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第一章 ~『お風呂が恋しい』~


 無人島に流れ着いてから、およそ一か月が経過した。


 リサとハンスは、なんとかサバイバル生活に慣れつつあった。最初の頃に比べれば、食料と水の確保も安定している。


 だが過酷な環境は、確実に二人の身体と心を蝕んでいった。リサは焚き火の前に腰を下ろすと、重たげに身体を投げ出す。


 燃える木の匂いに混じって、潮風がじっとりと肌にまとわりつく。


「……体、ベタベタしますね」


 リサはため息交じりに呟く。


 髪は湿気で絡まり、首筋にはうっすらと砂がこびりついている。日中の熱気と湿気の中では、タオルで拭うだけではどうにもならないほどの不快感が溜まっていた。


「わかるよ。僕も、なんていうか……まとわりつく感じがすごく気持ち悪い」

「お風呂があればと何度願ったことか……もちろん贅沢だと分かってはいるんですけどね……」


 リサは手のひらを見つめ、小さく首を振る。


「でも、もう限界です」

「うん。正直、僕も……」


 無人島に来る前、ハンスは公爵家の子息として常に清潔な環境で生きてきた。リサも、ブラック企業に勤めていたとはいえ、シャワーを浴びるくらいの余裕はあった。


 いまや、それすら夢のまた夢だ。リサはふと、海の方へ視線を向ける。打ち寄せる白い波、どこまでも続く水平線。そこである考えが浮かぶ。


「海水を温めたら。お風呂になったりしないですかね?」


 ぽつりと漏らすリサに、ハンスは即座に首を横に振る。


「海水は熱しても塩分が高いからね。皮膚に塩が付着すると、刺激でかえって肌が荒れるよ。それに傷があったら悪化するから、最悪の場合、感染症にもなりかねない」


 真面目な口調でそう答えるハンスの表情に、リサは小さく肩を落とした。


「ですよね……」

「それに、今ためてる雨水も贅沢には使えない」

「飲料用ですもんね」


 リサは苦笑しながら、雨水を貯めた鍋を一瞥する。貴重な命の水をお風呂のために無駄にはできない。


「でも、このままでは気が狂いそうです……」

「なら海辺を探索するのはどうかな? もしかしたら水源を発見できるかも」

「なるほど、いいですね、それ」


 海辺なら森の中と違い、視界が開けているため、魔物と遭遇しても逃げられる可能性が高い。水源を発見できれば、体を洗え、飲み水も増えるため、悪くない提案だった。


「それになんか、冒険みたいで、ちょっとワクワクするよね」

「ふふっ、確かに」


 二人の意見が一致する。軽く食料を口にし、少しだけ休んでから、日が傾き始める前に歩き出す。


 海沿いの道なき道を、二人は慎重に進んでいく。


 足元は柔らかな砂だけでなく、大小さまざまな石が混ざり始める。岩場より先は足場にところどころ苔や海藻が付着しており、非常に滑りやすくなっていた。


「足元、気をつけてね」


 ハンスは手にしていた枝を杖代わりにして、ぐらつく岩を確かめる。リサはその背中の後を追う。


 岩に打ち寄せる波が時折しぶきを上げて、細かい虹を作り出している。潮の匂いが鼻腔をくすぐり、服の裾を濡らすような湿った風が吹き抜けた。


 そんなときだ。ハンスが足を止める。


「どうしましたか?」

「あれ、水じゃないかな」


 ハンスの視線の先には、岩と岩の隙間を縫うようにして延びている水の流れがあった。


 湧き上がる衝動を必死に抑えながら、リサは慎重に足場を選んで前へ進む。乾いた岩を選んで踏みしめ、両手を軽く広げてバランスを取る。


 やがて、小さな流れのそばにたどり着くと、リサはそっと膝をつき、水に手を差し入れた。


 冷たく、しっとりとした感触。リサは両手でそっと水をすくい上げ、ためらいがちに舌先を伸ばした。


 一瞬、表情が固まるが、すぐに晴れ渡るような笑顔が彼女の顔に広がる。


「しょっぱくないです! これ、淡水です!」

「本当かい!」


 ハンスもすぐさま駆け寄り、水をすくって、そっと舐める。塩の苦味をまったく感じない。彼の口元にも笑みが溢れる。


「この水の流れの上流には……」

「広くて、水浴びのできる水源があるかもしれませんね」


 二人の声には、抑えきれない期待と興奮が滲んでいる。


 乾いた喉、べたついた肌。生きるためだけでなく、心を癒すためにも水を欲していた。


「行きましょう!」

「ああ!」


 リサたちは勢いよく立ち上がると、上流へ向かう。その道は決して楽ではなく、踏みしめるたびに湿った地面がぬるりと音を立て、歩みを重たくする。


 それでも二人の足取りは軽い。水浴びをできる希望が、体に力を与えていたのだ。


「……これは?」


