第一章:灰と星の少女 第4話 血の紋、封じられた家名
血は力を与え、代わりに奪う。
名を伏せた少女は、代償を胸に抱きながら前へ進む。
戦が終わり、砦に静寂が戻る。
だがその静けさは、疲れ切り、すり減った兵の息の音で満ちていた。
アリアは井戸の脇で手を洗った。
水が赤茶に染まり、指先から冷たく流れ落ちる。
返り血は乾き、皮膚に染み込むように重たい。
(戦いは終わった。……でも、震えが消えない)
手のひらを開く。
薄く、灰色の紋が浮いた気がした。
──灰冠と三星。ヴァルステッドの証。
だが、瞬きの間に消える。
(見間違いじゃない。血誓が、まだ息をしている)
胸の奥で、夜の祠の冷気が蘇るようだった。
「アリア」
ミラがそっと布を差し出す。
その手も震えている。だが、指先の力は強い。
「戦いは……怖かったでしょう?」
「……ええ。でも、もう逃げません」
ミラの瞳に、昔の主を見送る日の影が差す。
「あなたは優しすぎます。だからこそ、痛むのです」
アリアは、布を握りしめた。
(優しさは弱さじゃない。守る力になる……いつか)
砦の奥、作戦室。
ロウガが鎧の留め具を外し、机に地図を広げている。
そこへ伝令が駆け込んだ。
「帝都から文状です!」
ロウガは紙を受け取ると、封蝋を割った。
帝国紋章。赤い蜥蜴の印。
読み進めるほど、ロウガの眉が険しくなる。
アリアはわずかな距離を保ちつつ、その表情を見つめた。
「悪い知らせですか」
「……いや。最悪だ」
ロウガは紙を置いた。
「第七軍団の本隊将官が変わる。新任は、皇帝派の監視役だ」
ざわつく空気。
ロウガは拳を握りしめる。
「つまり、俺たちは内側からも殺される。『役立たずの軍団』って烙印を押すためにな」
アリアの胸に冷たい波が走る。
(粛正は、ここにも来る……)
ロウガは立ち上がり、アリアに視線を向ける。
「お前、昨日の追っ手──粛正官と言ったな」
「はい」
「帝都から命じられた“浄化”か。それとも……」
アリアは顔を伏せた。
隠すしかない。名を明かせば、ここも巻き込む。
「追われている理由があるなら言え。信じる信じないを決めるのは俺だ」
「……生きてはいけない“血”です」
ロウガは沈黙した。
その答えに、真実の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
「なら忘れろ。ここでは力が全てだ。血も名も関係ない」
その言葉は、救いにも呪いにも似ていた。
アリアは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
■ 夕刻、訓練場
槍を持つ手が痺れる。
体中が痛い。だが止まらない。
(弱さは罪。力を持たずして、何を守れる)
隣ではルークが石を磨き、弓兵が糸を張り替えている。
「……なあ、アリア」
ルークが低く言う。
「お前、昨日の戦い……怖くなかったのか」
「怖かったです。今も、震えています」
「なのに、前に出た」
「前に出なければ、何も変えられません」
ルークは苦く笑った。
「……剣より刺さるな、それ」
アリアは笑えなかった。
それほど余裕がない。胸の奥に重石がある。
(家名を告げる日は、まだ遠い)
■ 夜、砦の外れ
アリアはひとり、掌を見つめていた。
月光が肌を照らし、紋がぼんやり浮かぶ。
「……痛む」
血が、脈打つ。過去が、名を呼ぶ。
そのとき、背後の気配。
ロウガだ。
「寝ろ。明日、辺境偵察がある」
「指揮官が直接動くのですか」
「兵が腐ってる軍は、上が動くしかねえ」
アリアは目を伏せる。
「腐っているのは、兵ですか。世界ですか」
ロウガは笑わない。その目だけが、深い夜を映す。
「どっちもだ。だから、切り開く奴が必要なんだよ。……お前みたいな」
アリアは息を飲む。
ロウガは見抜いている。
この少女が、ただの迷子でないことを。
「お前は戦場で変わる。人が殺されるとき、その目は……冷たい」
アリアは拳を握った。
胸が軋む。痛みが、熱に変わる。
「奪われたものがあるから。私は、取り返したい」
「なら、生きろ。死に急ぐな」
ロウガが去る足音。
風に灰の匂い。遠い夜の残り火。
アリアはそっと呟いた。
「……ヴァルステッドは、まだ死んでいない」
掌に浮かんだ灰冠の痕が、淡く消えた。
アリアは初めて、自分の血を“重さ”として感じました。
帝都の監視役の来訪は、第七軍団にさらなる火種を落とします。
物語は、静かに、しかし確実に戦乱へと踏み出します。




