのが透けて見えるわよ」

図星を突かれた気がして、俺は黙って丸椅子に腰を下ろした。膝がカウンターに当たり、肩をすくめなければ隣の佐藤にぶつかってしまう。俺は逃げ場のない檻に入れられた猛獣のような気分で、出された水割りを一気に煽った。

その時だ。

「ママ、お待たせー!ねえ、さっきの客、マジでクソ死ねばいいのに!」

背後の扉が跳ねるように開き、口の悪い、けれど抜けるように明るい声が飛び込んできた。

俺のすぐ隣、わずかに空いていた席に、何かがひらりと舞い降りた。

金髪、耳元のいくつものピアス。俺が一生関わることのない人種の輝きを放っていた。

「あはは、ママ!何その顔。……えっ、てか隣、デカすぎだろ!化け物かよ!」

青年が、遠慮なく俺の二の腕を指先でつついた。

「佐藤ちゃん、この岩石男、だれ? 腕の太さ、俺の太腿くらいあんじゃん。キモッ!」

「こいつは剛。一ノ瀬剛。……剛、こっちはあきら。口は最悪だけど、これでも現役の大学生でここでバイトしてんだ」

佐藤が笑いながら紹介した。あきらは俺の顔をまじまじと覗き込み、一瞬だけ、その瞳に「絶望」に近い影を宿した。

「……剛さん、ね。へぇ、格好いい名前。名前負けしてんじゃねーの?」

あきらは花が綻ぶような笑みを浮かべた。

「俺、あきら。日向陽ひなた あきらです。剛さん、よろしく。……何その顔。死ぬほど暗いんだけど」

その時、俺のポケットでスマホが激しく震えた。

佐藤が慌てて画面を覗き込む。

「あ、やべ……嫁だ。剛、ごめん!子供が熱出したって。俺、今すぐ帰らなきゃ!」

「おい、佐藤――」

「悪い、ここに万札置いとくから!あとはあきらくんと楽しめよ、じゃあな!」

佐藤はカウンターに一万円札を叩きつけるように置くと、嵐のように去っていった。

残されたのは、居心地の悪さに沈黙する巨人と、隣で楽しげに脚を組む小さな大学生。

「あーあ。佐藤ちゃん、逃げるの早すぎ。剛さん、置いてけぼりっすね」

あきらは、酒の匂いに混じって、どこか甘い香水のような香りをさせて笑った。

「そんなに縮こまらなくてもいいだろ。ここ、あんたの葬式会場じゃないんだからさ。もっと酒飲めよ、岩石さん」

「あきらちゃん。あんた、あんまりこの人をいじめてやるんじゃないわよ」

カウンターの奥で、セリママが釘を刺した。

「この人、あんたみたいな小綺麗な嘘つきが一番苦手なタイプなんだから。……見てなさいよ、今にも逃げ出しそうなんだから」

セリママの言葉通り、俺は今すぐにでもこの窮屈な場所から立ち去りたかった。

けれど、あきらは「ちぇー、ママのケチ」とわざとらしく吐き捨てると、今度は少しだけ声を低くして、俺の袖口を軽く引いた。

「逃げないでくださいよ、剛さん。俺、ただの大学生。怪しい奴じゃないから。……ねえ、もう一杯だけ、俺のクソみたいな話に付き合ってくれません?」




「……クソみたいな話、か」

俺はあきらに引かれた袖口に視線を落とし、それからカウンターに置かれた佐藤の万札に目を向けた。このまま逃げるように帰ることもできる。だが、この万札を握って店を出る自分の姿を想像すると、情けなさが勝った。

「……一杯だけだ。」

俺がそう言って座り直すと、あきらは「っしゃ!」と子供のように小さくガッツポーズをした。その仕草には、さっきまでの棘のある毒舌とは違う、等身大の二十二歳の幼さが滲んでいた。

