第一章:灰と星の少女 第8話 黒衣の契約 ― 監察官エリオンの提案
戦場で流れる血は、鉄と同じ匂いがする。
だが、帝都で流れる血は――もっと冷たい。
夜明け前、砦の医務室。
アリアは目を開けた。
胸の奥で、微かに脈が跳ねる。
痛みは鈍く、体は鉛のように重い。
天井には木の梁。
外から鳥の声がかすかに聞こえる。
「……生きてる……」
呟いた声がかすれた。
傍らでミラが泣き笑いのように顔を上げた。
「目を覚まされたんですね……!」
「ごめんなさい。心配をかけました」
ミラは首を横に振る。
「謝らないでください。生きていてくださった。それだけで……」
そのとき、扉が静かに開いた。
黒衣の裾が音もなく滑る。
エリオン・ヴァス。監察官。
「目覚めたか。……随分な戦いぶりだったな、灰冠の娘」
ミラが立ち上がり、前に出ようとしたが、アリアが手で制した。
「ミラ、いいわ。下がって」
エリオンの目が笑う。
「君の血、素晴らしい。
半端な魔導師では到底触れぬ領域だ。……血誓魔法、あれは帝国の禁術の最上位だ」
「知っていて、黙っていたんですね」
「黙っていたのではない。確かめていたのだ。君がどこまで自覚しているかを」
アリアは睨み返す。
その瞳には疲労ではなく、警戒と怒りがあった。
「あなたの目的は何? 監察官が辺境で私を観察する理由は」
「目的、か――」
エリオンは壁際に歩み寄り、窓の外を見た。
夜明けの空が淡い橙に染まっていく。
「帝国は今、二つに割れている。
“血統による支配”を守る派閥と、“力による統治”を掲げる派閥。
私は後者に属している。……だが上層部は腐っている。
“古き血”を根絶やしにすることで、新たな秩序を作ろうとしている」
アリアの眉がわずかに動いた。
「つまり、あなたは……帝国に仕えながら、帝国を疑っている」
「正確には、“帝国という檻”を破ろうとしている」
エリオンが振り返る。
その瞳は夜の闇よりも深く冷たい。
「君の血は、その鍵になる。
ヴァルステッド家の“灰冠の系譜”――
かつて血誓魔法の頂点に立ち、帝国の始祖と契約した家系だ。
その血が完全に目覚めれば、“王をも殺す魔法”となる」
アリアは息を呑む。
脈が早くなる。
手のひらが、また熱を帯びた。
(……王を、殺す?)
「冗談じゃない。そんなもの、望んでいません」
「だが、君の血は望んでいる。
戦で見ただろう? 君が命令を出した瞬間、風が動いた。
あれは意志ではない、“血の本能”だ」
エリオンは一歩近づき、声を落とす。
「君が力を恐れ、抑えれば、いずれそれに呑まれる。
だが――使いこなせば、君は世界を変えられる」
「……世界を?」
「君のような者が王になる時代を、私は見たい」
アリアの胸の奥で何かが軋んだ。
その言葉は危険な甘さを持っていた。
彼女が生涯背負ってきた「奪われた名」を、呼び覚ますように。
(王……? いや、私は――)
ロウガの声が脳裏に蘇る。
「血で支配する奴らに、血を超える道を見せてやれ」
(……私は、血のために戦うんじゃない。奪われた“生”のために)
アリアは視線を上げた。
「提案は、魅力的です。けれど――私はまだ王になる器ではない。
血に従うつもりもない」
エリオンはわずかに微笑した。
「拒むとは思っていた。だがそれでいい。
拒む意志があるうちは、血は君を喰わない」
彼は懐から小さな黒い印章を取り出した。
指先に帝国の紋章、そして裏面には古い刻印。
灰色の冠と三つの星――ヴァルステッドの紋。
「帝都に残っていた最後の記録だ。
おそらく、君の母が保管を願ったのだろう」
アリアの指が震える。
印章を受け取ると、胸の奥で何かがざわめいた。
「……母が?」
「帝国の記録では、“粛正の夜”に全員死亡。
だが、ひとつだけ報告があった。
“女が娘を抱いて祠へ向かうのを見た”と。
その報告を残したのが、私の先代――ヴァス家の監察官だ」
アリアは唇を噛む。
涙がにじみそうになるのを必死に堪える。
「……どうして、それを私に」
「血は、血を導く。君の物語はまだ序章だ。
私は“敵”ではない。……ただ、見届けるだけだ」
エリオンは踵を返し、扉へ向かう。
その背に、アリアが声を投げた。
「――監察官。あなたは、私を利用するつもりですか?」
「利用? 違うな。
君が自分の道を選ぶのを“観察”しているだけだ。
灰の王冠が、どこに落ちるのか――それを見たい」
扉が閉まる音。
残されたのは、朝の光と、印章の重み。
ミラが震える声で言う。
「アリア様……あの男、信用できません」
「ええ。だから、利用します。私が」
アリアは印章を握りしめ、立ち上がる。
まだ足はふらつくが、瞳は真っ直ぐ前を見ていた。
「この血は、もう呪いじゃない。
戦場で使う“刃”に変えてみせます」
朝日が砦の塔を照らし、灰色の空に新しい光が差した。
エリオンがついにアリアの母の存在を示唆し、帝国の「血の秩序」の裏を語りました。
アリアは力を拒まず、恐れず、己の意志で使う決意を固めます。
物語は、政治と血が交錯する新章へ。




