第三章 ~『崖と堰の準備』~
翌朝。森の中には柔らかな朝日が差し込み、小鳥のさえずりと川のせせらぎが響いている。
リサとハンスは水浴びをするために、以前発見した川を訪れていた。お互いの気配は感じつつも、それぞれで距離を取る。
服を脱いで川の中に足を踏み入れると、ひやりとした感触に思わず身震いするが、それでも少しずつ水に慣らすように膝まで入り、ゆっくりと歩を進めていく。
やがて肩まで沈むと、澄んだ水の冷たさが火照った肌を包み込み、塩気と汗のざらつきを洗い流していく。
川の冷たさは次第に優しい刺激に変わり、リサは深く息を吐いた。
(やっぱり水浴びは最高ですね)
すぐそばではハクが短い前脚でちゃぷちゃぷと水を掻き、しぶきを跳ね上げながら無邪気に遊んでいる。
時折、リサのほうへ向かってバシャリと水が跳ねるも、彼女は苦笑しながら、そっとハクの背中に手を伸ばし、濡れた白い毛に指を滑らせる。
ハクの毛は水分をたっぷりと含み、重く垂れているが、リサの手の動きに合わせて小さくぷるぷると震える。
(きっと海水でべたついていたのが気持ち悪かったのでしょうね……)
嬉しそうに鳴くハクを見て、リサは微笑む。
しばらくは水浴びを満喫し、やがて満足したリサが川から上がると、冷たい風が肌を撫でた。
このままでは風邪を引くと、さっそく魔法を発動させる。
「乾かしますから、ハク様もジッとしていてくださいね」
「にゃ~」
一晩練習したおかげで風魔法の練度は増していた。ふんわりとした温風がハクとリサの全身を包み込んでいく。
やがて最後の一滴まで乾ききると、リサの肌にほんのりとした温もりだけが残る。衣服に袖を通し、身支度を整えると、その表情には満足げな笑みが浮かぶ。
そこへ、少し離れた森の方から踏み分ける足音が近づいてくる。リサが振り向くと、ハンスの姿が見えてくる。
彼はゆったりと歩きながら、濡れた髪を手で軽くかき上げていた。
「待たせたね」
「おかえりなさい、ハンス様。もしよろしければ、髪を乾かしましょうか?」
「助かるよ。僕の火の魔法だと体は乾かせても、髪まですべて乾かすには時間がかかりすぎるからね」
リサは手を前に差し出し、そっと魔力を練り上げる。彼女の指先から水の魔力が放たれ、ハンスの髪に残る水分が雫となって消える。
「……すごい。水だけを的確に抜き取ったんだね」
ハンスは髪に手をやり、さらりと軽くなった感触を確かめると感嘆の声を漏らす。
「水は習得してから日が経ちますから。最初は失敗ばかりでしたけど、最近はようやく細かい操作にも慣れてきました」
「君が本国に行けば、きっと多くの貴族が喉から手が出るほど欲しがる人材になるよ。火と風、水まで緻密に操れる者は、僕の知る限りでも極わずかだからね」
リサは照れたように視線をそらす。その頬にはほんの少し自信の色が滲んでいたが、視界の端で捕らえた影を見て、表情を変える。
「ハンス様、あれ……」
「鹿だね」
リサの視線の先に木陰から姿を現した複数の鹿が映る。しなやかな四肢で軽やかに歩き、大きな瞳でリサたちを一瞥する。
「今日はやけに多いですね」
「乾季だからだろうね。雨が降らないから、川に水を求めにきたんだ」
「では、雨による鳳凰の弱体化は期待できませんね」
「そうなるね」
残念そうに俯くリサたち。だがすぐに何かを思いついたのか、彼女の瞳が輝く。
「では、川の水を浴びせるのはどうでしょうか?」
「魔法で操るのかい?」
「いえ、これだけの量の水はまだ自在に操れませんので……ですが、この川を上流に進めば滝があるかもしれません。それを使えば……」
「なるほど。自然を武器にできるわけだね。試す価値は十分にありそうだ」
善は急げと、リサたちはすぐに行動を開始する。
川の流れに沿って登り、木漏れ日の中をしばらく進んだ先で、ついに轟く水音が耳に届く。
視界が開けた先には巨大な滝があった。断崖絶壁から水流が流れ落ち、深い滝壺で豪快な水柱を上げている。
辺りの空気は水飛沫で冷たく、霧のような細かい水滴が舞っていた。
「予想は的中しましたね」
「ここなら、崖下に鳳凰を誘い込めれば、上から水を一気に落とせるね」
鳳凰のような巨大な魔獣が羽ばけるだけの広さがあり、滝の落下地点の傍には、人間の足場となる岩場も広がっている。罠を仕掛けるための条件は整っていた。
「上流で岩や丸太を使って堰を作る……それで流れをせき止めておき、タイミングを合わせて開放するんだ」
頭上から大量の水を落として弱体化させる。その状態なら勝算も生まれるはずだと、リサたちの口元に笑みが浮かぶ。
しかしすぐに緊張を取り戻し、身を引き締める。まだ解決しなければならない課題が残っているからだ。
「問題はどうやって鳳凰をこの崖下まで誘い込むかだね……」
「……私が囮になります」
「駄目だ! 君にそんなことをさせるわけにはいかない!」
ハンスは滝の音を割るような声を響かせる。真剣な眼差しを向けるが、リサの瞳は揺るがない。
「ハンス様。囮役は私でなければ意味がありません。なにせ恨まれているのは日本人である私ですから」
「しかし……だからと言ってそれは……」
言葉を失ったハンスはその場に立ち尽くす。眉をひそめ、何度も唇を開いては閉じる。
やがて静かに目を閉じ、拳を震わせながら口を開く。
「……わかった。だが無理はしないで欲しい。そして危険だと思ったら声をあげるんだ。必ず助けに行くと約束するよ」
「ハンス様は本当に頼りになりますね」
儚げな笑みを浮かべると、その場にいたハクが、不安そうにリサの足元に寄り添る。ふさふさの尾を体に巻きつけ、丸くなりながらもジッとリサの顔を見上げる。
「ハク様……あなたはハンス様の側にいてサポートしてあげてください。今回だけはお願いします」
「にゃ……」
ハクは不安げに鳴くが、やがて渋々了承するようにリサの足元からそっと離れる。それぞれの想いを胸に最終決戦への覚悟を決めるのだった。