「ママ! 剛さんに一番強いやつ出して。このデカい図体、アルコールで溶かして小さくしちゃおうよ」

「あんたねぇ、勝手に決めないの。……一ノ瀬さん、無理しなくていいわよ。この子、調子に乗せると際限ないんだから」

セリママが呆れたように溜息をつき、新しいグラスを差し出した。琥珀色の液体の中で、丸く削られた氷がカランと涼やかな音を立てる。

俺は窮屈なカウンターで、膝を突き合わせるようにして座るあきらを見た。近くで見ると、彼の肌は驚くほど白く、耳元に並んだピアスが店のネオンを反射してチカチカと光っている。

「で、剛さんは何してんの? そのデカい体で、毎日シコシコ事務作業? それとも、どっかのビルでも支えてんの?」

「……普通の、サラリーマンだ。」

「サラリーマン! ギャップありすぎだろ。もっとこう……用心棒とか、クマ撃ちの猟師とかの方が似合ってるのに。毎日スーツ着てペコペコしてんの? ウケる」

あきらはケラケラと笑いながら、自分のカクテルをストローで掻き回した。

口は悪い。本当に、救いようがないほどに。

だが、不思議と不快ではなかった。

会社でも、プライベートでも、俺の体躯を見た奴らは皆、腫れ物に触れるような敬語を使うか、畏怖の眼差しを向けてくる。

「キモい」だの「化け物」だの、遠慮なく土足で踏み込んでくるこのガキの無礼さが、今の俺には妙に風通しがよく感じられた。

「あきら、お前こそ……大学生なら、もっと普通の居酒屋にでも行けばいいだろ。なんでこんな所にいるんだ」

俺がそう問いかけると、あきらの笑い声がふっと止まった。

彼はグラスの縁を指でなぞり、それからセリママの方をチラリと見た。

「……居酒屋、うるさいじゃん。ここならさ、ママがうるさい奴は追い出してくれるし」

あきらは、さっきまでの威勢の良さが嘘のように、小さな声で続けた。

「それに……ここ、暗いから。……ちょうどいいんだよね。俺みたいな、中身が透けてるやつには」

その瞬間、あきらが俺に向けた視線には、出会い頭の攻撃的な鋭さはなかった。

ただ、広い海に放り出された迷子のような、心細い色。

俺の胸の奥で、何かが疼いた。

それは、これまで誰にも見せまいと必死に守ってきた俺の「鱗」の内側にある、柔らかい部分だった。

「剛さんさ……」

あきらが、カウンターに肘をついて、俺の顔をじっと見つめてくる。

「あんた、そのデカい体の中に、何隠してんの? ……俺には、あんたが世界で一番寂しい人に見えるんだけど」

その言葉に、俺は息が止まりそうになった。

セリママがグラスを拭く手が、一瞬だけ止まったのを俺は見逃さなかった。



「あきらちゃん、あんた酔いすぎよ。そのへんにしときなさい」

セリママが、ピシャリとたしなめるように言った。手に持っていた空のグラスを、回収するようにカウンターの奥へ引っこめる。

「えー、ママのケチ。俺、まだ全然いける。ねえ……おじさん、俺、酔ってるように見える?」

隣でひらひらと手を動かしていた青年が、俺の肩にずしりと頭を預けてきた。

俺の肩幅は、彼のような細身の男なら二人分はあるだろう。その広すぎる「荷台」に勝手に乗り込んできた異物の重みに、俺は心臓を跳ねさせた。

「……っ、おい、……君」

名前を呼ぶことすら、今の俺にはできなかった。

さっき聞いた「あきら」という響きが喉のあたりまで出かかるが、それを口にするのは、なんだか不可侵の領域に踏み込むような、あるいは自分の鱗を無理やり剥がされるような恐ろしさがあった。

