幕間 ~『ハンスのいない公爵領』~
曇天に覆われた朝、グレムート公爵城の城門を、ひとりの伝令が駆け上がる。彼の顔は蒼白で、手に握られた公印付きの書簡は汗でしっとりと濡れている。
城内では、当番の侍従長が眉をひそめ、伝令から無言で書簡を受け取る。封蝋を切り、急ぎ中身に目を通した彼の顔色が、みるみるうちに血の気を失っていく。
領主であるリカード・グレムート公爵とその息子ハンスを乗せた交易船が大嵐に遭遇し、消息不明。
静まりかえった廊下に、書簡を落とす音が響く。
ただならぬ気配に気づいた家臣たちが集まり、やがて、城中に最悪の報せが知れ渡っていく。
領民に慕われ、国を背負うはずだった二人が、共に海の彼方で行方知れずとなったことに城内の空気は重く淀んでいく。
「まさか……あの二人に限ってそんなことが……」
重臣の誰かが口にするが、否定の言葉を続ける者はいない。
あまりにも、重すぎる現実。信じたくないが、伝令の表情や書簡に記された印が、それが真実であると告げていた。
「何としてもリカード様とハンス様を見つけだすのだ!」
その一言ですぐに捜索隊が組織され、南方海域へと船が派遣される。
誰もが無事であれと祈る中、願いは届かなかった。
三日後、海から戻ってきた探索船が持ち帰ったのは、惨憺たる船の残骸だった。
折れたマストに破れた帆布、そして布に包まれた一つの遺体。
波に揉まれ、削られたそれは、もはや原型を留めていない。だが胸元には確かに、グレムート家の銀の紋章があった。
リカード・グレムート公爵。その最期は領地全土を深い悲しみで覆い尽くした。
だが悲劇は終わらない。
重く沈んだ空気の中、一人だけ笑みを浮かべる男がいたからだ。
ベルナトス・グレムート。ハンスの叔父であり、人間性に難ありと閑職に追いやられていた人物である。
彼は胸の内に秘めてきた野心を、ついに解き放とうとしていた。
城内に響く足音すら誇らしげに、ベルナトスは堂々と広間へと進む。その手には王室から届けられた一通の勅書が握られていた。
領主代行認可書。
表向きは領地の混乱を鎮めるための暫定的な措置。だがベルナトスにとって、それは新たな権力の象徴だった。
城の重臣たち、各部門の長、騎士団の者たち、商人ギルド代表。領内のすべての要職者が、広間に呼び集められた。
薄暗い室内に、冷えた緊張が走る。高い壇上に立ったベルナトスは、ゆっくりと周囲を見渡し、そして口を開いた。
「皆の者、よくぞ集まってくれた……リカード兄上の死、そしてハンスの消息不明。この未曾有の混乱を収めるため、我がベルナトス・グレムートが、王室の許しを得て領主代行に就任することとなった」
重臣たちは一斉にざわめく。しかし誰一人、声を上げて反論する者はいない。この場で異を唱えれば、どうなるかは誰の目にも明らかであるからだ。
「納得したようだな。ならもう一つ伝えておく。ハンスの婚約者、エリザベート嬢についてだが――本日をもって、私、ベルナトス・グレムートと新たにに婚約を結ぶことになった!」
その言葉は広間の空気を凍りつかせた。信じられないと、皆の顔にも軽蔑が浮かぶ。
だがそれを口に出す勇気を持つ者はいない。立ち並ぶ家臣たちは、ただうつむき、沈黙する。ただ一人を除いては……。
「お待ちください!」
壇下から鋭い声が響く。声の主であるクルツは、ハンスに仕えていた若き騎士団長だった。
「いくらなんでも、それは不義理に過ぎます。まだハンス様の生存の可能性は残されています。そのような婚約は――」
「死人に婚約者など不要だ」
「で、ですが、ハンス様は――」
「これは領主代行としての判断だ。私の決定に逆らうというのか?」
その冷たい声にクルツは悔しそうに唇を噛む。
ベルナトスは聞く耳を持たない。そう理解したクルツはエリザベートへと視線を向ける。
美しい金髪をウェーブさせ、贅沢な絹のドレスに身を包んだ少女に静かに問う。
「エリザベート嬢はよろしいのですか?」
「叔父様は贅沢させてくれますもの……ハンス様はいつも領民の血税を無駄にするなってうるさくて。正直、死んでくれて清々していますわ」
「そ、それは、あまりにも……」
反論しようとするが、クルツはすぐに黙り込む。この二人には何を言っても無駄だと諦めたのだ。
「ハンスは領民のための統治が口癖であったからな……だが私から言わせれば、それは甘い幻想に過ぎない」
彼は右手で空を切るように振りながら、冷たく言葉を続ける。
「領民を優しく扱えば付け上がるだけだ。叩き、絞り上げ、抵抗できなくなるまで押さえつける。それこそが、円滑な支配というものだ」
その言葉に、広間の空気はさらに重く沈む。
騎士たちは、拳を握りしめ、歯を食いしばる。だがこの場では抗うことができない。ベルナトスはすべてを見下ろすようにして言い放つ。
「仮にハンスが事故を生き延びたとしてもだ。潮の流れを考えれば、流れ着くのはあの無人島だ。魔物が跋扈し、人の住める土地ではない。どちらにしても生存は絶望的なのだから希望は抱かぬことだな」
ベルナトスはそう口にするが、騎士たちは受け入れない。その顔に鋭い視線を向けると、ベルナトスは広間を去る。
「ふん、いずれ膝を屈することになるというのに、忠義とは滑稽なものだな」
ベルナトスは騎士たちを嘲笑する。その声には冷酷な感情が浮かんでいたのだった。