 リサが立ち止まり、泥にくっきりと刻まれた足跡を指差す。ハンスもすぐに腰を落とした。


「鹿だね。蹄の形がはっきりしてる」


 湿った土に残された新しい蹄跡。乾ききっていない泥の感触が、ここを通ったのが最近であることを示していた。


「鹿も水を求めてやってきたのかもね」

「水源を期待できそうですね」


 リサは微笑み、さらに上流を目指す。次第に水の匂いが鼻腔をくすぐり、だんだんと濃くなっていく。


 湿った空気が肌にまとわりつき、水のせせらぎがかすかに耳に届く。


 そして視界が開けた先、そこには広々とした川が流れていた。


 太陽の光を受けて、水面はきらきらと輝き、透明な水が柔らかな音を立てながら流れている。


 川幅は想像していたよりも広く、流れも緩やかだった。


「やりましたね!」

「これならしっかりと体も洗えそうだね!」


 二人は顔を輝かせて辺りを見渡す。川岸には危険な岩場もなければ、視界も開けていた。


「じゃあ、僕はあっちの方で入ってくるよ」


 ハンスが少し離れた木陰を指さす。リサも察して、恥ずかしそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。じゃあ、私はここで」


 自然とお互いに距離を取ると、リサは川辺に膝をつき、両手で水をすくう。


 その冷たさに、思わず身震いする。けれどすぐに、ひんやりとした感触が心地よく感じられた。


「……気持ちいい」


 小さく呟きながら、リサはそっと顔を撫でるように洗う。透明な水は、汗と埃をさらっていき、額に張りついていた髪を優しくほぐしていく。


(せっかく、ここまで来ましたからね……)


 リサは川の流れを見つめながら、そっと決意する。慎重に着ていた服を脱ぐと、丁寧に畳んで川岸に置く。


 体にまとわりついていた布地が離れると、途端に肌が風を感じ、ぞくりとする。裸になったリサは、足元の小石に注意しながら、そろりと川の中へと足を踏み入れた。


 水面が膝を超え、腰に達する頃には、あまりの冷たさに思わず息を呑む。けれど、それ以上に、全身の汗を洗い流すような感覚に心が震えた。


「ふうっ……」


 ゆっくりと肩まで浸かり、顔を空に向ける。川の水が全身を撫でるたび、こびりついた疲労が少しずつ剥がれ落ちていくようだった。


 指先で髪をかき上げ、やさしく水を通すと、腕をこすって足を撫でていく。


(生き返るみたいですね……)


 一ヶ月分の疲れと汚れが、川に流れ落ちていく気がした。頬を伝う水滴を手でぬぐいながら、リサはゆっくりと深呼吸する。


(サバイバル生活は大変ですが、ブラック企業でこき使われていた頃に比べたら、まだマシなのかもしれませんね……)


 あの頃は自由も尊厳もなかった。上司の顔色をうかがいながら、壊れた機械のように働き続けていた。


 だが今は違う。過酷でも、自分の足で立ち、自分の意志で生きているからだ。


 しばらくの間、何も考えずに水に身を委ねていると、やがて、肌寒さを覚える。


 そっと足元を確かめながら水から上がると、持参したタオルで水気を拭き取る。飛行機の乗客が残してくれたタオルが、今では宝物のように思えた。


 服を着たリサは落ちている木の枝を集めて、魔法で火を付ける。赤い炎が柔らかく揺れ、冷えた空気を温めてくれる。


(やっぱり、魔法って便利ですねぇ……)


 じんわりとした温かさが、心と体をゆっくりと解していく。


(ドライヤーが欲しくなってきますが、風の魔法が使えれば再現できるのでしょうか……)


 火の魔法はすぐに覚えられた。もしかしたら風も操れるかもしれない。


(風を吹かせる……風を生み出す……)


 念じてみるが何も起きない。髪は濡れたままで、空気も静まっていた。


(習得にはコツがあるのかもしれませんね)


 火をすぐに操れたのはハンスの指導のおかげだったのだろう。風魔法の習得をひとまず諦めたリサは、炎を少しだけ強める。


 熱を髪に当て、じわじわと乾かしていく。体が温まり、髪も乾き、ようやく一息つける状態になったころ、近くの茂みがかすかに揺れる。


(まさか……魔物でしょうか……)


 緊張で背筋がこわばる。襲われた時にすぐに対処できるようにと全身から魔力を放出する。


 再び茂みが揺れて、そこから、ひょっこりと姿を現したのは——子供の虎だった。


 最初に遭遇した巨大な白銀の虎と同じく、毛は雪のように白い。体はまだ子犬ほどの大きさで、足元もふらふらとおぼつかない。


 小虎は丸い金色の瞳をぱちくりと瞬かせながら、リサをじっと見つめている。


「にゃー」


 そして小さな鳴き声をあげた。それはあまりにも無垢で、無防備で、リサの警戒心を、あっさりと吹き飛ばしてしまった。


(か、可愛いですね……)