「……顔が、赤い。飲みすぎだ」

絞り出した声は、自分でも情けないほど硬い。

あきらと呼ばれた青年は、俺のぶ厚い腕にしがみついたまま、ぐりぐりと頭を押し付けてきた。

「それはおじさんの顔が近すぎるから。……てか、何これ、熱っ。あんた、体温高すぎ。暖房かよ。……」

毒づきながらも、彼は俺の二の腕の肉を、その細い指先でぎゅっと掴んで離さない。

セリママがため息をつきながら、俺に同情的な視線を向けた。

「ごめんなさいね、一ノ瀬さん。この子、寂しくなるとすぐこうやって誰かに噛みついたり、ベタベタ甘えたりするのよ。……あきらちゃん、その人はあんたの動かないおもちゃじゃないのよ。いい加減にしなさい」

「おもちゃじゃないよ……。岩。この人、デカくて硬い、岩。……でも、あったかいんだね。ここ、すごく落ち着く」

青年の声が、さっきまでの尖った調子から、微睡まどろむような低いトーンに変わった。

俺の腕を掴む指先に、かすかに力が入る。

「……あ、あの」

「何、おじさん……」

呼びかけようとして、俺はまた言葉を飲み込んだ。

大丈夫か、と聞くべきか。家はどこだと聞くべきか。

だが、そんなありふれた問いかけさえ、今の俺にはこの身体と同じくらい重すぎて、外に出すことができない。

「一ノ瀬さん、悪いけど、この子もう限界みたい。……あきらちゃん、もう今日は終わり。地下鉄があるうちに帰りなさい」

セリママの言葉に、彼は「……やだ。帰りたくない。家、寒いもん」と、消え入りそうな声で呟いた。

その瞬間、俺の胸の奥が、鋭い針で刺されたように痛んだ。

巨躯を持っていても、この小さな青年のたった一言の「寒さ」を凌がせてやる術を、俺はまだ、何一つ持っていなかった。



「……一ノ瀬さん、悪いんだけど」

セリママが、使い古されたダスターでカウンターを拭きながら、俺を真っ直ぐに見た。

「この子、見ての通りよ。家もこの近所なんだけど、この足じゃ千鳥足どころか這って帰ることになるわ。……あんた、力には自信あるんでしょ? 表まででいいから、連れてってあげてくれない?」

「え……俺が、ですか」

思わず聞き返してしまった。俺のような無愛想で、図体ばかりデカい男が、この壊れ物のような青年を抱える。それは、繊細なガラス細工を重機で運ぶような危うさを感じさせた。

「ママ、おじさんに迷惑……。俺、一人で帰れるし」

あきらと呼ばれた青年は、俺の腕にしがみついたまま、ろれつの回らない声で強がってみせる。だが、立ち上がろうとしたその膝は笑っていて、案の定、体は大きく横に流れた。

「――おっと」

反射的に、体が動いた。

俺はあきらの脇の下に大きな手を差し入れ、その華奢な体を支え上げた。

手に伝わる感触は、驚くほど軽い。スーツの上からでもわかるあきらの体温は、冷え切った俺の鱗をじわじわと溶かしていくようだった。

「……っ。剛さん、やっぱりデカい。視点が高すぎて、酔いそう」

あきらは、俺の胸板に顔を埋めるようにして小さく笑った。その拍子に、彼の耳元のピアスが俺のネクタイに引っかかる。

「ほら、さっさと行きなさい。一ノ瀬さん、お代は佐藤ちゃんからたっぷり頂いてるから、気にしなくていいわよ。……あきらちゃん、明日起きたらちゃんと謝るのよ」

セリママはそう言って、出口の方を指差した。

俺は仕方なく、あきらの細い腰に腕を回して、彼を抱えるようにして立ち上がった。

地下から地上へ続く、狭い階段。

俺が彼を抱えて上るには、あまりに窮屈な道だ。肩を壁にぶつけないよう、俺は細心の注意を払いながら一歩ずつ階段を上っていった。

「……剛さん」

階段の途中で、あきらが不意に俺の名前を呼んだ。

さっきまでは「おじさん」とか「岩石」とか呼んでいたくせに、二人きりになった途端の、不意打ちのような名前。

「……なんだ」

「あんたの背中、広すぎ。……なんか、海みたい」

何を言っているんだ。

俺は、自分の吐息が熱くなるのを感じながら、ようやく地上の冷たい空気の中に躍り出た。

新宿の夜風が、俺たちの間をすり抜けていく。

ネオンに照らされたあきらの横顔は、店の中にいた時よりもずっと白く、そして、泣き出しそうなほど寂しげに見えた。

「……家は、どっちだ」

俺の問いに、あきらは力なく指を差した。




 あきらは俺の問いかけに、ぼんやりと駅とは逆の方向を指し示した。

新宿の街は、深夜を過ぎてもなお、眠ることを拒むようにギラついている。

俺はあきらの細い肩を抱きかかえるようにして、光が届かない裏路地へと足を踏み入れた。

「……歩けるか」

「……無理。剛さんの足、一歩が長すぎんだよ。……化け物」

毒づく声には、もうさっきまでの勢いはない。あきらは俺のワイシャツの胸元をぎゅっと掴んだまま、自分の足元もおぼつかない様子で千鳥足を踏んでいる。

そのたびに、彼の柔らかい髪が俺の顎のあたりを掠めた。香水の香りと甘いカクテルの匂いが混じり合って、俺の鼻腔をくすぐる。

「……っ」

俺は、自分の鼓動がうるさくなっていることに気づき、必死でそれを抑え込もうとした。

186センチの肉体。誰を守るためでもなく、ただ邪魔なだけだと思っていたこのデカい塊が、今はあきらの崩れそうな体を受け止める、ただ一つの器になっている。

ふと、あきらが立ち止まった。

古いアパートの前だった。壁の塗装は剥げ落ち、街灯の光も届かないような、ひっそりと静まり返った場所。

「……ここ?」

「……うん。二階。階段、きついんだよね」

あきらはそう言うと、手すりに掴まって一段目を上ろうとした。だが、膝に力が入らないのか、体が大きくよろめく。

「……おい」

俺は反射的に、あきらの腰と膝の裏に腕を差し入れた。

いわゆる、お姫様抱っこのような形になった。

「――っ! な、何すんだよ、剛さん!」

あきらが目を丸くして、俺の肩をポカポカと叩いた。だが、その拳には力が入っていない。

「……危ないだろ。……静かにしろ。近所迷惑だ」

俺はあきらの抗議を無視して、そのまま階段を一気に上った。

腕の中にある彼は、驚くほど細かった。俺の腕一本分ほどの厚みしかないのではないかと思うほどに。

「岩」だの「化け物」だのと俺を罵っていたその口が、今は驚きで小さく開いている。

「……あんた、本当に……デカくて、力持ちなんだな」

あきらが、ポツリと呟いた。その声には、もう毒は混じっていない。

二階の踊り場に着き、俺はあきらをそっと地面に降ろした。

あきらはドアに背中を預け、鍵を取り出すためにポケットをまさぐっている。

「……あきらさん」

気づけば、その名前が自然に口からこぼれていた。

あきらは鍵を握ったまま、顔を上げた。街灯の逆光で顔はよく見えない。けれど、彼が揺れていることだけはわかった。

「……なんだよ、剛さん。初めて名前、呼んだじゃん」

「……鍵、開けられるか」

「……うん。……ねえ、剛さん。……あんたの背中、さ。やっぱり海みたいだ」

あきらはドアを開け、その暗い隙間に吸い込まれるように入り込んだ。

そして、閉まりかけるドアの向こうから、一瞬だけ俺を振り返った。

「……あったかかったよ。岩石おじさん」

パタン、と乾いた音を立ててドアが閉まった。

後に残されたのは、冷たい冬の夜風と、俺の腕に残った、あきらの微かな体温だけだった。

俺は、自分の大きな掌をじっと見つめた。

誰かに「あったかい」と言われたのは、いつ以来だろう。

分厚い鱗に覆われていた俺の胸の奥が、そこだけ熱を持ったように、ジンと痺れていた。

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