 本能的にリサは立ち上がる。恐る恐る近づくと、小虎は逃げるどころか、ふらふらとリサに向かって歩み寄ってきた。


「にゃー」


 リサの足元でぺたんと座り込み、しっぽをゆらゆらと揺らす。リサは迎え入れるようにゆっくりと膝をつくと、そっと両手を伸ばす。


 小虎は抵抗する様子もなく、むしろ嬉しそうに頭をこすりつけてくる。そっと抱き上げると、驚くほどに軽く、ふわふわの毛並みが指の間から零れ落ちた。


「もふもふですねぇ」


 リサはうっとりと目を細める。小さな心臓の鼓動が、ぬくもりを通して伝わってくる。柔らかな毛並みが、疲れた心を優しく癒してくれた。


「あなた、どうしてこんなところにいるのですか?」


 ぽつりと問いかけるが、小虎は「にゃあ」と短く鳴き、リサの指をぺろりと舐めるだけ。


(迷子……なのでしょうか?)


 思いを巡らせていると、ふと後ろから足音が聞こえる。リサが顔を上げると、川沿いの道から、ハンスが戻ってきたところだった。


「リサ、どうだった——」


 ハンスは言いかけて、リサが抱いている小虎に気づく。


「……その魔物は?」

「たぶん、迷子です……こんなに小さいんですよ」


 ハンスはゆっくり近づき、小虎を見つめる。小さな体に、あどけない瞳。人に危害を加える様子はなかった。


「どうやら無害な魔物のようだね」


 二人の意見が一致する。


 その時だ。


 突如、森の奥深くから地響きのような咆哮が轟く。空気が震え、森の葉がざわめく中、茂みをかき分けて大きな影が現れる。


 その正体は以前、リサが目撃した口から火を吹く白銀の虎だ。だが以前と違い、見るも無残な姿をしている。


 毛並みは血で汚れ、肩から腹部にかけて大きな裂傷が走り、足元には赤い滴がぽたぽたと落ちている。


 片方の耳は裂け、片目は血に濡れて見えない。まるで何かと死闘を繰り広げた後のようだった。


(もしかして、この子の……)


 リサは息を呑む。その巨体には尋常ならざる威圧感があった。


 しかしその威圧の中に敵意はない。親虎は、よろめきながら、リサたちの前に立つ。


「どうしてこんなにボロボロに……」

「森には強大な魔物がたくさんいるからね……この世界では強者でさえ、より力のある強者に淘汰されていくんだ」


 親虎の金色の片目がリサを捉える。痛みを、悲しみを、そして最後の願いを宿した、深い眼差しだった。


 必死に願うような眼差しを受けて、リサは体がすくんだまま、その目を真っ直ぐに見返す。


「この子を頼むと伝えたいのでしょうか……」

「だろうね」


 リサはその願いに応えるため、大きく頷く。すると親虎の体を覆っていた強大な魔力の気配が消えた。その意図をハンスは察する。


「君にとどめを刺して欲しいんだと思う」

「苦しそうですからね……」

「それだけじゃない。魔物を討伐すると、その魔力は倒した者が引き継げるんだ。子供を守る力を君に与えようとしているんだよ」

「私に……」


 リサは自分の手を見つめる。細く弱々しい手だが、それでも、この手に未来を守る責任が託されたのだ。


(私が受け取らないといけない)


 小虎がリサの胸元で小さく鳴いた。その声が決意を後押しした。


 リサはそっと小虎をハンスに預けると、一歩、親虎に近づく。


 親虎は動かない。ただ静かにリサを見つめている。


「あなたの子供は私が必ず守ります」


 リサは掌に炎を灯すと、それを弓の形に変えて、一本の矢を作り出す。


 親虎は目を閉じ、静かに待つ。リサは深く息を吸い込み、矢を引き絞ると、炎の矢を放った。矢は真っ直ぐに親虎の胸へと飛び込み、一瞬、親虎の体が小さく震える。


 だが苦しむ様子はない。それからゆっくり倒れ込むと、親虎の体から柔らかな光が放たれる。無数の小さな粒子となって、リサの体へと吸い込まれていった。


(胸の奥が熱い……)


 リサは親虎の残した力が、自分の一部になったことを自然と理解する。


「大丈夫かい?」

「私は平気です」


 親虎の血も肉体も残っていない。子虎も親がどこに消えたのか分からず、寂しそうに「にゃー」と鳴いていた。


「帰ろうか……」

「ですね……」


 二人と一匹は帰路につく。その背中はどこか悲しみに満ちていたのだった。



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